導師クレフの気配は掴みにくい、と誰もが言う。人の気配に敏い魔導師ですらそうだ。まるで風や木石のように自然界に溶け込む、人間離れした気配を持っているから、らしい。創師であるプレセアは専門ではないから、難しいことは分からない。ただ、導師クレフがどこにいるかは「なんとなく」わかる、と言うと、皆一様に驚く。

 プレセアが空中に差しだした掌の上に、一組のティーセットがふわふわと浮いている。ポットには並々と紅茶が満たされ、綺麗に磨かれたティーカップが二つ載せられていた。
 彼女がほどなく辿りついたのは、城内の居住区域だった。地面は緑色の絨毯かと思いきや、一面に茂った柔らかな芝生だった。半分は屋外、半分は屋内のようにゆるく白壁で仕切られたその場所には、数百人を越える老若男女が思い思いに暮らしている。子供が壁を使って鬼ごっこをする傍で、老人たちが談笑していた。
 さっきプレセアがいた一室と同じようにバリアで覆われたそのエリアには、外からの光が燦々と差しこんでいた。木々の緑がざわざわと揺れ、青い海が広がっているのが遠く見渡せる。できすぎではないか、と何だか見ていて恥ずかしくなるほど美しい景色だ。

「導師クレフ。お茶が入りましたよ」
 プレセアが立ち止ったのは、そんな居住区域の片隅だった。賑やかにさざめいていたその場の視線が、彼女に集中した。緑が茂る樹上にいきなり声をかけたのだから、何事かと思われたのだろう。
「ああ」
 それに応じたのは、大人にしては高く、子供にしては低い穏やかな声だった。がさ、と一瞬葉が揺れたかと思うと、真っ白な影が地面に落ちた。
「ありがとう、プレセア」
 宝石のように真っ青な双眸が、プレセアを見上げていた。銀色の髪が、きらきらと陽光に輝いている。本当に美しい色彩をもつひとだ、と、毎日見ているにも関わらず感動を覚えた。そう、まるでこのセフィーロを凝縮し、ひとりの人間の姿に変えたかのように。

「グ……導師クレフ?」
 驚いたのは周囲の住人たちだった。まさか、こんなところで国の最高責任者がくつろいでいるとは夢にも思わなかったのだろう。人々はまるでコントのように同じ動作で驚き、次に焦り、最後に一斉に頭を下げた。まあすごい、とプレセアが呟くくらいだった。人々にとって導師クレフといえば、永遠の命を持つと噂される神に近い存在だ。プレセアもかつて、同じようにクレフのことを考えていたから、彼ら彼女らが動揺する気持ちはよく分かる。
 
 ほど近い木に登って遊んでいた少女が、この騒ぎに何事かと思ったのだろう、ひょいと無邪気な顔を突き出した。そして、地上のクレフと目が合った瞬間―― 一声叫んで、枝から落ちた。相当に驚いたらしい。
 
 危ない、と一斉に皆が叫ぶ。クレフは、手にした杖をひょいと少女に向けた。その杖の先の宝玉が光芒を放つ。
「……え?」
 少女が、きょときょとと周囲を見まわす。まっさかさまに落ちるはずだった小柄な体は、重力に反して、空中に浮かんで止まっていた。そのままゆっくりと、体が地面に降りてゆく。ふわり、と音もたてず芝生の上に着地した。
「元気なのはいいが、怪我はするな」
 クレフの青い瞳が、ふっとやわらいだ。顔を赤くして、こくこくと何度も頷く少女を後に、クレフは白い法衣の裾を翻す。感嘆と称賛のため息が、その後を追いかけた。


***


「いったいどうして、居住区におられたのですか?」
 日が燦々と当たる一室で、プレセアはクレフに尋ねた。籐椅子に深く腰掛け、ティーカップをゆったりと口元に運んでいたクレフは、苦笑いした。
「あの場所からは一番、朝日が綺麗に見えるのだ。早朝、あの樹上で朝日を見ていたら眠ってしまった。気づいたら人々が起きだしていてな。人々の気配に耳を傾けていた」
「人々の気配がお好きだと、前もおっしゃっていましたね」
 クレフにつられて、プレセアも微笑んでいた。

 クレフは、人々の話し声や足音、料理する音や笑い声、さまざまな声や音が混ざった「生活音」の中に身を置くのが好きなのだという。どんな優美な音楽を聞くよりも、心が安らぐのだと言っていた。空から舞い降りてきた色とりどりの小鳥が、クレフの肩や膝に止まった。
「私は止まり木ではないぞ」
 そう言って屈託なく笑うその表情は、中々人には向けられないもので。
 私もあんな風に、彼によりそって歌を奏でたい。そんなことができたなら幸せだと、戯れのように思ってみたりする。
―― たまには、ねだってみたらええやん。
 なんの脈絡もなく、カルディナの言葉を思い出して、なんとなく焦ってしまう。動揺を打ち消すように、クレフを見た。

「木から降りて、人々の会話に入られれば良かったのに」
「私は皆によく、怖がられるからな」
「……え?」
「私はそんなに、恐ろしいか?」
 クレフは少し困ったように眉を下げていた。
「そんな!!!」
 プレセアが突然大声を張り上げて身を乗り出したせいで、小鳥が一斉に飛び立った。羽音の向こうで、クレフが驚いたように目を見開いている。

「す……すみません」
 ひどい剣幕で言いすぎたようだ。こほん、と咳をひとつして、籐椅子に座りなおした。
「大人は皆あなたを尊敬し、子供は憧れています。怖がるなんて絶対にありませんわ」
「そうか?」
 腑に落ちていなさそうな返事に、プレセアはもどかしい思いに駆られる。
「セフィーロが平和になっても大勢がこの城にとどまっているのは、あなたがいるからですわ。皆、ここにいればあなたが守ってくれると信じているのです」
「セフィーロを守ったのは、ヒカルたちだ。私ではないだろう」

「……もう」
 一体どう伝えれば、分かってくれるのか分からない。クレフを尊敬する気持ちは誰にも負けないはずなのに、時折子供にするようにぎゅっと抱きしめたくなるのはなぜなのだろう。誰よりも慕われ、誰よりも強く、そしてきっとそのために誰よりも孤独なのだ。その内面に触れそうになる度、胸を切なく締めつけられる。
「……あなたはもう少し、ご自分の価値を知るべきですわ」
 結局うまく伝えられず、拗ねたような口調になってしまう。
 こんなに近くにいるのに、やはり距離が遠い。それは少なくとも半分はクレフのせいだ。どういうわけか自分に向けられた好意や、自分の価値には一切気づかないらしいのだから。

 気づかないうちに、子供のようにしゅんとした顔を見せていたかもしれない。クレフは少しだけ、困った顔をした。
「……プレセア?」
「……みんな、あなたのことが好きなんです。それはそのまま、受け取ってあげてください。みんなのために」
 本当は、「みんな」とは言いたくなかった。その中に「私」を滑り込ませ、存在を薄めさせただけだった。
 クレフは、それを聞いて少し眩しそうな顔をした。
「ありがとう」
 たった一言が、心を優しくほぐしていく。さっきまで抱えていたもどかしさも胸を離れ、プレセアは首をそっと横に振った。




* last update:2013/7/11