炎に取り巻かれ、侵食された門が崩れ落ちるに至って、傭兵達はついにパニックを起こした。
「雇い主のために命賭けられるかよ!」
そう言って駆け出した傭兵の一人は、びくともせずその場に佇む少年二人に相次いで肩をぶつけ、よろめいた。
「てめぇらも、逃げたほうが身のためだぜ! 命あっての物種だ」
「そりゃ、ドーモ」
リョウは、ジンを庇うように立つと、今にも崩れ落ちそうな屋敷を見上げた。

わぁぁっ、と歓声とどよめきの入り混じった声が屋敷から聞こえたのは、その時だった。
「逃げろ! 早く屋敷から離れるんだ!」
障子を突き破り、駆けて来た十人余りの人々に、リョウとジンの視線は吸い寄せられる。
明らかに、格好が屋敷の傭兵や住人とは異なっている。あちこち繕われた粗末な着物に、この寒さの中足袋も身に着けていない一群れだ。
その中の一人、黒い髪をひっつめに結んだ娘を目にしたリョウが、身を乗り出した。
「姉ちゃん!」
「リョウ! あんた……」
古びた着物を襷がけにし、裾をまくった娘は、リョウを見るなり転がるように走ってきた。
「人質を救出したぞ!!」
サクラの張りのある声が、断末魔の咆哮を上げる屋敷の中で、ひときわ澄んで聞こえた。

「無事だったか!」
「無事だったかじゃないよ、あんたこそ」
姉、と呼ばれた娘は、リョウの頬を無言で挟んだ。血まみれで、古傷をいくつも残した体を、見下ろした。
「男の顔に、なったねぇ」
涙を浮かべると、よろめきかけたリョウの体を支える。
「全員、逃げるぞ! 動ける奴は、動けない奴を引っ担げ!」
おう、と声が上がった。ジンも駆け寄ってきた男に引き起こされる。

「これで全員か!」
「待ってくれ、サラがあっちに……」
奥を指差したジンは、愕然と目を見開いた。指の先は、びっしりと隙間なく、炎の壁で埋め尽くされていた。
「待て、ジン!」
リョウは、無言で中に押し入ろうとしたジンの左肩を掴んだ。火の粉が2人のいるところにまで降りかかり、リョウはジンを引き戻した。
炎はまるで獲物を見つけた獣のように、家に食らいついてゆく。
小さければ皆を暖め、無くてはならないものになり、激情に駆られると全てを焼き尽くす炎になる。そんな少女を、リョウは知っていた。

「いくらサラだって、火が相手じゃどうしようもねえよ!」
そう叫んだジンに、リョウは自分にも言い聞かせるように返した。
「朱雀ってのは、炎の中から何度でも蘇る火の鳥だそうだ。知ってたか?」
「……は?」
「サラは『朱雀』のリーダーなんだ。炎に殺されることはないさ」
紅蓮の炎に視線を投じた。
「まだ残党が残ってるかもしれねぇ。朱雀は、人質の後ろを護れ!」
血に濡れた刀を、グイと布で拭う。紅いその布が、血で黒く染まった。


***


「この……ガキが!」
兵衛は矢を二本同時に弓に番え、引き絞ると一気に放った。
少女は手にした短剣を、無造作に払う。振り払うような仕種で、少女を貫くはずだった鏃(くさび)はことごとく反らされた。
「なぜだ……そんな短剣が、矢に勝てるわけが」
「別に受けてるわけじゃない」
真っ向から受ければ、勢いで刀が負ける。ましてや、それほど重量もない短剣では、叩き壊されるのが落ちだ。
飛んでくる方向を見定め、ちょっと力を加えることで方向を変えてやる。サラには、飛んでくる矢はまるで止まっているように見えた。

二人は同時に、屋根の上へと飛び下りる。軽い二人の体重でも、屋根はたわみ、火の粉が散った。
火見櫓が、音を立てて、庭の真ん中に倒れてゆくのが見えた。

弓矢の弱点のひとつは、攻撃するには手放さねばならず、矢が尽きれば攻撃の手段を失うこと。
今の兵衛が、まさにその状態だった。手元に残された矢は、わずかに二本。
リョウは体のあちこちに深手を負っていたが、おそらくこの男と戦ったのだろう。矢の数を減らしてくれて助かった、と思う。
「お! 俺と手を組まないか?」
「何を今更」
思いがけないことを切り出した兵衛に、サラは眉間に皺を寄せた。
勝てないと分かって、戦略を変えたか。兵衛は、背後の炎の壁を振り返った。油と汗と血で、その横顔が光って見えた。
「お前だって、この炎の中から生きては帰れないはずだ。俺ならこの屋敷の全てを知っている! 当然、逃げ道もな」
サラはつかの間、自分を取り巻く炎を見やった。一瞬後に、自分達に向かって殺到してきてもおかしくはない。
サラは涼しげな瞳を兵衛に向けた。
「お前の取り分は、何だ?」
「花を寄こせ」
サラが無言のままなのをみて、ためらっていると思ったのだろう。兵衛は声を高めた。
「花をお前が狙っているのは知っている。だが、命のほうが大切だろ?」

花。どうして、自分はそれを求めていたのだったか? 兵衛の口が動くのを見ながら、サラはそんなことを考えていた。
頭のなかでイメージでしかない、「名も無き花」。その背後に立つ、銀髪の背中を、思い出した。
そうか。
自分はただ、ハクの背中を追いかけていただけだったんだ。ふと、思う。
彼が求めていたものを求め、欲しかったものを手に入れることで、少しでも、ハクの幻影に近づこうとして。

「花、なんてどうでもいい」
サラは、ゆっくりとそう言った。そして、短刀をゆっくりと兵衛に向ける。
「でも、お前みたいな奴にはやらない」
その時だった。不意に、サラの足元がぐらりと揺れた。もう、人ひとりの体重を支える強さもなくなっていたのだろう。
サラは身軽にその場を蹴り、隣の屋根に飛び移ろうとした。足が屋根につく直前、
ヒュッ!!
風を切り、兵衛の矢が宙を奔った。

「え」
着地するはずだった屋根が、矢の一撃できしむ。炎の勢いも手伝って、一気に崩れ落ちた。
ぐらり、とサラの体が揺れる。と同時に、背後から押しかぶさってきた炎が、サラの華奢な全身を一瞬で飲み込んだ。


「……ふ」
しばらく呆然と佇んでいた兵衛は、やがて息を吐き出すように、笑った。すぐに、狂ったような大笑へと変わる。
「ざまあ見ろ、ガキが! 花を手に入れるのは、俺だ!」
サラが消えた、真っ赤な炎の先を見やる。そして、手に持っていた最後の矢を、サラがいた辺りに放った。

ひょう、と音を立てて飛んだ矢は、炎の壁の中に突き入った。そして、何かに突き当たったように、途中で止まった。
矢の羽の部分だけが、炎の壁から突き出している。初めは、何か柱の残骸にでも突き立ったのかと思った。
矢が、震える。そして一気に、羽の部分にも火が回る。わずかに、物音がした。

「……なに」

その頃には、兵衛は後ずさっていた。
「そんな、馬鹿な」
矢を掴み取っていたのは、傷一つ無い、白いたおやかな腕。紅蓮の炎の中で、白い人影がゆっくりと身を起こす。
炎の壁が開き、まるで炎に包み込まれるようにして現れた少女に、兵衛は悲鳴を上げた。

「こんな火遊びで、わたしを焼き殺すつもり?」
ちろちろと、炎の舌がサラの頬を嬲っている。しかし、少女は全く何も感じていないらしかった。
完全に墨と化した矢が、ぽきりとその手元で折れる。
鳶色の瞳に炎が照り映え、まるで生命を灯したかのように輝いた。
短刀から鞘を取り払うと、だらりと白刃を下げて、ゆったりとした足取りで兵衛に向かって歩みを進めてきた。
まるで春の日に散歩でもするように、その足取りは悠々としている。しかし同時に、全く隙がない。兵衛の頬から、熱のためではない汗が流れた。

「お前は、化物なのか。それとも……神、なのか」
「わたしは……朱雀」
ふわり、と少女が宙を舞う。兵衛は、動けなかった。
その肩に、少女の花車(きゃしゃ)な腕が巻きつく。少女にいとおしげに絡んでいた炎が、一気に兵衛に牙を剥く。

身もよだつような断末魔と共に、炎に包まれた兵衛の体がびくん、びくんと震える。
「さよなら」
少女が、するりとその腕を解いた時には、墨と化した人間の体が、その場に崩れ落ちた。



登場人物が、ひとり、またひとりと舞台から去る。
サラは、炎の中でスッと目を閉じる。実力者だと思っていた二人のうち一人は、もうこの世の者ではないようだ。もう一人も、直に後を追う。
傭兵は、散った。朱雀も、屋敷の中からは離れた。

ふわり、と体重が無いような軽さで、サラは宙を舞う。
炎の迫る花園に、ひとり舞い降りた。その背中には炎が翼のように広がっていた。
その足元が、花の上に降りるか、降りないかのところで停まる。サラの視線は、ある一点で、止まっていた。
「どんな、花かと思えば」
覚えず、微笑んでいた。

ふと足音を聞き、サラは振り返る。
炎の向こうに、ゆっくりと歩いてくる人影が見えた。遠目からでも、女性だと分かる。
「……あの人」
残された、数少ない登場人物のひとり。間違いない、とサラは見当をつける。
「……どうか」
口に仕掛けて、自分には祈りなどふさわしくない、とすぐに気づく。
わずかに微笑を残し、サラはその場を後にした。