人影が、炎の中に見えた気がした。
そんなはずはない、と乱菊はすぐに思い直す。人間が炎の中にいられるはずがない。

火の粉が舞い始めた花園の入り口に、乱菊は肌蹴た襟をかき寄せ、佇んでいた。迫り来る炎の中で、花々は一斉にその花弁を開いている。
まるで炎に彩られる夜空に手を伸ばそうとするかのように、精一杯茎を伸ばしていた。
「……わかるの? あと少ししか命がないことが」
乱菊の前に広がる何千・何万の命たちは、当然答えを返しはしない。奇妙な静寂の中で、乱菊はふと身体の芯に痺れるような寒さを感じた。
肩と脇腹から血を流し、乱れた着物をまとった自分自身を見下ろす。
その寒さを少しでも和らげるように、襟をぎゅっと両手で寄せると、乱菊は花々を踏まぬように、ゆっくりと花園に足を踏み入れた。


耳を塞ぎたくなるほどに強く、刃が打ち合う音が響き渡った気がした。ひやりとして、乱菊は振り返る。
間違いない、その方向からは日番谷と葉月の気配を感じた。怜悧な霊圧同士が絡み合い、打ち合い、退け合う。
「……っ……」
足を止めるほどに、こみ上げてきた切ない思いに、乱菊は前に視線を戻せずにいた。
どんなときでも、揺るがず凛とそこにある、乱菊が愛した冷たい炎。全く変わらないものがまだあるのに。
日番谷と自分の関係は、ずいぶん離れたところにまできてしまった。今の2人の距離が、それを暗示しているように思えた。

「あなたの願いは、雛森を生き返らせることじゃ、ないんですか?」
届くはずの無い問いを、投げかける。返すのは、悲鳴を上げる屋敷のきしみだけだった。
この屋敷の屋根の上で、願いがあると日番谷が口にしたとき、間違いなく願いは雛森だと思った。それなのに、花に願うことはないと言う。
―― 「お前の願いを、叶えて来い」
日番谷は、そう言った。
「残酷な人ね、あなたは」
ぽつりと、そう呟く。
「あたしの願いは、あなたにしか叶えられないのに」




願っては、いけない。
乱菊は、再び花園に視線を移す。ひときわ乳白色に輝く一点を見とめ、そちらに足を向けた。
まるで夢の中のように、ぼんやりと輝くその場所から目が逸らせない。
でも、願っては、いけない。


―― 「サイナラ」
どこか困ったように眉を下げ、口元にはいつもの笑みを浮かべて、あの男は百年前、そう言った。
やっと、やっと手に入れたと思っていた居場所が、ただの幻に過ぎなかったと気づいた一瞬だった。
それから何度も、初めからそんなことわかっていた、と思おうとした。これまでだって、そうだったじゃない、と。
誰にも必要とされず、ただ流れるように生きていた。そこに戻るだけじゃない、と。笑ってみもした。
笑う傍から、涙が流れた。
「あれ」と同じことを、二度と繰り返したくない。
「あれ」をもう一度味わったら、あたしはバラバラになってしまう。
だから、願っては、いけない。
それなのに。


「やめて……」
たった数日前、この屋敷の屋根で、日番谷に抱きしめられた記憶が身に甦る。
男にしては節のない、すべらかな指が自分の肩をしっかりと包み込んでいるのを見たとき、そこから目が逸らせなかった。
なんだか、懐かしい。そう思った。
筆を操る機敏な手、刀の柄を握り締める逞しい掌。それが自分のために使われている。そう思うだけで、胸が震えた。
慣れ親しんだ日番谷のにおいが、自分の全身を包み込む。願ってしまった。ここが自分だけの居場所になれば、どんなに幸せかと。
その時の戦慄を、どう伝えよう?
「やめて!」
乱菊は、自分の声で我に返った。押し止めても押し止めてもやってくる、思いの波を止められない。

「あたしは、もう何も求めたりしない。願いなんて無い」
ひとつ、大きく息をついた。自分が混乱しきっていることなんて分かっている。心をつなぎとめるように、自分に言い聞かせた。
「ひなもりを。いきかえらせなきゃ」
夢の中のようにふわふわとした足元の先に、乱菊が「それ」を見つけたのは、そのときだった。
小さく声を上げて、乱菊はその場に、跪く。



名も無き花。
初めてその存在を京楽から聞かされたとき、無意識に自分と重ね合わせていた。
「個」を持たず、それゆえに「名」もない。それは、これまでの乱菊の生き方、そのものだった。
―― 乱菊。
いつか誰かが、数限りない人々の中から自分だけを見つけ出し、名前を呼んでくれる。
そうしたら、自分は「名」を得、その人のいる場所が、自分の居場所になる。
そんな子供じみた憧憬を抱え続けて、もうどれくらい経つだろう。
そして今になってやっと、その憧憬が叶えられることはない、ということが分かった。
なぜなら、彼女がやっとたどり着いた男の胸には、別の女性がいたのだから。

「……ねぇ、隊長」
その男に、乱菊はひとり、静かに呼びかける。
「浪漫だと思います? 一度だけ誰かの願いを叶えて、ただ散っていく名も無き花」
まったく同じ問いを数日前、日番谷に問いかけた。
「『そんな浪漫はいらねえよ』って……今でも思っていますか?」
所詮、自分は日番谷の「幸せ」にはなれない。
それならばいっそ、彼の願いのために花開き、願いを叶えて散り果てる。
そんな生き方がしたかった、なんて。
「分かってくれないでしょうね、やっぱり」
炎をはらんだ風が、花を散らしてゆく。乱菊の蜂蜜色の髪を下から吹き上げる。

乱菊は、ゆっくりと微笑んだ。その瞳は、他の花にまざって揺れている、一輪の花に注がれていた。
「やっと、出会えたのね、あんたに」
本当に、長かったわ。そっと、白い指を伸ばす。その華奢な爪先に弾かれて、花弁が細かく震えた。


「名も無き花」は、まるで雪のひとひらのように白く、他の花の中に隠れるようにして咲いていた。
それは、どんな願いでも叶えるとか、王族の宝であるとか、そんな前評判が嘘になるほど素朴でどこにでもあるようなただ白い花。
乱菊は、そのあまりにか弱い姿に、言葉をなくす。

その花弁は、乱菊の掌の中にすっぽり隠れてしまうほど小さく、茎も細い。
だがまるでずっと行き続けたいとでも言うように、その花弁を夜空へむけ、まっすぐに咲いていた。
「健気ね、あんたは」
ちょん、と指先で花をつつく。同時に乱菊の頬を滑った涙が花弁を打ち、花はまるでお辞儀をするように前へ揺れた。
「あたしなんかの願いのために枯らしちゃ、もったいないわね」
ぽろぽろと、涙が零れ落ちてゆく。


あぁ。
万感の想いをこめてもう一度、嘆息を漏らした。
あんたも、きっと呼んで欲しいに違いない。
抑えても抑えてもこみ上げてくる嗚咽を抑えきれず、乱菊は口元を押さえた。
「名も無き花」などと呼ばれて、誰かの願いを叶えて散るだけの存在ではなく、
本当の名前を、
「あたし」は、

花弁が、ふわりと風に舞い揺れた。それを視線の端に捉えた時、
「乱菊!!」
花に、名が与えられた。



「……え」
この、声を間違えるはずはない。突然目の前に現れた気配に身を引くよりも早く、伸ばされたその手に、肩を掴まれ引き寄せられた。
その力の強さに、乱菊は一度、喘いだ。

「お前、」
顔を覗き込まれ、自然と瞳を覗き込む格好になった。見慣れた翡翠は、泣きそうに揺れていた。
全身が、大きく喘いでいるのが分かる。鼓動も早い。日番谷には珍しいことだ、とぼんやりと思う。
「願いを、かなえたのか? 雛森、を」
そこまで言った時、日番谷は乱菊のすぐ傍で揺れる花弁に気づいた。
大きくついたため息と同時に、へなへなと地面に座り込んでしまった。その銀色の頭を、乱菊はどこかぼんやりしたまま、両膝を立てた格好で見下ろした。
「もう……間に合わないかと思った」
「どうしてですか」
乱菊の瞳に残った涙が、また頬を伝った。


「隊長の望みは、雛森を生き返らせることじゃなかったんですか」
「違う」
日番谷は顔をあげ、乱菊の顔をまっすぐに見上げてきた。
そしてもう一度、違う、と口の中で呟く。

「雛森は、藍染がいねぇ世界で生きていたいなんて望まない。だからいいんだ、このままで」
「でも……」
「雛森が惚れてたのは、藍染だ。俺じゃねえ」
どうして、と乱菊は思う。
「どうして、そんな優しい目ができるんですか」
「アイツは最期に、俺の『願い』を教えてくれたからな」




最期に目にした、雛森の表情を日番谷は思い出す。どこか突き抜けた、清清しい表情をしていた。
自分の願いどおりに生き抜けたなら、その人生の長短に関わらず、あんな表情ができるものなのだろうか。
今でも日番谷の脳裏に、春の風のように柔らかく微笑む彼女は、もう日番谷の年齢よりもずいぶん下になってしまったけれど。
相変わらず姉のような顔をして、彼をしかって見せるのだ。あたしを生き返らせようなんて考えちゃだめだよ、と。
雛森がやすらかな眠りを望むなら、自分は見守り続けよう。これまで百年、そうしてきたのと同じように。

「……俺の願いは、お前にしか叶えられないんだ」
日番谷は、静かにそう告げる。心が全く震えず、ただ穏やかな気持ちでいられたことが不思議だった。
乱菊を見下ろし、小さな肩だと思う。初めて会った時は、さっそうと風を切って歩くその肩に、憧れを乗せて見ていたものだった。
隊長副隊長の関係になってからも、まだ幼く経験不足な自分を庇い、戦い抜いてくれた。
「信頼」という名のもとに背中合わせで過ごした百年以上の年月、自分に背を向けた彼女が、どんな顔をしているのか。知ることはなかったと思う。
30センチも無い、その距離。日番谷は腰を上げると、乱菊と視線を合わせた。伸ばされた右手が、乱菊の髪の耳の辺りを滑り、肩を、二の腕を滑ってゆく。


「た、隊長」
魂が、震える鼓動が胸から響いてくる。
わからない。日番谷の願いが、分からない。
こんな優しい手で、撫でられたことなんてないもの。
こんな穏やかな声音で声を、かけられたこともない。
あたしを求めるような、こんな目で、
掌が、うなじに触れる。あたたかいと思うまもなく、そっと引き寄せられた。
涙が弧を描き、日番谷の着物の袖に吸い込まれてゆく。

ふわりと両腕が乱菊を包み込む。
額を肩に押し付けても、日番谷は微動だにしなかった。
ここが自分の居場所になればと、願ってしまったのと同じ場所に、戻ってこれた。
「……名前を呼んで? もう一度」
「乱菊」
すぐに返された名前に、微笑む。
「そんなことでいいのかよ? お前の願いは」
「……あなたこそ」
答えは、力いっぱい乱菊を抱きしめた腕によって返された。


火が、屋敷を覆い隠していく。一階から二階へと、突き上げるような炎が、空を焦がしてゆく。
芥が、覆いかぶさった如月が、炎に飲まれる。葉月の体も、同じように覆ってゆく。
その光は、去ってゆくゆく朱雀たちの背中をも照らす。
それでも離れずにいるふたりの隣で、可憐な白い花弁が揺れていた。