即死、だった。
閃光が、身体をひねって起き上がろうとした如月の胸から背中を一瞬のうちに貫いていた。
何が起こったのか理解できないように、如月の瞳が大きく見開かれる。数秒あけて、身体が沈んだ。
まるで庇うように、父親の身体の上に倒れこむ。そして、二度と微動だにしなかった。
「……あんた」
如月と芥の身体の向こうに現れた男に、乱菊の唇が震えた。漆黒の髪が、風にはためいていた。人形のように整った無表情が、乱菊の前に据えられる。
「葉月! あんた、自分の家族を」
「殺したさ。それがどうした」
まるで、決まりきった言葉を読み上げるように、平坦な声だった。その全身から放たれる殺気に、乱菊は躊躇わず灰猫を向ける。
葉月の掌は、如月と芥の体のほうへ向けられたままだ。その指先に、並々ならぬ霊圧が蓄えられているのを乱菊は察した。
「亡き妻を生き返らせるためだけに永らえる父、その父に従うことしか能の無い弟。うんざりしていたのだ。
何でも願いが叶う至宝を目の前にしながら、たかが人間一人の命のために使おうなどとは。宝の持ち腐れも甚だしい。
貴様が現れて、死神だとすぐに気づいた。……結果的に私の計画の後押しをしてくれたわけだ」
乱菊の唇から、勝手に舌打ちが漏れた。とてつもなく苦いものを口にしたような気分だった。
決して、芥と如月のためなんかではない。どちらも乱菊にとっては受け入れがたい存在だった。
しかし。今目の前に立つこの男のほうが、百倍気にいらないと今の乱菊には思えた。
自分の父親と弟を殺し、母親を生き返らせようとした願いを、足蹴にするなんて。
「……あんたには、生きてる資格なんてないわ」
乱菊の憎しみを込めた言葉に、葉月はどこか愉快そうな視線を向けた。
「それなら、貴様には死神である資格はない。聞いていたぞ。自分の男の昔の女を、生き返らせようなど滑稽なことを」
「……否定は、しないわ」
乱菊はかすかに微笑むと、すぐに笑みを顔から打ち消した。そして、葉月をにらみつける。
「あんたの願いも『花』なのね。一体手に入れて、どうするつもり?」
「願いなど一つだ」
葉月はこともなげに言うと、右手を乱菊に向けた。その指先が、光芒を放ち始める。高密度な霊圧が指先に集中していく。
「おかしいと思わないか? 私は強い。間違いなく貴様よりも。それなのに、流魂街の片隅に生まれたというだけで、死神の支配を受けねばならぬ」
葉月が言いたいことは、最後まで聞かなくとも乱菊には分かった。
最悪だ、と思いながら、一週間前京楽から聞いた言葉を思い出す。
―― 「やっと平和が板についてきたこの瀞霊廷を滅ぼすことだって、できちゃうだろうね」
この男は、危険だ。なにがあろうが、あたしがここで止めなければ。果たして、葉月は口の端をゆがめて言葉を続けた。
「そんな瀞霊廷など、要らぬなぁ」
乱菊が全身を強張らせた刹那、葉月の指先から光が放たれた。
―― 打ち落とせるか?
物理的な攻撃でない以上、そのまま刀で受けても通り抜けてしまう。乱菊はとっさの判断で、灰猫に霊圧を込める。
琥珀色の光に包まれた灰猫の刀身に、閃光が吸い込まれたように見えた次の瞬間、閃光が、まるで鏡に反射したように跳ね返された。
「……ほぉ」
葉月の目がわずかに見開かれた。その口角が片方だけクッと上げられる。
「刀に霊圧を込め、閃光を跳ね返すとは。只者ではないと思っていたが、予想以上だな」
「……光栄ね」
受け止めた両腕全体が、閃光を受け止めた衝撃で痺れていた。刀を取り落とすほどではないが、何度も同じやり方で受け続けることはできないだろう。
どうする。
乱菊はめまぐるしく考える。灰猫の能力は、光のような実体を持たない物には通用しない。だとすると、本体……葉月を狙うしかない。
―― 近づかずに戦うしかないか……
灰猫の能力は接近戦よりも距離をあけた戦いのほうが向いている。
相手もそうらしいのは残念だが、慎重に距離を開け、遠くから灰猫で捉えて打ち倒す。そうでなければ乱菊の勝ち目はないと思われた。
「さて。どうするか」
図らずも、葉月が同時に言った。唇の間から、真っ赤な舌がちらりと見えた。乱菊の目には、それが舌なめずりしたように見えた。
すぐにやってくるだろう血の予感に、愉悦しているのだ。
そして弟だったモノに歩み寄ると、まるで柱でも蹴るような無感情さで、その腕を蹴り上げる。
死して尚握りしめていた大刀が宙に跳ね上げられる。その柄を握り締めると、ひょいと肩に担ぎ上げたその力に、乱菊は瞠目した。
「……案外、馬鹿力なのね」
まずいな、と心中唇を噛む。逆に、葉月はいよいよ愉しそうに笑みを浮かべる。
「如月のように見せびらかすのは愚にすぎぬ。見た目で相手の力量を判断するとは浅いな」
―― 「全く、お前はよ」
突然乱菊の脳裏に、葉月の言葉とかぶさるように、過去に聞いた言葉が再生された。
―― 「見た目で敵を判断しすぎだ。目に頼るな。霊圧で相手の力量を見るのは基本中の基本だぞ」
虚の力量を読み違え、傷を負った乱菊を助けに入った日番谷が、漏らした言葉だった。
しょうがねえな、とでも言いたそうなその翡翠色の瞳を思い出し、乱菊は唇を噛む。見てくれていたのだ、と改めて思う。
裏切った後でも尚、日番谷の言葉は自分を戒める。その時胸をよぎったのは孤独と、覚悟に近い感情だった。
もう、日番谷はいないのだ。自分の力で乗り切るしかない。
「瀞霊廷を滅ぼす手始めに、死神を殺すのも悪くない」
葉月が愉悦の笑みと共に、一歩一歩と乱菊に歩み寄ってくる。乱菊は瞬歩を遣い、背後に下がった。
あの大刀を軽々と扱う力から見ても、接近戦は乱菊が圧倒的に不利だ。そう思った時、背後の気配が、大きく膨らんだ。乳白色の光が、一気に強まる。
「……! 花?」
乱菊はとっさに背後に視線をやった。命の取り合いの最中にはあまりに似つかわしくない、やわらかな芳香が鼻腔をくすぐった。
「花が開いたか」
続いた葉月の声は、耳元で聞こえた。
「くっ!」
声を聞くと同時に、身をひねる。直後、閃光が肩を掠め飛んだ。
「いい動きだ!」
愉しんでいる、と明らかに分かる声音で、葉月は刀を振りかぶる。距離を開けなければ、と思ったが、攻撃をかわすのが精一杯だった。
「もう終わりか?」
横なぎに、葉月が刀を振りかぶる。地面に並行に奔った刃が、乱菊の脇腹を狙った。
間合いに入られた。ヒヤリとした死の予感が、背中を駆け上る。
―― やばい!
無駄と知りつつ、地面と垂直に立てた灰猫の腹で、大刀を受け止める。
火花が散ると同時に、あっという間に押し込まれた。脇差程度の長さしかない灰猫と、大刀では相手になるはずがない。
死ぬ、殺される。
初めて、その予感が胸に差込み、乱菊はそれに抵抗するように歯を食いしばった。
「冗談じゃ、ないわよッ……」
葉月がニヤリと笑うと、さらに腕に力を込めてくる。大刀の切っ先が、もう少しで乱菊の脇腹に触れる。
「こんなところで……!」
こんなところで殺されたら、日番谷を傷つけた意味がなくなってしまう。まだ、死ぬわけにはいかないのに。
「生きながら両断されてみるか?」
凍て付くような葉月の瞳が刃のようだ。少しでも、この男を日番谷と似ていると思った自分に腹が立つ。
刃が、ゆっくりと乱菊の帯の中にもぐりこむ。チリ、とした痛みと共に、葉月の刃に赤いものが走ってゆく。
「命乞いしないのか」
ばさり、と音を立て、乱菊の足元に輪を描いて帯が落ちた。
「あたし、は」
生きたいと、心の底から願ったことはなかった。体を売ってまで生き延びる自分を、馬鹿じゃないかと冷たい目で見る、もう一人の自分がいた。
松本乱菊という人間を、心から大切にしてくれるような者はこれまで現れたことが無かったから。
「馬鹿にすんじゃないわよ……」
しかしその時、体が震えるほどの激情で、乱菊は葉月を睨み返していた。
日番谷の拳に巻かれた包帯ににじんだ血が、瞼の裏に甦った。
―― 隊長……!
息苦しくなるほどの気持ちが、乱菊の胸を突き上げた。会いたい、と思った。もう一度会って、言葉を交わしたい。
特別なことでなくていい、あの何気ない日常に戻れれば、自分は何だってするだろう。失ったものの大きさに、こんな死の瀬戸際に気づくなんて。
「……なんだ?」
葉月が、初めて愉悦以外の感情が篭った声を漏らした。素肌に届いていた冷たい刃の感触が、ぴたりと不自然に止まったのを感じた。
―― な……に?
思った時には、刀が乱菊の身体から押し返された。その大刀は、空中でカタカタと小刻みに震えている。
葉月の腕に血管が浮き、全力を込めているのが分かるが、それにも関わらず刀はじりじりと離れている。乱菊は、ゆっくりと背後を振り向いた。
「松本に手ェ出すんじゃねえ」
あぁ。綺麗だ。乱菊は、場違いにもそう思った。
いつも穏やかな深い翡翠を湛えたその瞳は、怒りに駆られた時その光度が上がり、煌いて見えるのだ。
傷ついた拳にまだ包帯が巻かれているのを、乱菊は目の端に捉えた。
腰帯から引き抜いた「氷輪丸」で、日番谷が葉月の大刀を受け止め、押し返していた。
氷輪丸の鞘と大刀の刃が擦れあい、細かい火花が飛び散る。
「た……たい、」
隊長。何万回も言ってきたはずのその言葉がうまく出てこない。顔を上げることもできなかった。
ただ、全力で駆けてきたに違いない荒い息遣いが乱菊の首筋をくすぐり、胸を熱くしてゆく。
ギャリッ、と音を残し、日番谷が葉月の刀を一気に弾き飛ばした。
「伏せろっ、松本!」
動揺している心とは裏腹に、体は慣れ親しんだ命令に即座に反応した。
弧を描いて宙を飛んだ刀に、葉月が慌てて素振りで目をやる。それはカンマ数秒の間だったが、前に視線を戻した葉月の端正な瞳が見開かれる。
乱菊を乗り越えた日番谷が疾風の勢いで葉月の間合いに飛び込んだからだ。
「接近戦は危険ですっ!」
乱菊の悲鳴のような声が木霊した。その時、葉月がニヤリと笑い、日番谷に向かって指先を突き出す。
「!?」
その胴に向かって足を振り上げようとしていた日番谷が、目を見開く。指先から、閃光が奔った。
「ちっ!」
日番谷はとっさに体を捻る。閃光がチュン、と高い音を残した瞬間、日番谷の膝が葉月の胸に突き入れられた。
この至近距離でかわされると思っていなかったか、葉月の決して大柄とはいえない体が、くぐもった悲鳴と共に吹っ飛ぶ。
背後の壁に激突するのと同時に、日番谷が地面に降り立った。
日番谷の頬から、新しい血が流れた。さすがにあの距離では、閃光をかわしきれなかったのだろう。
さぁ、とその銀髪が風に揺れると同時に、紅く照り映える。同時に、鴇の声が上がった。
―― 朱雀。
火矢の炎が、屋敷にうつったのだろう。その屋根が、あっという間に炎に包まれていった。
「た、隊長。なんで……」
乱菊は、おそるおそる日番谷の背中に声をかけた。そして気づく。日番谷は、裏切られたにも関わらず、乱菊に背中を向けたままだった。
「……俺がお前を護るのは、お前が部下だからじゃねえ」
乱菊を振り返る気配は全く無い。しかし、その背中から、拒絶するような冷たさは感じない。
「じゃあ、どうして、あたしを」
「行けよ、松本。花が欲しいんだろ」
日番谷は、おそらく意図的に乱菊の言葉を遮り、氷輪丸の柄に手をやった。
「え。でも、任務は……」
「俺みてぇな男に、百年以上ついてきてくれた。餞別代りだ」
感謝してる。そう最後に、言ったのか? 日番谷は振り向かない。乱菊の唇が、かすかに震えた。しかし言葉にはならなかった。
二人の前で、黒髪の人形が、ゆっくりと起き上がろうとしていた。日番谷は声を張り上げた。
「お前の願いを叶えて来い!」
「あたしの……願い?」
乱菊の返答には、しばらく間があった。我に返ったように、日番谷の背中に呼びかける。
「隊長は! 隊長にだって、願いが……」
「花に託すような願いは、俺にはねぇ」
「……え」
「早く行け!」
閃光が、閃く。それと同時に日番谷が宙を舞った。その言葉に押されるように、乱菊は強まる乳白色の光の方角に振り向いた。
言葉を失ったまま、ゆっくりと光の方へ足を進めた。