瞳を閉じ、両手で氷輪丸の柄を握り締める。
指に馴染む柄糸の感触。手の内にあると、それだけで気持ちが落ち着く。
「……霜天に座せ、氷輪丸」
正眼に構え、静かに唱えた。
銀色に輝く刀身から冷気が放たれ、周囲の空気を圧倒していく。
目を閉じると、自分自身が冷気そのものになって周囲に拡散していくような、錯覚を覚える。

両目を開くと、一面の氷原が視界にうつる。
一瞬今朝の夢を思い出し、ぎゅっと瞳に力を込めた。
―― 自分の手綱を握るんだ。
そう、自分に言い聞かせる。

「……卍解。大紅蓮氷輪丸!」
柄を強く握りしめ、間断なく卍解へと段階を進める。
噴出す霊圧が氷となり、体を護るように覆ってゆく。
―― まだだ……
念ずるように、そう思う。ここはまだ、限界じゃない。
「大紅蓮氷輪丸」の状態では、きっとまだ卍解ではないのだと、最近思うようになっている。
この「次」が―― ひとつ扉を開ければそこに、また次の段階があるような気がしているのだ。
少し前まで、思いもしなかったことだった。少しずつ、これでも成長しているということなのか。

自分の中に、一本の芯が通っているのをイメージする。
その芯に向って、意識を少しずつ少しずつ集中させてゆく、尖らせてゆく。
その芯が細く、細くなり、まるで一本の線のようになるまで――
「……っ!!」
極限まで集中しそうになった瞬間、日番谷は目を見開く。
集中力が、途端に全て霧散してしまう。今更かき集めようとしても、無駄だった。
大きく肺に息を吸い込み、吐き出す。

不思議だ、と自分でも思う。
どれほど強大な敵を目の前にしても、おびえたことなど一度もない。
それなのに日番谷は、自分が恐ろしいのだ。

何回やっても、同じだった。
まだ見ぬ領域へ足を踏み入れようとするたび、それを拒否する自分がいる。
臆病風に吹かれている場合か、それどころじゃない、と叱咤しても状況は変わらない。
卍解できなければ、どうやって藍染と戦う。どうやって瀞霊廷を守るというのだ。
その決意とは裏腹に脳裏に浮かんできた今朝の夢……氷漬けの町のイメージを、振り払った。


もう一度だ、と刀を握りしめる。いつになくそれは、重く感じた。
それに、両腕がこわばったように、うまく動かなかった。
左の拳で右の手首を叩いた時やっと、両手共に感覚がないことに気づく。
面倒くせぇな、と舌打ちをした時、ふと周囲に霊圧を感じて手を止めた。

「……松本? 他の奴らも、どうしたんだ」
大地に光が斜めに差し込み、細かい氷の粒がひとつひとつ、光っている。
その角度から、朝の7時頃だ、と想像する。
始業は9時で、徒歩数分の場所に勤務先があるため、死神たちの起床はそんなに早くない。
8時に起きれば、十分朝食を取って身支度をして、出廷することは可能だ。
少なくとも……日番谷の副官である松本乱菊は、8時半まで寝ていると公言していたはずなのに。

―― なんで、起きてんだ……?
起きているどころか、一目散にこっちに向っている霊圧をいくつも感じるではないか。
どうやら、日番谷の霊圧が急に上がったのを感じ取り、心配しているのだろう。
どうしようか、と頭の中で考える。
周囲三里に張り巡らせた、結界の強度を確認する。
これまで誰にも破られたことのない強度を誇る結界だ。乱菊たちが侵入するのは不可能だろう。
となれば、こちらの意に反して侵入してきて、こちらの霊圧に巻き込まれることはないはずだ。

悪いな、と思いながら刀に向き直る。
いつもなら修行を中断するところだが、今は憑かれたように刀を振るっていたかった。


再び集中し、霊圧を吊り上げてゆく。
「……卍……」
しかし、その声は中途で断ち切られた。唐突に、背後で自分以外の霊圧が膨らんだからだ。
振り返った日番谷の目に、さっきまで傷一つなかった結界が砕け散るのが見えた。
黄金色の霊圧が、まるで雷のように立ち上っている。

「……更木?」
昼間でも寝ているあの男が、こんな早朝に起きているとは思いづらいが……これほど激しい霊圧の持ち主が、そうそういるとは考えたくない。
日番谷はさすがに手を止め、結界の向こうから現れようとしている人物と向き合った。
「……誰だ?」
土煙がでよく見えないが、最強度の結界をこうもやすやすと破る力の持ち主だ。自然と声も強張った。

「おはようございます、日番谷隊長」
聞こえてきたのは全く思いがけず、優雅な女性の声だった。
高すぎず低すぎず、穏やかなその声音は、さきほどあれだけの霊圧を放った人物とは思われない。
しかし、その声を聞くと同時に日番谷は納得した。同時に、刀の切っ先を下ろす。
「……おはようございます、卯ノ花隊長。何か用ですか?」
敬語は得意とは言いがたいし、そもそも意図的に使っていないことも多いため一向上達しない。
しかし、卯ノ花にだけは別格だった。

華奢な体にまとった白い隊首羽織が、ふわりと風に膨らむ。
腰下までありそうな長く黒い髪を、三つ編みに束ねていた。
しかし、普通の三つ編みが背中に垂らすのに引き換え、彼女は首の前を通し、胸の前に流しているのが独特に見えた。
黒目がちの穏やかな瞳が、日番谷をじっと見つめている。
口元には、あるかなしかの微笑が浮かんでいる。
しかし、日番谷の腕に視線をやると同時に、その細い眉が顰められた。

「……松本副隊長が、あなたのことを心配して私のところに来られたのです。それより、ご自分の腕がどうなっているかお気づきですか? ひどい凍傷ですよ」
「え? ……あぁ」
何か両手が動かしづらいと思ったら、理由はそれだったのか。
改めて見下ろしてみれば、両腕は爪の先から肘の辺りまで、どす黒い凍傷に覆われていた。
死覇装の袖に覆われて見えないが、この調子だと二の腕もひどいことになっているだろう。

「大丈夫です、これくらい」
じっと見つめてくる卯ノ花から、日番谷は視線をそらした。
確かに軽傷ではないが、腕をなくすほどではない。なくしたとしてもその時に治療すればよい――と、無頓着に考えていた。
「修行を続けます。松本や他の奴らには、うまく言っておいてくれませんか」
と、背を向ける。卯ノ花がふぅ、と軽く息をついたのが分かった。
「それは、できません」
ふわりと穏やかな風が吹く。振り返った時は、黒い影がすぐ傍にあった。
「そんな怪我をした貴方を放置して、うまく言うことなどできません。診せてください」
ぎくりとする。白いたおやかな手は、氷輪丸の刀身を握っていた。
日番谷が少しでも刀を引けば、掌が切れてしまうだろう。

「……」
ふたりの視線が交錯したのは、束の間だった。
「刀を放してくださいな」
優しい口調だが、有無を言わせない力を秘めている。
日番谷は、ふぅ、とため息をついて、卯ノ花に告げた。
「まったく、貴女にはかなわない」


かすかな金属の音を立てて、卯ノ花が氷輪丸の刀身を鞘に納める。
日番谷が腰掛けた岩に、そっと立てかけた。
「攻撃することに集中しすぎると、守りがおろそかになりますよ」
日番谷の前にかがみこみ、その両腕をそっと取る。凍傷の範囲の広さに、また眉を顰めた。

やわらかな体温が、あたたかい空気の塊になって日番谷を覆う。
闇が近づいてくるみたいだ、と何となく思う。
濡羽色の髪、漆黒の瞳。その外見からだろうか、卯ノ花には他の死神よりも、黒のイメージが強い。
子供の頃、家の屋根に座って、闇に包まれるのを待っていた。
静かで、柔らかで、包み込むようで、秘密に満ちている。
闇は、嫌いではなかった。

「……貴方は、変わりませんね。初めてお会いした時から」
腕の凍傷が、卯ノ花に触れられただけで少しずつ消えてゆく。
「……そんなこと、ないです」
「変わりませんよ。貴方はいつも、傷だらけです」
卯ノ花の視線は、日番谷の右手に落とされている。
かすかに今でも残る、傷跡に。
「……知ってますか、卯ノ花隊長」
日番谷は、不意に声をかけた。
「大紅蓮氷輪丸、の大紅蓮は……地獄の名だそうです」
「……日番谷隊長?」
卯ノ花が顔をあげる。しかし日番谷は、なんでもないです、とすぐ首を振った。



「大紅蓮」のくだりは、wikipediaからの引用です。
氷天百華葬のイメージは、ここから来てるのかもしれないですね。
黒縄っていうのも地獄の名前なんですね、さすが死神!

[2009年 11月 3日]