俺は、木枯らしの吹く中、一人でどんどん歩いていく。
「あぶねぇなこのガキ、周り見て歩け!」
どん、と誰かにぶつかり、罵声を浴びせられた。

視界は涙でぼやけていた。あの寒い中、上着も着ていなかった。
風が髪の毛をぐちゃぐちゃにしていった。頭の中は苛立ちと悔しさでいっぱいだった。
もう家まで帰る道も分からなかったが、それでもいいと思っていた。
もしかしたら母ちゃんは今頃もう家に帰ってきていて、俺がいないことに気づき、心配しているだろうか。
いや、きっと、赤ん坊の世話で手一杯で、俺のことなんて覚えちゃいないだろ。
どうしても今日だけは、って約束したのに。
そう思うとたまらなくなって、風に身を任せるように、めちゃめちゃに歩いた。

「実弥?」
軒先から不意に覗いた赤ら顔に、ぅわ、と仰け反った。
知った顔に出会った安堵はまるでなく、咄嗟に身を翻して逃げようとしたが、首根っこを捉まれぶら下げられた。
「おまえ、こんな家から離れたところで何やってんだァ?」
顔が近づけられ、酒臭い息がかかった。
「てめぇには関係ねぇだろ。離せよ」
「父親になんて口の聞きようだ」
子供がおもちゃを放り出すような無造作さで、地面に投げつけられた。
頬が擦れて痛いが機敏に起き上がり、睨みつける。泣いていたのを見られたかもしれない、それだけで屈辱だった。
目の前のこいつにだけは、弱いところを見せたくなかった。

親父がいた家の中から、ぞろぞろと男たちが出てきた。見るからに博打打ちだ、と分かる風体をしている。
「なんだそのガキ、お前の息子かよ。そりゃぁ気の毒な星の下に生まれたな」
そう言って、いっせいに嘲笑った。



***
 
 

その日玄弥は、定期健診のために蝶屋敷を訪れていた。
鬼喰いをしていたため身体の経過を見てもらうのが目的だったが、もうそろそろ形骸化してきている。
――「胡蝶さん。そろそろ、もう定期健診なしでいいすか」
さっき診察室で訊ねると、向かい合って座ったしのぶは、うーんと眉を顰めた。
――「そうですね、鬼はもういないですし、普通に考えればそうなんですが…
鬼がいなくなっても、玄弥君が鬼を摂取して得た力そのものは、なくなっていないですね。
相変わらず人間の食事は摂れないままですし……もう少し経過を見ましょう」
ええ、と文句を言いそうになったが、
――「そうしましょ、ね?」
にっこりと笑いかけられて、何も言い返せなくなる。相変わらず綺麗な人だ。
小柄な身体に華奢な手、とても刀を遣っている人とは思えない。しかし柱の一人だから、戦えば自分など足元にも及ばないのだろう。
女性と話すのは苦手だったが、しのぶは例外だった。柱だということに加えて、何だか態度が母親のようだから、かもしれない。

――「そういえば、昨夜あなたのお兄さん……不死川さんがここに来ましたよ」
診察室を出ようとしたとき、ふと思い出したようにしのぶが付け加えた。
――「意識がない浮浪者を担いで……不死川さんよりも更に一回り大きい方でしたが、衰弱が激しかったのでここに入院しています。
保護したときにその浮浪者が暴れてたようで、頬に怪我をされていて。治療を受けるように言ったのですが、いらないってそのまま帰っちゃいまして」
――「兄貴が怪我? 人間なんですかその浮浪者は……」
――「お兄さんに会ったら、ここに寄るように伝えてくださいな。恐らく汚れた刃物で傷つけられているはず、菌が入ると後々、厄介ですし」
――「……会えたら伝えておきます。すいません」
と言っても、忙しい兄に会うのは容易ではなかったし、同じ柱であるしのぶのほうがまだ、会える確率は高そうな気がするが。
兄が心配かけていることを謝ると、しのぶはどこかまぶしそうな顔をした。



もう勝手知ったる蝶屋敷の、控え室に向かう。さっきしのぶから聞いた言葉が、気になっていた。
あの妹と同じ名前のすみ、という少女なら、ことの詳細が聞けるかもしれない。
ぴったりと閉められた、控え室のドアをノックする。はぁい、とアオイの声が聞こえた。ドアを開けて玄弥の顔を見ると、ハッとした顔をした。
「玄弥さん! ちょうど良かったわ」
すみがアオイの後ろから出てきて、
「玄弥さん」
顔を見るなり嬉しそうに微笑まれたから、返す表情に困っていると、
「入ってください」
と中に招き入れられた。

「……昨日兄貴が連れてきたっていう、浮浪者のことか? 胡蝶さんから聞いたんだけど」
そう訊ねると、二人とも少しびっくりした顔をして同時に頷いた。
「それを知ってたら話が早いです。あの方は今朝方起きたんですが、治療は受けないし、乱暴だし、とにかく身体が大きいし、扱いに困ってて……」
蝶屋敷に運び込まれてくる負傷者の中には荒っぽい者も多いが、それでもいつも気丈に対応しているアオイが、本当に困った顔をしている。

「すみちゃんの担当なんだけど、とっても一人で行かせられなくて。……玄弥さん、一緒に行ってあげてもらえないかしら」
「ごめんなさい、玄弥さん。私がもっとしっかりしなきゃいけないのに」
「そんな奴、暴れられたら無理なのは当たり前だろ。いいよ」
頷くと、ありがとうございます! 二人に同時にほっとした笑顔を向けられ、思わず照れた。
 
すみに案内された病室は、控え室の目と鼻の先、しかも個室だった。
すみが躊躇いがちに病室のドアをノックする。おお、とも、ああ? ともつかない野卑な声が返す。酔っ払いのような、まともじゃない、と一言で分かる声だった。
ためらったすみの代わりに、玄弥がドアを開ける。広い部屋の窓際に、ベッドが置かれている。布団を床に落としたまま、ベッドの上で胡坐を掻き頬杖をついていた男と目が合った。
「なんだァ? 今度はでかいの連れてきやがって」
髪はざんばら、皮脂で固まってところどころ糊で固まったようになっている。伸びた前髪の間から、底光りのする獣のような瞳がこちらを見据えていた。
玄弥よりも更に大柄だったが、肌蹴た着物の襟から覗く身体は、肋骨が浮き出すほどに痩せていた。
頬もこけ、あちこちに染みが浮かんでいる。一見50代かそれ以上に見えた。

その姿を見た途端、電流が走ったように身体が、震えた。
一瞬で理解したのだ。なぜ兄がこの男を此処に連れてきたのか。
「……てめぇは」
声が震える。
「あぁ? 俺になんか用か」
高圧的に男が返す。気がつけば、玄弥はずかずかと部屋の中に入り込んでいた。
「なんでてめえが生きてる! ずっと前に、刺されて死んだはずだろうが!」
「玄弥さん!」
すみが慌てて後ろから袖をつかんだが、止まらない。
「玄弥……?」
男が、ぴたりと動きをとめた。そして、まじまじと玄弥を見返してきた。その口元に、嘲笑うような笑みが形作られる。
「なんだぁ、てめえこそ生きてたのか。久しぶりに会った親父に向かってなんて口の聞きようだ」
はっ、とすみが息を呑む気配があった。玄弥は衝動的に男の襟元をつかんだ。
「なんで生きてんだって聞いてんだよ」
酒とヤニくさい体臭は、知っているものだった。一気に子供の頃の記憶が蘇り、呼吸が荒くなる。
頭を撫でられたことも、笑いかけられたことすらない。いつも酒に酔い、いつも家族の誰かを殴っていた。
「父親」だなんて思ったことは一度もなかった。目の前のこの男が居るときの家庭は、地獄だったから。
だから、死んだと聞かされた時は、むしろほっとしたはず。なのに。

現に今、玄弥を見返す「父」からは、肉親としての一分の情も感じられなかった。
「刺されたくらいで簡単に死にやしねぇよォ……。お前が玄弥ってことは、昨晩、俺を拾った物好きはやっぱり実弥か。でかくなりやがって。俺ほどじゃねぇか」
肩に腕をかけられそうになって、払いのけた。玄弥よりもさらに一回りは身体が大きい。子供の頃に化物みたいな巨体に見えたのも無理はない。
ただ、まだせいぜい40くらいの年のはずだが、荒みきった生活がそうさせたものか驚くほどに老けている。
「まぁいい。ここはどこだ」
男はすぐに、玄弥に関心をなくしたようだった。
「……鬼殺隊の病院です」
おびえながらもすみが応えた。
「実弥を呼んで来い」
「兄貴は鬼殺隊で最高位の柱だ。気安く呼びつけんじゃねぇ」
「はあ? あいつが最高位? じゃあ鬼殺隊もたいしたことねぇな」
このタイミングで兄への侮辱は、火がついた中に爆弾を投げ込むようなものだった。ブツン、と頭の中で何かが音を立てて切れる。
とっさに胸倉をつかんだ手で父を引き寄せ、思い切り殴ろうとした。玄弥さん! すみの悲鳴が響く。

ショックにも似た感情で頭が真っ白になった、その瞬間。横合いから伸びた手が、がっしりと玄弥の手首をつかんだ。傷だらけの腕は、よく知っているものだった。
自分よりもわずかに細いのに、つかまれただけでピクリとも動かせなくなる。
「兄貴……」
「やめろ。お前の父親だぞ」
玄弥と父の間に、実弥が割り込んでいた。何時の間に部屋の中に入ってきたのかも分からなかった。漆黒に近い瞳が、冷静に玄弥を見返していた。
「風柱様……」
すみが泣きそうな顔で、おろおろと実弥と玄弥と男を交互に見た。男は実弥を見上げてあぁ、と声をあげた。
「実弥か! こいつをたたき出せ。父親を殴ろうとしやがって」
さんざん家族を殴ってきて、てめぇが言うな、と怒鳴りだしたくなるのを堪える。更に男は言い募った。
「玄弥だけは、生かして大人にはできねぇと思ってたよ。ガキの頃から、いつも俺を殺すような目で見やがって。てめぇは異常だ」
「いけしゃあしゃあと……そう言うなら、望みどおり」
「玄弥!」
殺してやるよ。そう言う前に、厳しさを増した兄の声が玄弥を遮った。
実弥の冷静さと、男の言葉が、玄弥の気持ちを更に荒立たせた。その怒りはなぜか、父ではなく兄に向かった。
「なんでこいつのこと、父親なんて呼ぶんだよ。こいつが俺たち家族に何をしたか忘れたのかよ。こんな奴、親父でもなんでもねえ!!」
その剣幕に、実弥は目を見開いた。玄弥の手首を押さえていた腕の力が少し緩んだ。玄弥は腕を無理やりに振り払い、その場を飛び出した。



蝶屋敷の裏手で、玄弥は立ち止まった。鼓動が全身に響くほど、激しく鳴っている。自分でも悔しいほど動揺している。
あれが父だと認めている証拠のようだった。どれくらいの間、そのまま立ち尽くしていただろう。
「……玄弥さん、いた!」
背中から声をかけられた。振り返るまでもなく、すみだった。うつむきがちに、玄弥の隣までやってきた。あちこち探してくれたのだろう、息を弾ませていた。
「ごめんなさい。まさか、お父様だとは思わなくて。私のせいです」
しょげ返っている頭を見下ろして、怒りが少しずつ、しぼんでいくのを感じた。
すみの家族は、全員鬼に殺されたと聞いている。しかし家族には恵まれていたらしいから、こんな父子関係があるなどとは、想像がつかなかっただろう。

すみには以前、自分の家族のことを少し話している。
父親はろくでなしで、恨みを買って刺されて死んだこと。兄と自分を除く全員が、鬼になった母親に殺されたこと。
そして止むを得ず兄は母を手にかけ、その時に自分が兄を罵倒したのがきっかけで、二人は袂を分かったこと。
玄弥は家族を分かれた後、しばらく街をさまよっていたところを保護され、しばらく孤児院に入れられていた。出てきた時には、全てが終わっていた。
兄の行方は分からなかったし、死んだ家族がどうなったのかも確かめることができなかった。恐ろしくて、家に近づくことができなかった。
数年後に意を決して自宅に戻ったところ、すでに別の家族が住んでいた。すでに大家も代わり、数年前の惨劇のことを誰も知らなかった。
兄に再会し和解できた後も、死んだ家族があの後どうなったのか、聞くことができずにいた。

本当に、すみといい自分といい、どうしてこんなことになったのだろう。不運の一言で片付けられなかった。
世間のほとんどの家族と同じように、普通の家族として、普通に幸せで、普通に生きていく道だってあっただろうに。
なぜ自分たちは、この道でなければならなかったのだろう。

「……お父さんが生きてることが分かっても、やっぱり、憎いですか」
「……親父だなんて思ったことねぇよ。兄貴だって同じはずだ。一番殴られてたのは、兄貴なのに」
自分でさえ、殴られた時の記憶が蘇って平静ではいられないのに。特に実弥は、母親の身長を越えたあたりからは、家族を庇う母親をいつも更に庇って殴られていた。
父に対抗し、でも結局敵わずに、血を吐くほどの暴力を受けていた。その殴る蹴る音、流れる血の赤を思い出すたびに、黒い衝動に駆られる。
異常だ。先ほど父に言われた言葉を、本当は理解している。あの時玄弥は、父を殺してやりたいと心の底から思っていた。
母も兄も、そこまではきっと思っていなかったはずだ。今の実弥の父に対する態度を見ても分かる。玄弥だけが、こうなった。
「……玄弥さんは、お兄さんやお母さんや、他の家族を、守りたかったんですね」
そ、と腕にすみの手が添えられた。かなしいほどに優しい笑みを浮かべていた。
「そんなんじゃねえ、俺は……」
「玄弥さんは優しい人ですよ」
あの頃の玄弥は、父を憎んだが、同じくらい自分自身を憎んでもいた。
もっと、もっと自分に力があればいいのに。そうしたら、兄貴やお袋をこの手で守れるのに。
今も玄弥の原動力となっているその気持ちは、あの時に芽生えたものかもしれない。
これが優しさだというなら、と玄弥は考える。優しさと憎しみは、玄弥の中では紙一重だ。

「……玄弥さんが出て行った後、風柱様はお父様にこう仰っていました」
静かな声で、すみは続けた。
「弟にまた手をかけたら絶対に許さないと。本当に怒っていらっしゃいました。ここから出て行けと」
その言葉の意味を理解するにつれ、玄弥はうつむいた。自分がさっき兄に取った態度が思い出されて、後悔がこみ上げてきた。
初めて、あんな風に兄に逆らった。それでも、兄は玄弥のことを考えてくれていた。

子供の頃、父が死んだと思った時、兄と自分の二人で家族を守ると、約束した。
それなのに、いざ生きているとなったら、兄が自分よりも父の側に立ったように見えて。自分の中の子供の部分が、それを悔しがっただけなのだろう。

「玄弥!」
実弥が呼ぶ声が聞こえてきた。謝りたい、でも父の話題を出されると、冷静でいられる自信がない。ためらっていると、
「玄弥さんはこちらにいらっしゃいます!」
すみが叫び返した。
「自分の気持ちを伝えるといいと思いますよ」
すみは微笑み、立ち上がった。



すみと入れ替わるように、実弥がぶらりと蝶屋敷から出てきた。
怒っている様子も、動揺している様子もない。いつもと変わらなかった。
「あいつなら、もういねぇよ。出て行った」
階段に腰を下ろしている玄弥を目にすると、ぶっきらぼうにそう言った。
「どこ行ったんだ」
「酒か博打か女だろ」
「お……」
「もう放っとけ、あいつのことは」
そう言って実弥は、さっきまですみが座っていたところにどさりと腰を下ろした。
その左頬に数センチの切り傷がついていることに気づいた。放ったらかしにしているようだが、見た目より傷は深いらしく、近くで見ると痛々しかった。
「その頬の傷、あいつにやられたのか」
「傷?」
実弥は不思議そうな顔で右頬をぬぐった。
「そっちじゃねえって、左だよ。胡蝶さんに、治療するよう言われたんだろ」
指差すとあぁ、とようやく存在を思い出したようだった。兄にはこういうところがある。自分の傷には驚くほど無頓着だ。

鬼でさえ対等に渡り合える兄が、普通の人間に怪我を負わされるなんてありえない。
だからきっと、何気なく近づいた行き倒れが死んだはずの父だと知り、少なからず動揺したのだろう。
息をするように暴力を振るう父が、咄嗟に懐刀で斬り付けたところまで、容易に想像がついた。

治療に来るように説得をとしのぶから言われていたが、この調子だと無駄だろう。
せめて、と懐から絆創膏を取り出すと、目でいらないと断られた。しかし、
「その怪我見ると、あいつを思い出すんだよ」
と玄弥が言うとため息をついた。頬にぺたりと貼り付けられても、何も言わなかった。
「放っとけっていうなら、なんで兄貴はあいつを拾ったんだよ」
死にそうだったにしろ、助ける義理なんてもうなかったはずだ。
「俺は長男だから、成人後は親の扶養の義務があんだよ」
「……急にまともすぎる」
木で鼻をくくったような返事に、玄弥は呆れて口をつぐんだ。本音なのかと聞く気にもなれなかった。
冷静と言うよりも、ただ醒めているだけなのか。
多分、一番多く殴られたのが兄自身だから、か。……自分の傷は、どうだっていいから。

「とにかく。もうあいつには近づくな。何かあれば俺が相手する」
そう言って実弥は懐から懐中時計を取り出してちらりと時間を確認すると、立ち上がった。相変わらず忙しいようだ。
「わかんねえよ」
「何が」
「なんであいつの味方したんだよ」
口をつぐもうとしたが、止まらなかった。立ち去りかけた背中に苛立ちをぶつけると、実弥はふっ、と息を漏らした。
まるで笑ったようだった。そして背中を向けたまま、言った。
「あいつは血縁上は父親だが、家族としての情はねぇよ。生き残ったのは同じでもお前とは違う」
どうしてこの兄は、玄弥が欲しいと思っている言葉が分かるのだろう。
じゃぁな、と手を上げて、言葉をなくした玄弥を置いて姿を消した。


update 2019/11/22