日番谷は、流魂街の道を足を引きずりながら歩いていた。
全身が、絞られるように痛む。でもこの体の重さは、怪我だけが原因とは思えなかった。
通りで石蹴りをして遊んでいた子供たちが、日番谷を見るなり悲鳴を上げる。
談笑していた大人たちは、目を見開き……やがて、畏怖の混じった顔を背ける。

何しろ、歩いていく日番谷の足元が、どんどん凍りついてゆくのだ。
自分の周りの空気が、普通よりは十度は下がっているのが、自分でも分かっていた。
避けられて当然だ。ぎょっとして道を空ける人々の中を、日番谷は無言で歩き続けた。


どこにも、行くあてはなかった。
祖母に会いたかったが、まだ力を抑え込めない今の状況で帰れば、きっと凍らせてしまう。
―― 「このままじゃ、おばあちゃんを殺すことになる」
松本乱菊という死神が残した言葉は、祖母が霜に覆われ震えながら眠っていた姿とともに、記憶に傷として残っていた。

どうして、こんなことになったんだろう。どこか遠く、日番谷は思う。
力がなければ、忌み嫌われることも、人を傷つけることもしなくてすんだのだろうか。
普通に、祖母と一緒に暮らせていただろうか。

力をコントロールすることを学びなさい、と死神たちは日番谷に言った。
そのためにはまず、自分自身を受け入れなさいと。
そんなこと、できるはずがない。日番谷は自嘲する。
こんなバケモノのような自分自身を見せつけられて、これが自分の本性だと受け入れろと?
拒絶の視線を向けられるたび、心のどこかで納得している自分がいる。
もっとも自分自身を拒絶したいのは、ほかならぬ自分自身なのだ。
もう、ずっと、ずっと前から。

「なんでだよ」
日番谷は、我知らずつぶやいていた。
現世で死んだ自分が、なぜこんなところで存在し続けなければならないんだ?
大切な人間だろうが憎かろうが関係なく傷つけるこの腕に、存在する理由はあるのか?
できることならそっと、消えるようにいなくなれたらと思った。でも。

どこにも、行けなかった。
どこにも、帰ることもできなかった。
どこまでも広がる氷原の中で、日番谷は一人立ちすくんだ。


「……もし」
背後から穏やかな声が聞こえたのは、その時だった。ゆっくりと振り返る。
「……あんたは」
薄暗闇の中で、白い羽織が浮かび上がっていた。
この声、さきほど日番谷の力から少年達を救った人物に違いなかった。
隊長格だ。そう察したが、驚くだけの神経はもう残っていなかったらしい。何も思わなかった。
女性は、そんな日番谷を見返して、微笑んだ。

「四番隊隊長、卯ノ花烈と申します。……日番谷冬獅郎さんですね」
「……俺の名を、どうして?」
「貴方は、死神の中でも有名ですから」
「バケモノだからか?」
その声音の中に、自分自身に向けた嘲りの色を感じ取ったのだろう。
卯ノ花はわずかに、かなしそうに眉を顰めた。

日番谷は再び、重い足を引きずり、卯ノ花に背を向ける。
「お待ちなさい」
「俺にかまってる場合か? 俺が凍らせた奴らを放っといていいのか」
「彼らは、四番隊に連れていきました。命に別状はないでしょう」
すぅ、と足音もなく、卯ノ花が歩み寄る。
「貴方の傷のほうが、深く見えましたから。追ってきました」

「適当なことを言うなっ!」
ざっ、と砂を鳴らし、日番谷が卯ノ花に向き直った。激昂と共に、睨みつける。
「いつも、そうしてきたのですか?」
卯ノ花の声は、やはりかなしそうだった。
「自分の力をコントロールできず、全てを凍てつかせて。そうするしかなかったのですか?」
ああ、そうだよ。日番谷は心の中で返す。

感情の高ぶりと共に、輪郭が霊圧で霞んでゆく。
パキッ、パキッ、と音を立て、空気中の水分が凍りついてゆく。
常人には耐え難いほどの寒さのはずだ。
「その通りだ。あんたも死にたくなかったら、とっとと失せろ」
「大丈夫です」
動じることなく微笑む、卯ノ花の真意が分からなかった。更に、卯ノ花は歩み寄る。
日番谷は理由の分からない圧力に押され、後ずさった。

「貴方を、傷つけもしません」
「来るな!」
背後に数歩下がった時、背後に固いものが触れた。
それは、もう誰も棲んでいない、朽ちた空き家だった。
日番谷の背中が触れると同時に、木の壁に氷が走る。
壁が生き物が身をよじるように動き、悲鳴のようにきしんだ。
「来るな……」
また、殺してしまうのか?

俯いた日番谷にかけられたのは、対照的に落ち着いた声だった。
「貴方自身の力です。神は、貴方が支配できないような力を、お与えになることはありません」
「……無理なんだ」
それは、日番谷がおそらく、自分の力を自覚してから初めて漏らした、弱音だった。
だから来るな、とうわ言のように呟き続ける。
体は熱を持ち、周囲の冷気とあいまって、自分が熱いのか、冷たいのかすら分からなくなっていた。

俯いてしまった日番谷の前に卯ノ花がかがみこむ。
その腕に氷が走るのを見て、日番谷は思わず悲鳴のような声を上げた。
氷は生き物のように、その肩に届き、華奢な全身を飲み込もうとしている。

どうしてこの女性は、こんなに落ち着き払っているんだろう。
そしてどうして自分は、こんなに動揺している?
混乱の中で見上げた卯ノ花は……ふわり、と微笑んだ。
「大丈夫だと言ったでしょう?」
手を伸ばされた瞬間に感じたのは、純粋な恐怖だった。
卯ノ花は、身をすくめた日番谷の全身を、そっと抱きしめる。

あたたかい、と思った。この女(ひと)の体はあたたかい。
背中に触れた掌から、ぬくもりが体の中に溶けていくようだった。
それこそ氷のように凍てついていた心が、少しずつ溶けてゆく。
「……重いんだ」
それは涙となって、日番谷の頬を流れ落ちた。
「重いんだよ……この力が」
神様だか何だか知らないが、誰かにこの力を与えられたというなら。
どうして、それは自分でなければならなかったのか?
卯ノ花は、それには無言だった。ただ、その銀色の頭を撫でただけだった。

どうして、自分はこんなに声を上げて泣いているのか。他人事のように、そう思う。
自分がかつて現世に生をうけていたころの、ほんのかすかな記憶。
手を伸ばす自分の先に微笑んでいた、遠い霧の向こうにある景色。
ああ、母親、というものに似ているのかもしれない。そう日番谷は思った。
その時には、自分をあれほど苦しめていた霊圧は、嘘のように消えていた。


***


「……少し、傷が残るかもしれませんね。ほとんど見えない程度ですが」
手に取った日番谷の右手を見下ろしながら、卯ノ花はそう言った。
壁に背中をもたせかけ、足を投げ出していた少年は、いい、という風に首を振る。
全身に及んでいた傷の痛みは、すべて嘘のように消えていた。

「……貴方は、自分の力を恨んでいますか? なぜ自分だけがこんな力を与えられたのかと」
不意に卯ノ花に言われて、日番谷は俯いていた顔を上げる。
優しげな声をもつ女性は、やはり優しげに微笑んでいた。
「必ず、全てには意味があるのです。その意味を見出すのも見出さないのも、貴方次第です」
「……分かんねぇよ」
日番谷の泥に汚れた着物を、軽く手で払いながら、卯ノ花は続けた。
「そうですね。例えば……近い未来、貴方は隊長になるでしょうね」
「……はぁ?」
思わず、年齢相応の高い声が漏れた。

「隊長って……死神の?」
「そう。私と同じ隊長です」
「……」
そんなことをいきなり言われても、どう返していいのか分からなかった。
ただ、目の前のこの女(ひと)と同格になっている自分の姿の、想像がつかなかった。
自分自身立つことすらままならないというのに、誰かの上に立つことなどできるのだろうか?
日番谷は、戸惑った表情をしていたに違いない。卯ノ花はくすりと笑った。

「そうですよ、きっと――貴方は、見せることができるのです。死神は、人を護ることができるのだということを」
卯ノ花は身を起こし、日番谷と向き合った。その瞳の中にある真摯な黒い光に、日番谷は魅入られたように、動けなくなる。
「……よく、分かんねぇよ」
「貴方には、護りたい人がいるでしょう?」
護りたい人。その言葉と同時に、いくつも顔が浮かんだ。日番谷は頷いた。
「そうですか」
卯ノ花の口元がほころんだ。立ち上がると、そっと日番谷の銀色の髪を、なでた。
「そのまま、お行きなさい。貴方を愛する人間が、きっとたくさん現れますよ」
「まさか」
口を歪めた日番谷が、何か言い返す気もおきないような、優しい笑みがそこにはあった。
「少なくとも私は、そんな貴方のことを、好きになりそうですよ?」