匕首の腹が、ぴたりと頬に張りついたような冷たさが、その場には満ちていた。
気温は真冬のように低く、吹き抜ける風は確実に体温を奪ってゆく。
空は、かつて青かったことを忘れたように灰色がかっていた。
まるで水彩絵の具を幾重にも塗りつけたような抑揚のない雲が、覆っているのだ。
見渡せば、雲は遠くで地平線とつながっていた。

どこまでも続く灰色の大地は、おそろしいくらい何もなかった。
ところどころ鈍く光って見えるのは、地面が凍っている証拠だ。
打ち捨てられたような、一抱えほどの大きさの岩がところどころに転っている。
唯一視界に入る木は立ち枯れていて、骨のような細い枝はやはり、凍てついている。
草一本、人の足跡ひとつ、見当たらない平坦な土地。
ここで生きているのは俺だけ――
日番谷は、見渡す限りの表現の中ただ一人、立ち尽くしていた。


一歩、足を踏み出した。足の裏に固い感触があると同時に、乾いた音がして氷が砕けた。
どんどんと、空気は冷え込んでゆく。パキッ、と響いた音に顔を上げると、さっき立ち枯れていた木が、冷たさに耐えかねたように折れて地面に落ちるのが見えた。
生きとし生けるものが死に絶えるほどのこの冷気の中で、日番谷は寒いとは思わない。
目を閉じる。風が頬を、喉を、腕を、足を通り過ぎてゆく……それが心地よい。
そう。生きているのは、俺だけだ。

「ばあちゃん、雛森……」
不意に、言葉が口をついた。口をつくと同時に、恐ろしくなる。
一体ここはどこなのだ。潤林安は、一緒に暮らしているあの二人は、この寒さの中でどうしているのだ。
足元から駆け上がってくるような恐怖に、鼓動が早くなるのを感じた。
―― 生きて、いるのか? まさか……
凍てついた大地を蹴り、走り出す。
足元で霜柱が次々と割れる。その音だけが、大地に木霊している。



見慣れたはずの潤林安の街並は、すっかり様相を変えていた。
ソウル・ソサエティの中でも最も広く、最も栄えていて、安全な街の一つだといわれていたのが、嘘のようだった。
地面は氷に覆い尽くされ、板張りの壁は凍りつき、軒下に飾られていた旗は風にそよいだそのままの形で固まっていた。
よく通っていた甘味処には人ひとりおらず、カウンターには氷漬けの金が散らばっている。
いつも通りの生活を送っていたこの街に、何かが冷たい息を吹きかけ、一瞬のうちに全てを凍らせてしまったかのようだった。
そして、全ての命を同時に、奪い去ってしまった。

「……まさか」
喉が張りついたように、声がでない。ごくりと唾を飲み込む。
自分の体をふと見下ろすと、全身の輪郭が白く光って見えた。
霊圧が、全く意識していないにも関わらず、膨れ上がっているのが自分でも分かった。
「やめろ、氷輪丸」
俺だけが感じない寒さ。俺だけを殺さない霊圧。
誰も返事をする者はいない。耳鳴りがするほどの沈黙が、答えだった。

どうしよう、どうしたらいい?
動揺が広がる。自分の霊圧が、まるで他人のもののように全くコントロールできないのだ。
このままでは……
―― 何を動揺している?
自分の中で声が聞こえた気がした。
―― お前は潤林安の住人を憎んでいた。お前を忌まわしいもののように避けた住人たちを。
ずきん、と不意に右手の甲が痛む。左手で庇うように掴んだ。
「違う。俺は、そんな――」
―― 死んでしまえばよいと。そう思っていたのはお前だろう。せっかく願いどおりに……
「やめろ!!」
叫んだ、自分の声で気がついた。
頭の中で聞こえる声と、自分の声は同じだと。


違う、違う違う。俺はこんなことを望んでなんかいなかった!
全力で走っていないと、混乱の波に追いつかれそうだった。
気づけば、足は通いなれた家へと向っていた。
見慣れた、粗末な平屋が見える。板張りの壁、同じく板でできていて、上に重しの石を乗せただけの粗末な外観。
部屋といえる部屋は一軒しかない、潤林安にはよくある形の家だ。
近づくと同時に、鼓動が痛いくらいに胸を叩く。一足ごとに、力が抜けていきそうだった。
生きていてくれ。祈るような気持ちだった。

凍りついていた引き戸の取っ手に、手をかける。勢いのままに引きあけると、耳障りな音と共にあっさりと開いた。
土間に足を踏み入れる、おそろしいほどにひんやりと冷たかった。
中は薄暗く、まるで夕暮れのようだ。
「ばあちゃん! 雛……!」
なりふり構わず、足をもつれさせながら、中へ駆けこむ。そして狭い部屋を見渡した。
節くれだった畳のへり、傷のついた古箪笥。霜でまっしろに見える。
そして、俺は棒立ちになったまま、部屋の隅を凝視した。
ガラスの中の花細工のように氷に覆われた二人分の腕が、それは、それは青白く――


***


「……!!」
自分の悲鳴で、日番谷は目を覚ました。

最初に視界に映ったのは、天井へと差し伸ばされた自分の手の甲だった。
無様なくらい、震えている。
まるで水の中から顔を出したかのように、息が荒い。全身もびっしょりと汗で濡れていた。
おぼろな光が、障子を通って部屋の中をぼんやりと照らし出していた。
間もなく、夜明けのようだ。
一瞬自分がどこにいるのか分からず、日番谷は息を荒げたまま、障子に映る朱色の光を見つめていた。

一分、いや十分くらいはそのままでいただろうか。時間の感覚がなく、よく分からなかった。
日番谷はふぅ、と息をつき、強張った腕を下ろした。
潤林安など、とんでもない昔の夢を見たものだ。
ここは潤林安ではなく瀞霊廷の自室で、自分はもう未熟ではなく、護廷の隊長だ。

汗が張りついた寝巻きが気持ち悪い、と思うほどには冷静になっていた。
立ち上がると、剥ぐように着物を脱ぎ捨て、畳の上に投げ出す。
「……まだ、気にしてたんだな」
壁に無造作に立てかけられた1.5メートルほどの長細い鏡に、青ざめた少年の顔が映っている。
その右手の甲に残ったかすかな古傷に、視線が吸い寄せられる。
勝手に、苦笑のような自嘲のような笑みが唇に乗った。