瀞霊廷の西門・白道門の前に仁王立ちになった大男は、瀞霊壁を乗り越えて現れた日番谷を見るなり、満面の笑みを浮かべた。
「おお、冬獅郎! 来てくれたか。さすが、早ぇなぁ」
「そんなデッカイ声で呼ばれたら来るしかねぇだろ! ったく」
幼い外見に似合わない、苦虫を噛み潰したような顔で、日番谷は児丹坊の肩に飛び降りた。
十メートル以上ある巨体のため、肩に腰掛けられるくらい日番谷が小さく見える。

児丹坊は、首を縮めるようにして、肩に座った日番谷を見て両眉を下げた。
「それがよ。困ったことになったんだ」
「俺を困らせるほどにか!?」
講義を中断せざるを得なかった、日番谷の不機嫌は収まらない。しかし、それくらいで動じているようでは日番谷の友人は務まらない。
「それがよ。俺、許可を得てねぇ奴を、通しちまったんだ」
「あ? 旅禍かよ」
また? と言おうとして日番谷は言葉を止めた。自然と眉間の皺が深くなる。
黒崎一護を初めとする旅禍は、この西門を突破して瀞霊廷に侵入した。その記憶はまだ新しい。
とはいえ、児丹坊は一護たちの侵入以前の三百年間、一度たりとも侵入者を許さなかった剛の者なのだ。
そうそう、次々と旅禍を通すとは考えにくかった。

「違う」
しかし、児丹坊はのんびりと続けた。
「ていうか、逆なんだ。流魂街から瀞霊廷に侵入したんじゃねぇ。瀞霊廷から、流魂街に脱出したんだ」
日番谷は、返事の代わりに眉を顰めた。
「誰だよ。死神じゃねぇのか」
「うぅん。誰かは分からねぇな」
「聞けよ、本人に」
「そりゃ無理だ」
児丹坊は豪快に、全身を揺らせて笑い出す。バランスを崩した日番谷は、そのままするりと地面に降り立ち、笑い続ける大男を見上げた。
「なんでだよ?」
「赤ん坊なんだ。まだしゃべれねぇよ」

「……赤ん坊?」
日番谷が答えるには、すこし間があった。笑いやんだ児丹坊が頷く。
「ああ。なんか、誰かが瀞霊壁の通行扉を開けっぱなしにしてたんだな。そっから、這ってでてきちまったみたいなんだが」
無言のまま肩を落とした日番谷を見て失望されたと思ったのか、児丹坊は焦った口調になる。
「面目ねぇ。一護の時といい、二回目だからな。あの後、二度とどんな奴が来ても通さねぇって誓ったんだけどよ。まさか、こおんなちっこいのが……」
そこまで言いかけ、途中で言葉を切る。日番谷が、止めるように掌を児丹坊に向けたからだ。
「……ていうかよ。笑ってねぇか? おめ」
「笑かすなよ、全く」
もう片方の掌で顔を押さえていた日番谷は、こらえきれないように笑顔を見せる。
「二度と旅禍を通さないと誓っておいて、赤ん坊を通すなんて。オマエらしいぜ」
「ちぇ」
児丹坊はバツが悪そうな顔をしたが、やがて照れくさそうな笑顔を返す。
「でもよぉ。お前がいてくれてよかったぜ。他の隊長なら、笑って済ませるどころじゃねぇだろうしな」
「なんだ、他の隊長のことを知ってるようなこと言うじゃねぇ……」
日番谷がそこまで言いかけた時だった。頼りなげな赤ん坊の泣き声が、近くの古びた小屋から聞こえてきたのに、言葉を切る。
二人は顔を見合わせた。



「……邪魔するぜ」
すべりが悪い引き戸をがたがたと言わせながら、こじ開ける。
外が明るい上、家の中に燈がないために部屋の中は薄暗かった。
むずかる赤ん坊の声と共に、乳臭い匂いが鼻腔に届き、日番谷は眉を顰める。
「あぁ、瀞霊廷の人かい。待ちかねたよ」
ひょい、と振り返った女の白い肌が、やけに目に付いた。
豊満な、大柄な女だ。粗末な着物の前は大きくはだけられ、露になった乳房に、まだ数ヶ月くらいの赤ん坊が吸いついている。
「失礼」
日番谷はとっさに、弾かれたように横を向いた。豪快な笑い声が、その横顔にぶち当たるように響く。
「なァんだね、隊長様が来るっていうからどんなのかと思ったら、まだ可愛い子供じゃないか。
こんな使い古し、いくら見てもらってもかまやしないよ」
そう言って、恥じらいのカケラもなく、胸をはだけて見せる。
だからと言って、そうですかと近くに言って見入るというわけにもいかない。日番谷は笑い声を後に、早々に退散した。


「どうだった?」
外に出た途端、その大きすぎる体のために中に入れなかった児丹坊が、日番谷を覗き込む。
「え? どうだったって……」
乱菊とは別の意味で迫力があった女を思い浮かべ、日番谷は絶句する。
「あの子だよ。どこの子か分かったか?」
「分かるかよ!」
「何怒ってんだ……」
「怒ってねぇ。確かにあの着物、貴族の赤ん坊だろうけど……死神は、貴族とは接点ねぇんだよ。どこの家に赤ん坊がいるかなんて、把握してねぇ」
「じゃ、中に連れて入ってくれよ」
ううん、と日番谷は返事の代わりに唸った。

確かに、児丹坊の言っていることは理にかなっている、死神と貴族以外に、瀞霊廷に入れる者はいないのだから。
ここは日番谷が赤ん坊を連れて瀞霊廷に戻り、親を探すのが一番良いだろうことはよく分かる。
ただ……日番谷は、赤ん坊が苦手なのだ。
赤ん坊と一つ屋根の下で暮らしたこともあるが、澪は日番谷にとっては例外だ。
「あやす」という行為が絶望的に苦手な上、あんな柔らかな生き物、触ったら傷つけそうで恐ろしい。

「しょうがねぇな……」
泣かれるかもしれないが一切無視して、四番隊に連れて行けば誰かが面倒を見てくれるだろう。
忙しそうなら十番隊に戻れば、乱菊ならそれなりに子供の相手もしてくれそうな気がした。
ため息をついた日番谷が、赤ん坊のいる小屋に向き直った時だった。
その場の空気とはあまりにも不釣合いな匂いが、濃厚にその場に漂う。
血のにおいだ。日番谷がそう思った時には、児丹坊は驚きと恐怖の入り混じった顔を背後に向けていた。

「……ビビんな、児丹坊。俺たちに用はねぇだろ」
小声で、傍らに立つ児丹坊に言うと、日番谷は歩いてくる一行に向き直った。
黒装束の死神達の集団が、黒い影のようにゆっくりと近づく。
それと同時に広がる血のにおいに、その場にいた流魂街の住人達が悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように、小屋の中へと姿を消す。
気づけば、その死神たちと向かい合うのは、日番谷と児丹坊だけになっていた。

三番隊か、と察した日番谷は、眉間にそれはそれは深い皺を寄せた。いけ好かない男がいるからだ。
「日番谷隊長。お疲れ様です」
薄色の髪をした男、吉良イヅルが日番谷に向かって頭を下げる。
その髪といわず、顔といわず、泥とも血ともつかないものがこびりついている。
死覇装が黒いために分かりづらいが、もし他の色ならば、服の色は赤に染まって見えるだろう。
彼に付き従う十数名の死神達も、似たり寄ったりの外見をしていた。
「……。ご苦労」
そういいながらも、日番谷は隣に立つ児丹坊の震えを、気遣わしげに横目で見上げる。
この男が、こんなに恐怖を露にするところを、初めて見たからだ。
そこまで怯えさせるに足るのは、きっとただ一人。

「……あァ、十番隊長さんか」
日番谷より少し暗い、銀色の髪を持つ、糸のような細い目をした男。
日番谷と視線が合うと同時に、その両方の口角が持ち上がる。
この男、市丸ギンだけは髪にも肌にも血は飛んでいない。
しかし、その全身から漂ってくる血の匂いは、おそらく他の誰よりも……強い。
児丹坊が一歩下がる。逆に日番谷は一歩出る。そして、市丸に対峙した。