ぽつり、ぽつりと落ちはじめた雫は、夜半には本降りの雨になった。クレフは自室からテラスに足を踏み出す。しっとりとした春の空気が身をつつみ、どこからか華やかな花の香りが漂ってくる。
「……ここが良いな」
掌を上に差し伸べる。すると、しゃぼん玉にも似た半透明の球体が空中に現れた。クレフの頭よりも一回り大きい。
***
セフィーロの春の空気を、オートザムで暮らす妹に土産として持って帰りたい。ザズにそう頼まれたのは、夕暮れのティータイムの時だった。
「なんとか……なりませんか? 妹はセフィーロに憧れてますから、喜ぶと思うんです」
緊張した面持ちで、ザズはそれきり言葉を切ってクレフの反応を待った。オートザムでも随一と呼ばれるメカニックと聞いていたが、ザズはいつまで経っても、クレフの前では少年のように初々しい。精神力で全てを創り上げるクレフと、メカニックのザズの能力はある意味正反対で、クレフ自身も自分にない能力を持つザズには好感を持っていた。
しかしその一方で、オートザムの国土内で魔法が使えることはランティスが証明済だが、セフィーロからオートザムまで魔法が持続できた例はないはずだ。クレフ自身、今まで必要もなく試したことはなかった。受け取り手が魔法の使い手ならとにかく、普通の少女だ。何が起こるか分からない点で危険もわずかながらある。
「……ザズの妹は、外の大気に触れるだけで重い呼吸困難になるのだったな」
クレフが尋ねると、ザズは視線を落として頷いた。オートザムでは、一般の人々でも外ではマスクが欠かせない。彼女は人一倍敏感な体質で、汚染物質に対する免疫がない。外の大気に晒されれば、5分で命が危険だと言われていると聞いていた。
「それよりも、セフィーロに連れてきて静養させてはどうだ? オートザムに住むこと自体が彼女には危険だろう」
クレフがそう返すと、ザズは驚いたように顔を上げた。それほど難しい事だとはクレフには思えなかった。巨大な戦艦で毎月セフィーロにやって来ているのだから、ひと一人くらい追加で乗せられるだろう。
「それは夢みたいです、が」
ザズは驚いたままの表情でそう続けたが、ふと思い出したようにジェオと視線を合わせた。
「兄としたら、セフィーロで療養させてやれたらどんなにいいかと思います。汚染物質が原因なんだから病気は治るでしょう。でもあいつは、『うん』とは言わないだろうな」
「なぜだ?」
「まだ子供なのに、しっかりした奴なんですよ。コイツの妹は」
ジェオはザズの頭にポンと大きな掌を置いて続けた。
「苦しんでるのは自分だけじゃない、とあいつは言うでしょうね」
「……そうか」
だから、「セフィーロの空気」を持って帰ってやりたいと思ったのか。
「……クレフ」
真剣な顔で黙って聞いていた光が、たまりかねたようにクレフの名前を呼んだ。絶対にクレフならできると信じきった顔をしている。クレフは思わず苦笑した。
「分かった、やってみよう」
「ありがとうございます!」
ザズの目が輝いた。明日の朝にはセフィーロを発つという彼のためには、今夜中に完成させる必要があった。
***
ここから遠い遠い場所に、外にも一歩も出られず、病気と闘いながらも、まっすぐに生きている一人の少女がいる。彼女に、このセフィーロの夜と、雨と、花の香りを届けたい。そう思った時、掌があたたかくなる感覚があった。掌の上に球体を掌で抱えるようにして、膜を強化する。オートザムまで持ち、汚染された空気を通さないほどの強度をもち、かつ少女のやさしい掌の中で壊れるように。
「……よし」
この程度できっと大丈夫だろう。クレフは球体を手に、自室に戻った。
クレフの部屋は、子供なら目を輝かせて見入りそうなもので溢れていた。窓際では多種多様な草や花が群生し、宝玉や鉱石が植物の間から、鈍く光を放っている。どれも、クレフが自らの研究や薬をつくるために、セフィーロ全土から集めてきたものだった。一見して室内と外の境界がわかりづらく、クレフの気配を慕った鳥や小動物が室内に入り込んでいたりする。逆側の壁は一面、天井まで本棚になっている。導師はいつか本の下敷きになって死ぬと、ランティスから不吉なコメントが出たほど圧巻の景色だ。その傍に、こじんまりと机やベッドが置かれていた。
クレフは机の上に丁寧に、セフィーロの空気を閉じ込めた球体を置いた。そして、部屋の奥へと向かう。ザズの土産をつくる間、海を部屋の奥で待たせていた。
「ウミ。おまえも、そろそろ部屋に戻ったほうが――」
ついさっきまで、紅茶を片手に、部屋にあった植物図鑑に目を通していたはずだった。しかし海を見つけたとたん、クレフは言葉を止める。
海は空になったティーカップを両手に抱えたまま、大きな背もたれに埋もれるようにして、音も立てずに眠っていた。本は、近くのテーブルの上に置かれている。
クレフは、彼女が目を覚まさないようにそっと、その細い指からティーカップを抜き取った。
「ん……」
かすかに海が息を漏らし、起こしてしまったかとその顔を見やる。しかし、すぐにまた、規則正しく寝息を立てはじめた。
「まったく」
苦笑が漏れる。あの東屋から城に戻った時に部屋に帰れと言ったのに、戻っても一人だから嫌だとしぶって、ここまでついてきたのだ。こういうところは本当に子供だと思う。強いのか弱いのか、大人びているのか幼いのか、わからなくなる。
海の隣に椅子を出現させ、座って彼女を見やる。750年も生きて、世の中の大抵のものは見なれているはずなのに。この少女の薔薇色の唇や、色づく頬や、流れ落ちる水のような髪を見ると、初めてひとの美しさに触れたように心を揺すぶられる。誰もが半ば驚いたような顔で讃えるが、海は顔立ちも身体のバランスも完璧に整った、非日常的なほどに美しい少女だった。
初めてセフィーロに現れた時から目を引く容姿ではあったが、17歳になった今、会う度に花の蕾が開くようにぐんぐん美しく変わってゆく。その変化の早さがまぶしい半面、切なくもある。花開くものはいつか散る。それをクレフほど知っている者はいないだろう。
クレフにとって海は、たいせつな教え子の一人だった。しっかり者で気丈な半面、繊細で心優しく、信頼しながらも傍から離せないような存在だった。しかし今日の夜を境に、海に対する見方は少し変わったように思う。
―― 「あなたの心は、私が守るわ」
海は、クレフとは比較にならないほどに経験は浅く、力も弱い。それを彼女もよく分かっているはずだ。それなのに、ためらいもなく「守る」と口にした。記憶にある限り、彼にそう言った人間は、ただの一人としていなかった。ひたむきで、一生懸命で、子供とは思えないほどその声は力強く
――心がもしも形あるものならば、そのまま私の心をやってもいい。
そう思えたほどだった。
「悩んでいることがあるだろう」と言われた時、すぐにはピンと来なかった。自分の心の動きに、普段あまり関心がなかったからだろう。指摘されなければ、ずっと気づかないままだったかもしれない。しかし海の話に耳を傾けるにつれ、心当たりがあると認めざるを得なかった。ひとつひとつの懸念は小さなもので、その場限りで消えていく点のようなものだ。しかし関連がないと思われた点と点との間に、あるつながりを感じるにいたって、初めてクレフはぞくりとした。
どこか懸命だった海の腕の中で、エメロード姫のことが頭をよぎっていた。全てを捨ててでも彼女が求めたのは、このぬくもり、今のこの感情だったのかもしれない。恋しい人と生きている間に手を触れることすらなかっただろう、彼女の悲しみが脳裏に閃光のように通り過ぎた。エメロード姫が死して三年も経つのに、彼女をまたひとつ、知った気がした。
「ありがとう」
その髪にそっと指先で触れた。
「……すまない」
礼と謝罪。どちらも、本音だった。
「導師」であり続けるために、強くありたいと思っていた。時にはこの手で誰かを傷つけなければいけないこともあった。自分の血に濡れたことも、他人の血に濡れたことも数えきれないほどにある。今の世で生きている人々が誰ひとり知らない、遠い過去のクレフの姿だ。後悔はしない、しないはずなのになぜだろう、誰かの優しさに触れるたび、自分も本当はそうでありたいと――誰かを癒すほど、優しくありたいと思う。自分がその器でないならばせめて、灯のように頼りないその感情が消えないよう、この手で守ることができたら。
クレフは、手にした杖を海に向ける。すると、海が腰掛けている椅子が形をゆっくりとベッドに変えた。ふっくらとした掛け布団を、肩のあたりまで引き上げてやる。あたたかいのか、海が眠ったまま微笑んだ。
失いたくない。
急に胸に衝きあげてきた感情に、クレフはしばらく動けず、ただ海を見下ろしていた。
――「あなたを守ってくれた人も、たくさんあったでしょう」
確かに海の言ったとおりだ。遠い昔、まだ魔導師として未熟だったクレフを守った人は数多い。取り返しのつかない犠牲を払ったひともいた。だからこそ今はこの手を、誰かを守ることに使いたかった。そのひとが今のクレフを見て、自分が命を掛ける理由があったと、思ってくれるように。クレフはその時、そのひとの視線を全身に感じた。我知らず、身体が緊張した。
また、きっといつか出会う。時の深淵のかなたで――
はっ、とクレフは顔を上げた。
―― 今、何を考えていた? 私は、誰のことを――
どくん、と一回、鼓動が高く打った。明るい光に包まれたはずの自室が、急に薄暗くなったかのように感じた。まさか。今自分が抱えている理由なき「不安」。あの時と、同じではないか――
「『扉』……?」
まさか。そんなはずはない。あんなことが、もう一度起こるはずはない。冷たい汗が額に浮かんだ。クレフは無意識のうちに、海を見下ろしていた。相変わらず、赤子のように安心しきった顔で、眠っている。
逃げるな。クレフは自分に言い聞かせていた。抱えている不安の正体と向き合わなければ、いつか悔やんでも悔やみきれない未来を迎えてしまうかもしれない。私にしか、感じられない不安。それは一体、なんなのだ?
わずかな違和感をおぼえたのは、その時だった。心の中に張られた弦のひとつを、ピンと弾かれたような感覚。クレフは一旦考えを止め、違和感の正体を追いかけようとした。その時、
―― 「導師」
頭の中に静かなランティスの声が届いた。彼が今ここにいるわけはなく、チゼータへ向かう飛行艇に光といるはずだ。テレパシーを使って、クレフに呼びかけてきているのだ。クレフは同じように、ランティスに頭の中に言葉を返した。
―― 「どうした? ランティス」
直接顔を合わせていてもあまり口を効かないランティスが、遠くからわざわざコンタクトを取ってくること自体珍しい。連絡を取らざるを得ない事態が起きたということか。自然と声が険しくなった。
―― 「イーグルの周囲に張っておいたバリアに、悪意がある者が触れた。イーグルに危険が迫っている」
なるほど、とクレフはすぐに状況を理解した。さっき感じた、わずかな違和感の正体はそれか。弟子であるランティスが張っていたバリアだから、クレフも異変に気づいたのだろう。
―― 「すぐに、腕が立つ者を行かせてくれ」
ランティスの声が張り詰めている。クレフは杖を手に取った。
―― 「私が行こう」
そして、そっと海の額に触れる。いい夢を、と呟いた。そのまま法衣の裾を翻し、部屋の扉へと向かった。
―― 「あなた自らが出向くことはない」
ランティスの驚きを含んだ声が追いかけてきたが、クレフは頭(かぶり)を振った。
―― 「かまわん。何が起こっているのか、私は自分の目で確かめたいのだ」
―― 「導師?」
ランティスの声音が、訝しげなものに変わった。彼なりに何かを察したらしい。
―― 「今すぐ、精獣でセフィーロに戻る。チゼータ行きは中止だ」
―― 「いや。その必要はない」
クレフはきっぱりと断った。しかし、わずかなやり取りで、すぐに帰国を決断したランティスの勘には驚いていた。「何が起こっているのか確かめる」。それが、イーグルに近づいている危機のことだけではないのを、ランティスは気づいているのだろ。
暗い廊下を、足早に歩く。響いていた足音が、スッと消える。それと同時に、気配も殺した。元々クレフの気配は周囲に悟られづらい。戦いに長けた戦士でも、今のクレフの存在に気づくのは不可能だろう。
―― 「しかし、今のセフィーロは手薄だ。何か起こった時に……」
―― 「遅れを取るというのか?」
クレフが静かに問い返すと、ランティスは圧されたように言葉を止めた。
―― 「あなたに勝てる者はこの世界に存在しない、それは分かっている。しかし、弟子が師を心配するのは当然のことだろう」
おや、とクレフは意外に思った。この男とは決して短い付き合いではないが、昔からこんな風に、ストレートに気持ちを表現しただろうか? いやあり得ないな、とすぐに否定する。どうやら、今彼と一緒にいる少女の影響らしい。クレフは息をついた。ランティスの変貌ぶりは嬉しいが、彼には彼の役割がある。
―― 「……もしも何かが起こるなら、事はセフィーロだけには収まらぬ。おまえはチゼータへ行け、ランティス」
ランティスはしばらく、無言だった。
―― 「導師クレフ。あなたは、何を掴んでいるんだ?」
―― 「掴むのはお前だ、ランティス。気を抜くな」
クレフの予感が当たっているのなら、今やこの世界で平和な場所などどこにもない。
―― 「……わかった。無事で」
―― 「ああ」
クレフは足を急がせた。今のイーグルは自分で身動きもできない身だ、襲われたら自分では防ぎようがない。もしも侵入者がイーグルを傷つけるなら―― 戦わずに済ませることは難しい。クレフは、手にした杖を強く握りしめた。
* last update:2013/7/15