あのひとは、ティーカップに触れないくらいに熱い紅茶を、少しずつ、少しずつ飲むのが好きだという。そうは言っても、沸騰直後の熱湯だと、さすがに火傷してしまう。プレセアは、ティーポットを見下ろして、少しだけ待った。やわらかな風が、頬を撫でてゆく。庭を見やれば、若葉がきらきらと陽光に輝くのが眩しく映った。室内と外の間をよく見れば、シャボン玉の膜に似たものに隔てられているのが分かる。クレフの言によれば、そよ風は通すが、雨や暴風は全く通さないという。
 
―― いったい、どういう仕組みなんですか?
 初めて目にした時、心の底から不思議に思って聞いてみたら、ゆるりと首を横に振られたことを思い出す。
―― 仕組みなどない。私の魔法は、思い浮かべたものを形にしているだけだ。
 彼はさらりと口にしたが、それは言いかえれば、想像できることなら不可能はないと言い切ったに等しい。セフィーロが誇る最高の魔導師でなければ、口にできない言葉だ。彼が統べる今のセフィーロはさながら平和の楽園だった。

「……と、いけない」
 すでにお湯を注いで3分近く経っている。プレセアは慌てて、ティーポットから茶葉を取りだした。導師クレフのために紅茶を淹れるひとときは、プレセアにとって他の何にも代えられない特別な時間だった。彼の傍にいる、と感じられるからだ。不思議だ、と思う。いつも手を伸ばせば触れるほどの距離にいるのに。その時よりも、少し離れた場所で彼を想っている時の方が、「近く」に感じる。その理由に思いを馳せたプレセアは、自然と浮かんできたため息をそっとちぎって吐きだした。


「乙女みたいにため息ついてからに。バレバレやわ」
 背後からいきなり声を掛けられて、プレセアの両肩が飛び跳ねた。慌てて振り返ると、褐色の肌が目に入った。同じ女ながら惚れ惚れするほどメリハリの利いた体を、少ない布地の間から惜しみなく見せている。
「バレバレって、何がよ?」
「導師クレフのことや。惚れてるんやろ」
 ドキリとする間もないほどに、はっきりと言われてプレセアは口ごもる。
「あんた今、どうやって隠そか、なんて思ってるとこ?」
 カルディナは眉を下げて、「やれやれ」とでも言いたそうな顔をした。そしてずかずかと歩いてくるなり、プレセアの鼻先に指を突きつけた。
「あんた。言っとくけど、もったいないで」
「何がもったいないのよ」
 否定するのを諦めて、プレセアは我ながら半ば開き直ったのを自覚しつつ、カルディナを見下ろした。
「導師クレフに惚れても、なんにも返って来うへんで。あんたやなくても、あの人は誰のことも、女としては見いへん」

 また言葉に詰った理由は、今度は不意打ちだったからではなかった。それが事実だとプレセア自身も思っていたからだ。
「いいのよ。男女として結ばれるばかりが恋愛じゃないもの」
「はっ、なにをお嬢さんみたいなこと言ってるんや? 抱いてくれへん男なんて、おらんのと同じや」
 あまりに、はっきりと口にするカルディナに、プレセアは驚いていいのか呆れていいのか分からず黙った。ただ、少しだけうらやましくもある。

 カルディナはさらに言い募った。
「あんた綺麗なんやし、ほんまにもったいないで? あんな若づくりの爺さんのことなんて――」
「誰・が、若づくりの爺さんですって!!」
 突然大声を出したプレセアの権幕に、カルディナは言葉を止めて一歩退いた。
「クレフの悪口を言う人は、カルディナだって許さないわよ!」
「分かった、分かったって。冗談やん。ほんまにあんた、導師クレフのことになるとヒトが変わるな」
 ふくれっ面をしていた自覚はあった。カルディナは不意に悪戯っぽく笑うと、プレセアの頬をちょんとつついた。

「な、なによ」
「でもあんた、今の顔はちょっと可愛かったで」
「はっ?」
 可愛い、なんて久しく言われたことはない。少なくとも、最高位の創師になってからは一度もなく、思わず声が裏返った。


 少しでも上へ、少しでも上へ。そう思って努力して磨いてきた技術、上り詰めた最高位という立場に満足しているが、結局そんなもので人の価値は計れない。カルディナを見ているとつくづくそう思わされる。自由闊達に生きるカルディナを縛るものはなにもなく、ひょい、とプレセアを軽やかに飛び越えてしまう。
「何を言ってるのよ」
 戸惑った顔をしていた自信はあった。すると、ケラケラと笑われた。猫のようにくるくると表情を変えるひとだと思う。
「いっつも、お母さんみたいに包容力ある顔しとらんで。たまには、ねだってみたらええやん。案外、応えてくれるかもしれんで?」
「ね、ねだるって何をよ?」
「自分でかんがえなー」
 おかしな節をつけて歌うように言うと、カルディナは身軽な動きで踊るように階段を上り、歩き去ってしまった。
「もう……」
 この平和な日常に、つむじ風を吹かせてくれたようなものだ。鼓動は、わずかに不協和音を奏でている。でもそれは決して、嫌な気持ちではなかった。





* last update:2013/7/11