私の人差し指を握るのが精一杯だった、小さな手のひら。
どうしてその手を、離してしまったのだろうと思う。

確かにルキアを抱えて、命を永らえるのは難しかったかもしれない。
しかし、命を得たことと引き換えに、私は心を失った。
人は、人を護ることなどできぬ。しかし、人がいなければ、生きていくことはできぬ。
この矛盾に、どのように折り合いをつけていけばいいのだろう。

――人は、人を必要としない。
そう言い切った、昨夜のあの男を思い出した。
そう思い切れればよいのかもしれない。
そういったあの男の目は、まるで冬の月のように気高く、そして孤独だった。


私が起き上がり、もう冷たくなった布団を畳もうと手を伸ばした時だった。
ドシン!
激しい地響きと共に、小屋が揺れた。
「女!そこに居るのは分かってんだ、出て来い!」

――月斎。
その声に、膝に手を置いて立ち上がる。
引き戸を開けると、そこには月斎と、数人の残党が立っていた。
月斎は片腕を布で吊っている。おそらく、昨日の戦いでついた傷だろう。

「・・・何の、御用でしょう」
「とぼけるな!お前が、あの男を引き入れたのだろう!」
「あの方は、おそらく精霊廷の殿上人。私と、なんの接点がありましょう」
「貴様が、この小屋で彼の男を看病していたのは分かっている、と言ってもか?」

私は、月斎の顔を見返した。
私を殺すと、心に決めている目だ。一目みて、そう思った。
そこに正義があると、迷い無く思っている目だ。
私に、それに抗うだけの信念はあるだろうか。
相手を傷つけても戦う覚悟。そして、どんな手を使っても逃れる覚悟。

―― 人一人捜すのは不可能だ。
ひらり。あの男の言葉が、脳裏をよぎった。
私は、ゆっくりとため息をつく。
それを諦めてしまっては。私に生き場所など、もうないのだ。

ゆっくりと、私は結界に手を当てる。
少し力を込めるだけで、その結界は淡く溶けて消えた。
「この命。護るほどの価値はありませぬ。斬りたければ斬ればよい」
私は、抜き身の刀を構えた月斎の前に歩み出た。
「しかし、私を斬ろうと、あの死神を斬ろうと、貴方が本当に護りたかった者は戻ってはきません」
月斎の目が、苦悩に歪むのを私は見た。

――この男も、私と同じだ。
そう思った瞬間、刀が私に向かって、振り下ろされた。

 

雪に頭を垂れていた椿の花弁が、音もなく枝から落ちるのに、私の視線は吸い寄せられた。
椿は雪の上に落ち、紅い花弁が新雪の上に散った。
胸の痛みは、疼きとなって、私を集中させないのだ。

「休憩だ!」
突然発せられた野卑な声に、私の視線は座敷へと戻る。
志波海燕が立ち上がり、天井につくような無遠慮な伸びをした。
そのまま、廊下に出て行く後姿を、他の貴族はあっけに取られて見守る。

「まぁ、構わぬ。茶でももらおうか」
夜一も続けて大きな伸びをした。私は立ち上がり、海燕の背中を追う。
会合が行われていた座敷からは少し離れた、人の気配がしない縁側に、海燕は座って庭を眺めていた。
私は少し離れて立ち、その頭を見下ろした。

「何を勝手なことをしている。議長は私だ」
「その議長様が、別のことに気をとられて、ぼうっとしてるから気をきかしてやっただけだ」
逆に私を睨みつけるように見上げ、海燕は返してきた。
言葉を発さぬ私に業を煮やしてか、立ち上がって一歩私に歩み寄る。
「らしくねえぞ、白哉!」
「兄(けい)の関わり知らぬ話だ」
「関わり知るはずがねえだろ!だから俺は怒ってんだ、何があったかくらい言え!」

その拳が、私の胸を軽く突いた。昨日月斎に斬られ、娘に癒された場所だ。
この男の、こういうところが気に食わぬ、と私は思う。
五大貴族を仕切る立場の男の癖に、人の領域に土足で入ってくることも厭わぬ野卑な男。
雑なくせに、人の心の奥を真っ直ぐに突いてくるような、この男が気に食わぬ。

海燕は、少し怪訝な顔をすると、私と少し離れる。
私の目に珍しくもこもった感情に、気がついたのかもしれない。

「――兄に、ひとつ尋ねたい」
ふと、気になった。私とは全く逆の気質を持つ男。
秩序に囚われず、自分の道を貫く自由奔放なこの男なら、何と返す?
「人が、人を、護ることなど、できると思うか?」
海燕は、音をたてて後頭部を掻いた。そして、ため息をつくと、また大股で私に歩み寄った。
「人が!人を!護らねえで!一体誰が人を護るんだ!」
そして、海燕は私の横を通り過ぎる。

「人はナマモノで、思ってるより消費期限は短けえんだ。
未来永劫続く秩序なんかよりずっとな」
いつもの乱暴な口調で言い捨て、そのまま会合のある座敷へと向かう背中を、私は振り返った。
「だから早く行け!」
ズキン、と胸が痛む。ちがう。これは傷の痛みではない。
この感情を、人はなんと呼ぶのだ?