学生時代の特に前半は、ろくな思い出がない。
授業は退屈で、学ぶことがあるのだろうかと思うほどだった。
鬼道も、瞬歩も、剣術も、一度やればたいがい飲み込むことができた。
当然だと思っていた。
潤林安は割合治安がいい場所だったが、それでも弱肉強食が支配する流魂街の一部だ。
どんなことでさえ、教え込まれて一度で身につけられなければ、命を落すこともあるのだ。
「練習」ができるのを当然と思っている、貴族たちと自分は違う。

口に出さなくても、思っていることは周囲には伝わってしまうらしい。
憧憬のまなざしを受けると同時に、焼けつくような憎悪の視線も感じた。
特に……貴族の息子や娘たちの敵意は、うんざりするほどのものがあった。
―― 「あんな、流魂街出身の子供に負けたりして。何をやっているの!」
学校にまでやってきた、しかめつらしい顔をした母親らしき女に、説教されている同級生を見たこともある。

負けて悔しいなら、超えるよう努力をすればいいじゃないか。日番谷はそう思う。
抜かれる気など毛頭なかったけれど。
少なくとも、こんなことをしているよりかはよっぽど……マシだ。

「そっち行ったぞ! 逃がすな!!」
背後から声が聞こえて、日番谷はわずかに振り返った。
白い漆喰で固められた塀の角から、自分と同じ真央霊術院の学生服姿の生徒が駆け出す。
おう、とあちこちから呼応する声が上がり、数人が日番谷の行く手を阻む。

空は茜色を通り越し、どんよりとした赤に染まっていた。
赤い光の中、何人もの影が長く尾を引いている。四番隊舎をすぐ隣に見ることができる、砂利ひとつなく掃き清められた通りだった。
ぜえ、はぁ、と喘ぐ息が、高い塀に跳ね返る。右の四番隊舎もひっそりと静まり返っている。

「へっ、逃げてばっかりの臆病者がよ。やり返しもできねぇのか」
「何が天才児だ! 先生にひいきされやがってよ」
「辞めちまえよ、学校なんて。お前なんかいなくなっちまえばいいんだ」
どんどん間合いを詰めてくる生徒たちに、日番谷はじりじりと下がる。背中が塀についたのを見て、周囲から嘲笑が起こった。
「しかし見ろよ、本当に銀色の髪だぜ! 目も青緑だしよ、人間じゃねぇみてぇだ」
「気持ち悪ぃな!」
髪や瞳に、視線がまとわりつくのを感じた。
外見についてあれやこれやと言われるのは、慣れている。氷のようだと言われるのも。
ただ、やはりいい気持ちはしなかった。
日番谷は無言で、その場の全員を見渡す。全部で、六人。全員貴族の息子で、成績は中の下から中の上くらい。はっきり言って、死神としては生き残れないレベルだ。

「なんだその目は!」
憤る生徒たちの中で、日番谷の視線は止まった。ひとり、さっきからブツブツ口の中で唱えている少年がいる。あれの得意技は、たしか……
「赤火砲!」
一抱えほどはある火の玉が突然空中に生み出され、日番谷に向って殺到した。
さすがに、こんなものを受けたら無傷ではすまない。よけようとして、ふと背後に視線をやった。
背後は、四番隊の隊舎である。

「……断空」
それは、誰にも聞こえない程度の声だっただろう。しかし、火の玉はそのかすかな声の前に、何もなかったかのように掻き消えた。
「……なんだ? 消えたぞ!」
生徒たちが騒ぎ出す。断空は、縛道の中でも高度な技で、まだ授業でも教わっていない。
知識として知っている者がいてもおかしくはないが、攻撃系の破道にばかり興味をもつこの少年達には、きっと分かりはしないだろうと思った。

「……この後ろは、四番隊の入院棟だ。怪我や病気をして入院してる死神達が大勢いるんだぞ。
いきなり赤火砲を撃ち込んだらどうなる。そんなことも分からねぇのか」
日番谷は、自分を取り囲む生徒達に、静かにそう言った。
でも、そんな理屈が通用しない相手だということも分かっていた。

「じゃあ、てめぇが動かずにやられりゃいいだけの話だ!」
結局、そうするしかないらしいな。
拳が繰り出されるのを見て、日番谷は他人事のように思った。
胴を打たれ、足を蹴り上げられる。しかし急所を避けているから、悲鳴を漏らすほど痛くはなかった。
馬鹿みたいだな、と頭はどんどん冷え切ってゆく。
その気になれば打ち倒すことができる。そう冷静に頭の中でシュミレーションする。
しかし、「やり返す」という選択肢は、初めから日番谷の中にはなかった。


「……なぁ、知ってるか? 五番隊副隊長の雛森桃って、こいつの幼馴染なんだぜ!」
倒れこんだところ、右手を上から踏みつけられた。
その言葉に、日番谷は顔を上げる。冷え切っていた感情に、火をつける言葉だった。
「……それがどうした」
「やっとしゃべりやがったぜ、こいつ」
せせら笑う声と共に、続ける。
「かわいいよなぁ、あの子。手を出したくても、副隊長じゃムリだしな。でも、こいつをぶっ殺すって脅したら、どうするだろうな」
お前って悪党だな、と周囲から笑い声が起こる。
何か言い合っているようだったが、きぃん、と頭の中が冷たくなったせいで、よく聞こえなかった。

……なんだと。
「一回くらい……」
下卑た笑いしか見えない。……今、なんと言った?

日番谷を踏みつけていた少年が悲鳴を上げたのは、その時だった。
「な……ん、だぁ?」
乾いた音と共に、手の甲を踏みつけていた足が、膝が、あっという間に氷に覆われてゆく。
悲鳴と同時に、少年は飛び離れる。音もなく、日番谷は起き上がった。
その足元を中心として、周囲に波のように白い冷気が広がるのが、肉眼でも見える。

甲高い声で、少年達が悲鳴を上げた。
逃げようとしたが、間に合わない。その体が次々と、押しよせる氷に捕まった。
凍てついた腕を氷から力ずくで引き剥がそうとした少年の一人が、悲鳴を上げる。
その腕から鮮血が飛び散り、皮膚が破れたのだと分かった。
無慈悲な氷が、動きを封じられた少年の腹を胸を首を、生き物のように覆ってゆく。

少年たちの体から散った血が、日番谷の頬に赤い斑点をつくった。
日番谷は、まるで魅入られたように呆然と、自分の生み出した惨劇を見上げることしかできなかった。
こんな時なのに脳裏をよぎったのは、最近読んだ本の一文だった。
地獄には、「大紅蓮地獄」と呼ばれる世界が存在するという。
八寒地獄の一とされ、ここに落ちた者は、ひどい寒さにより皮膚が裂けて流血する。その様は、紅色の蓮の花に似る、と。
暗黒の地獄の中でギラリと時折冷たく光る氷、飛び散る鮮血、響き渡る悲鳴。
そのイメージは、まだ瞼の裏に新しい。

ああ、紅蓮の花が咲いている。
これは……話に聞いた、地獄、ではないか。
断末魔の悲鳴と共に、日番谷は我に返った。

「止めろ……止めろ!」
自分の体を、腕で抱え込む。でもこんなことで、自分の体から迸る霊圧を止めることができるはずがなかった。
止めてくれ。自分の中に棲むという斬魂刀に声をかけたくても、名前すらまだ分からないのだ。

どうしよう、どうしよう。焦燥が胸を突く。
しかしそれとは裏腹に、ふと自分の中で、冷静な声が聞こえた気がした。
―― 何を焦る。何を恐れることがある。貴様が、望んだことだろう……
夕焼けの中でも青々と輝く氷。そこに滴る紅蓮の血。
「違う……」
俺は、誰も殺したくなんてない。
こんな地獄に棲みたくなんてないんだ。

「違う!」
氷に完全に包まれ、苦悶の表情を浮かべた少年達から、力ががっくりと抜けてゆく。
さぁっと頭の中が冷たくなり、何も考えられなくなった時……
穏やかな女の声が、背後から聞こえた。
「……断空」
それは、奇しくもさきほど日番谷が唱えたのと同じ縛道だった。

パキン、と音を立てて、少年達を覆っていた氷が砕け散る。
氷のかけらの中を、力を失った体が崩れ落ちた。
「……! 大丈夫か」
何が起こったのかはっきりと分からないまま、日番谷は少年達に駆け寄る。
しかし、悲鳴を上げて日番谷から離れようとした彼らに、言葉を失った。
はっきりとした恐怖が、彼らの顔にははっきりと刻まれてる。
まるで人間に向ける視線ではなく……バケモノでも見るような目で。

日番谷は、少年達に背を向けた。
その時になって、殴られ蹴られた傷跡が、ズキンと痛み出す。
刺すような痛みに見下ろせば、さっき踏みつけられた右手の甲からは血が流れていた。
「貴方……!」
背後から、さきほどの女性の声が聞こえたが、振り返らなかった。
自分だって、この少年達と同じくらい……いやそれ以上、おびえている。
この少年達は自分から離れれば、こんな地獄からは逃げることができる。でも自分には逃げ場がない。

「た、助けてください! あの……あいつが!!」
少年の一人が、女にすがりついたのだろう。
女が歩いてくる足音が、止まった。
「あの、バケモノが!!」
その声を最後に、日番谷は体を引きずり、駆け出した。