紅蓮の炎が、百万の舌をちらちらと揺らめかせながら大地を舐めてゆく。地面に転がるいくつもの黒い物体は、かつてはヒトだったとは信じられないほど原形を留めていない。死がはびこる大地、阿鼻叫喚の戦乱の中から見上げた空は、いつもの『セフィーロ』と変わらず、透き通るように青かった。
 どんな惨劇よりも、その青さが残酷に瞳に映った。
 
 クレフは、長期に渡る終わりの見えない戦争に、憔悴しきっていた。例えばその瞬間、剣士が彼に向かって剣を振り下ろしたとしても、指一本動かす気にはなれないほどだった。逆境で座り込んではいけないと教えられてきた、二度と立てなくなるからと。しかし、そうと分かっていながらも大地に膝をついてしまった。全身は心身の疲労にさいなまれて、まるで背に岩を背負っているかのようだった。
 
 死ねば地獄。生き残っても地獄。分かっているのに生き残ろうとしたのは本能か。
 元通りの平和を取り戻すには、味方も敵も、あまりに大勢が死にすぎていた。楽園のはずだったセフィーロを変えたのは、たった一人の『柱』と呼ばれる人物だった。
―― なぜだ。一体どうして、『柱』は我らを見捨てたもうたのか?
 怨嗟の声が、セフィーロに満ちた。

 許せない。皆はそう言った。セフィーロにとって『柱』が『全て』であるように、『柱』にとってもセフィーロが『全て』であり、何よりも愛する存在でなければならない。それができないということは、すなわち裏切りなのだと。でもクレフはその時、はっきりと違和感を持ったのを覚えている。このセフィーロで、国を『柱』よりも愛せた者が他にいるというのか? 自分にも問うた、その答えは「否」だった。
 
 生まれ育ったこの大地、透き通る海、瑞々しい緑、吹き抜ける風をもちろん愛している。しかしこの国のあらゆる要素は、ただ一人のもつ生には及ばない。セフィーロを愛する理由は、かの地に護りたい誰かがいるからだ。その「誰か」を持つことは、誰しも当然の権利のはずなのに『柱』だけには許されない。それを理不尽だと思いこそすれ、『柱』が罪深いとはクレフには言えなかった。

 でも、現に。たったそれだけの「罪」のために、その時セフィーロは滅びようとしていた。


「簡単なことだ」
 クレフの師であった女は、周りに死体が溢れていることも、手にした刀が血塗られていることも忘れたかのように、せいせいとした口調で言った。
「例え『柱』だろうと、人は神にはなれぬのだよ。できぬことを、できるように振舞うのは欺瞞に過ぎん。そんな秩序でしか立ち行かないというのなら、遅かれ早かれセフィーロは滅びる運命だったのだ」
 クレフはその時地上から、中空に佇む女を見上げていた。空に、雲よりも白く、太陽よりもまばゆい光が現れていた。

 光は、定規で引いたかのように、まっすぐな長方形の形をしていた。まるで空中に唐突に『扉』が現れたかのように見えた。女は、その『扉』の向こう側に佇み、弟子であるクレフを見下ろしていた。
「その『扉』は……」
 疲労のせいなのか、目の前の光景があまりに非現実的なためなのか、状況の理解が遅れた。
「この『扉』を開けられるのは、導師となることが運命づけられた者のみ。おまえなら開けると思っていた」
 言われてようやく、背筋に冷たいものが走った。女に教えられたことが、頭に蘇っていた。
「お戻りください! その『扉』の向こうに行けば、あなたは……」

 クレフは立ち上がろうとしたが、膝が言うことをきかず、身動きもままならなかった。必死で叫ぶしかなかった彼を、女は涼しげな眼差しで微笑み、見下ろした。この期に及んで、スッとした女だと思った。
「この『扉』は、内側からしか閉められぬ。そしてこの『扉』が閉まらねば、セフィーロがどうなるか分かっているだろう? 『導師クレフ』」
「分かっています。分かっているからこそ、あなたに全てを背負わせたくはないのです!」

 二人の間に、沈黙が落ちた。
「……あなたを失って。何事もなかったように、私が生きていけるとお思いですか。導師」
 クレフが放ったその声は震え、相手に届いたのかは今でも分からないままだ。クレフが見上げると、女は彼の気持ちを探るような目で見返していた。クレフも見つめ返した。長く長く感じた沈黙の後で、ふっ、と女が微笑む。
「では。時の深淵の彼方で、また、会おうぞ」
 女は一歩『扉』の内側に引いた。そして、右手をさっと払ったように見えた。とたんに、『扉』は、風に引き浚われたように掻き消えた。

 後になっても思う。どうしてあの時、自分は這ってでも、女の足を掴んででも彼女を止めなかったのかと。結局、クレフには分かっていたのだ。あの『扉』を閉めなければ、セフィーロは滅びる。そして、一旦開いてしまった『扉』を閉めるには、導師が内側から閉めるほかない。さらに、女はもう長く導師として生き、自分にその役割を引き渡すことを望んでいた。それらを鑑みたクレフは結局、師である女を心の底から助けるつもりはなかったのだ。女と、女以外のすべてを天秤にかけた。そして、後者を自分の意志で「選んだ」のだ。

 泣くことはできなかった。頭の中で、もう一人の自分が冷たく言い放つ声を聞いていた。「泣く権利などお前にはない」と。
「……××××」
 その時つぶやいた言葉を、もう二度と、クレフが人生で口にすることはない。


***


―― 導師クレフ。
 思えば、初めて彼をそう呼んだのは師だった。それから星の数ほどの人々にその敬称をもって呼ばれてきた。いつの間にか、師の年齢を遠く追い越している自分に気づく。生きてはいられないと言い放ったくせに、700年もの長すぎる時間を生き続けている。まるで、「何事もなかった」かのように。
「……私は、ヒトではないな」
 クレフはぽつりと、そう呟いた。
 
 彼は、ゆったりと巨樹の枝に背中をもたせかけていた。
 そして、遠く広がる青空を見上げ、その青さに眉をひそめた。





* last update:2013/7/11