このセフィーロでは「悪意」とは、透き通った水に落とされた一滴の墨のようなものだ。たった一滴でも落ちた後は、水は元の透明ではなくなる。生前のエメロード姫がただ一つ忌み嫌い、セフィーロに上陸するのを許さなかった「悪意」を、今クレフはひしひしと感じ取っていた。
怒りを覚えたのは、久し振りのことだった。クレフは杖を握る手に力を込めた。エメロード姫の永遠の眠りを妨げ、この国を汚すものは誰だ?
イーグルの居室のドアに手をかけた時、初めに気づいたのは独特の匂いだった。このセフィーロのものではない、人工的に造り出された物質が放つ匂い。一瞬頭がくらりとして、睡眠系の効力があるものだと察した。とはいえ、クレフには薬や毒の類はまず効かない。部屋の中からは、何人かの気配があった。いずれも、セフィーロの者ではあるまい。クレフは足に力を入れ、静かに部屋に足を踏み入れた。
マスクを目の下まで被った三人の男が、イーグルが寝ている布団を引きはがし、全く力が入っていないその体を担ぎあげようとしているところだった。イーグルは意識があるのかないのか分からない。近くの椅子では、腕を組んだジェオが座ったまま眠っていて、ザズは隣のソファーで体を丸めて寝息を立てていた。
―― オートザムの者か。
その軍服に似た服装、マスクをしていても分かる色白で怜悧な顔立ちが特徴的だった。予想していたとはいえ、目の当たりにした風景に怒りが一気に高まった。例え母国人だろうが、身内を傷つける者は容赦しない。そう思って初めてクレフは、イーグル達をとっくにオートザム側の人間ではなく、守るべき人々に含めている自分に気づいた。
「止めろ。イーグルは、セフィーロを去るのを望んでいない」
冷たく澄んだクレフの声に、三人の男が息を詰め、同時に振り返った。そして、今の今までクレフの接近に気づかなかったことに驚いたのだろう、目を見開く。
「な……なんだ。子供か?」
初めに声を上げた男の声は若く、まだ十代のようだった。とはいえ、目のすぐ下までマスクで隠している姿では、黒髪で茶色の目をしていることしか分からない。その男よりも頭一つ分背が高く、イーグルを担ぎあげた茶髪の男が、手にした武器を荒々しくクレフに向けた。それは、黒光りのする銃だった。クレフは眉をひそめる。このセフィーロの静かな夜には、あまりにも無粋な小道具だ。おまけに―― クレフを傷つけるには、あまりに威力が小さすぎる。
「助けも呼ばず、いきなり正面から入ってくるとは、馬鹿な子供だ」
茶髪の男の声には、嘲笑が含まれている。クレフは表情を変えずに返した。
「この城の主は私だ。主が、部屋に正面から入れぬ法はあるまい」
「なに?」
茶髪の男が片方の眉を跳ね上げた。奥にいた銀髪の男が、クレフにまともに顔を向けた。茶髪の男よりは小型で細身で、髪の色のせいか少しイーグルに似て見える。この男が主犯格か、その気配から察した。その青く冷たい眼光からは、他の二人からは感じられない威圧感が漂っている。人の上に立ち、従わせることのできる目だ。銀髪は、クレフを見るとほぼ同時に、ためらいも見せず手にした銃の引き金を引いた。
サイレンサーが取りつけられた銃からは、ほとんど音がしなかった。クレフは杖を、無造作に自分の前に翳した。目の前に瞬時に現れたバリアが、弾丸を一瞬で粉砕した。かすかな異音と共に、粉になった残骸がパラパラと床に落ちた。
「なんだ? 銃弾が消えた……?」
黒髪と茶髪の男は顔を見合わせ、状況を理解していないようだ。全てが常人の眼には止まらないほどの一瞬に起きたのだ、普通の反応だろう。銀髪が、スッと目を細めてクレフと対峙した。そして、口を開いた。
「バリアに当たって消滅したのだ。……セフィーロの最高責任者は少年の姿だという噂を聞いたことがある。まさかと思っていたが……貴様は、導師クレフか」
「そうだ」
名前を口にした時、機械のように無感情だった銀髪の声が若干強張ったように聞こえた。
「最高責任者って……このガキがか?」
黒髪が驚いた声を上げた。このセフィーロに侵入してくる割に下調べが足りないな、とクレフは思う。そして、わずかに杖の先を下に向けた。侵入者とはいえ、イーグルを含め傷つけようとしているわけではなさそうだ。戦いになるのは、できれば避けたかった。その瞬間、それを待っていたかのように、銀髪が銃口を眠っているザズに向けた。
「杖を捨てろ。さもなければ撃つ」
「……同郷の者を、手に掛けるつもりか」
静かな怒りを込めたクレフの問いを、銀髪の男は否定しなかった。機械のような目だ、と改めて見返して思う。喜怒哀楽が感じられないどころか、生きているように見えない。オートザムは、高度に機械化された国。精神エネルギーを極限まで使えば、このように人間らしさを失ってしまうのだろうか。
銀髪は、懐からもう一丁の銃を取り出し、その銃口をクレフに向けた。そして、傍らに立つ黒髪に声をかける。
「杖を取り上げろ。この者も、イーグルと共にオートザムへと連行する」
「……どういうつもりだ?」
思いがけない展開に、クレフは眉をひそめた。実行部隊であるこの者たちのオートザムでの立場は、大して上ではあるまい。セフィーロの代表者を誘拐するような、国家関係に影響を与えるような決断を独断でできるとは思えない。ということは元々、オートザムの上層部にはあらかじめ、クレフを捉える意図があったのか?
黒髪が、銃口をクレフに向けたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。クレフはちらりとジェオとザズを見やったが、睡眠薬がよほど効いているのか目覚める気配はない。侵入者の三人とも、無駄のない動きを見れば正式に訓練された軍人だということは分かる。それなのに、クレフの容姿についてさえ、正確な情報を持っていなかった。その理由はただ一つ、セフィーロとの唯一の接点であるジェオとザズが、この国の情報をみだりに母国に流さなかったからだろう。オートザムはセフィーロの敵国ではない―― しかし、味方とも言い切れない。その感覚を持っていたのは、自分だけではなさそうだ。
「……はっ、魔法だなんて子供だましを使う国の長が子供の姿ってのは面白ぇな」
黒髪の男の目には、今や子供らしい残忍さが宿っている。誇示するように、手にした銃をクレフの前で弄んだ。
―― どうするか。
つかの間、クレフは逡巡した。ザズを傷つけることなく、三人の不法侵入者を捕える方法はいくつか思いつく。しかし捕えた後はどうする? 知りたいのは三人が侵入してきた目的だが、生半な方法では口を割るとは思えない。かといって力づくで聞きだすような手荒な真似は、クレフの心情が許さなかった。三人が正規の軍人なら、この侵入はオートザムの命を受けてのことだろう。目的によっては、オートザムが敵にまわりかねない。
それならばいっそ、こちらが囚われの身になって、相手の懐に入り込むか。そうすれば嫌でも相手の目的は分かるのだ。多少の危険は伴うが、魔法を封じられない限りはどうとでもなる。そこまで考えて、ランティスがいたら何と言うか、と思い至って心中で苦笑した。己の身を顧みないにも程がある、とため息をつかれるのが関の山だろう。
「大人しくしろ」
黒髪が右手でクレフの杖を握り、左手で胸元を掴むと壁に押さえつけた。首もとが締めつけられ、顔をしかめる。
「二人とも連れて行け」
銀髪の言葉に茶髪が頷き、イーグルを担ぎあげた時だった。不意に、部屋の外に人影が現れた。
「導師クレフ? どうされました?」
白い影のようにドアの向こうに佇んだ人物を見やり、クレフは息を飲んだ。
「プレセア?」
純白の薄絹でできた夜間着をまとったプレセアが、立ちすくんでいた。裸の肩に、ストールを纏っている姿がしどけない。ネックレスの先の赤い宝玉が、豊かな胸元に隠れていた。普段はきりりとまとめている金髪はほどかれ、豊かに肩や背中に流れている。わずかな光にも、けぶるような輝きを放っていた。
「こいつは、見事な美女だな。不運だったな、この場に居合わせて」
イーグルをベッドの上に下ろした茶髪が、ニヤリと笑う気配がした。それを横目で見て、銀髪がわずかにため息をつく。茶髪は、銃を手に持ったままプレセアに歩みよった。
プレセアは目覚めたばかりなのか、まだ状況を理解できていない目で、部屋の中を見渡した。そして、黒髪の男に押さえつけられているクレフと視線がぶつかった途端、金色の目が大きく見開かれた。
「クレフ!」
「プレセア、待……」
クレフが口を挟む間もなかった。プレセアはおそらく反射的に、ネックレスの宝玉に手をかざす。宝玉が赤い光を放った刹那、宝玉から一振りの剣が現れる。彼女は宝玉から剣を引き抜くような素振りで、一気に抜きはなった。そして、剣の切っ先を躊躇いなくクレフを捉えた男に向け、一足飛びに襲いかかった。
「な……」
まさかいきなり武器を手にするとは思っていなかったのだろう。茶髪が慌てて銃口をプレセアに向けながら、彼女とクレフの間に割って入った。プレセアの目が鋭く光る。銃が火を吹く刹那、細身の刀身が閃いた。一瞬、真っ白な光芒が闇の中で弧を描いた。ひゅっ、と風を切る音が響くと同時に、カツッ、と固い金属音が響く。数秒後、重たい音と共に、黒いものが床にぶつかった。それが根元から斬りおとされた銃口だ、と気づいた時、黒髪と茶髪の男の顔が同時に引きつった。
「そこをどきなさいッ!」
普段の彼女からは信じられないような一喝が、その唇から洩れる。肩に羽織っていたピンクのショールが宙を舞った。
「この女!」
茶髪の声が緊迫感を帯びる。腰に挿していた警棒のようなものを抜きはなち、全力で撃ちかかってきた。プレセアは引かず、逆にスピードを増した。金属音を立てて、男の警棒とプレセアの剣がぶつかり合う。プレセアが唇を噛み、剣を横に流して警棒を受け流す。
「はっ、男の力に……」
女が勝てるか、と言いたかったのだろう。しかしその前に、突っ込んできたプレセアの足が、男の腹に深く食い込んでいた。うめき声をあげて茶髪が床に倒れる。プレセアが身を起こし、黒髪に向き直った。夜間着の裾が割れ、真っ白い足が太腿まで覗いているが、気にもかけていないようだった。
「クレフを離しなさい。さもなければ」
プレセアの黄金色の瞳は異様なまでに澄み、まっすぐに目の前の黒髪の男を射ぬいていた。
「さもなければ、何だってんだ!」
「殺すわよ」
男は、クレフの杖を握ったまま動けない。しん、とその場に沈黙が落ちた。
戦いの場では、一瞬でもひるんだり、集中力を欠いたりした者が負ける。黒髪の全身が強張り、注意が逸れた瞬間をクレフは見逃さなかった。杖を握った手に力を込めると同時に、先端の宝玉が強い光を放った。ぎょっとして手を引いた黒髪に、杖の先を向ける。男が声を立てる間もなく、腕や胴体に光り輝く鎖が巻きついた。バランスを失った体が、数歩たたらを踏んで、どうと地面に倒れ込む。
「クレフ!」
プレセアが駆け寄ろうとするのを、クレフは視線で制した。彼の視線の先に気づいたプレセアが立ち止り、剣を油断なく銀髪の男に向けた。ザズにぴたりと向けられた銃口を見て、彼女の視線が険しくなる。銀髪は、何事もなかったかのような無表情のまま立っていた。殺気も感情も感じられない分、次の行動が読めない。と、不意に彼はザズに向けた銃の引き金に指を掛ける。
―― 殺すつもりか?
その場に緊張が走ったその時、
「―― ジェオッ!!」
イーグルの大声が、クレフとプレセアの脳裏に響き渡った。テレパシーだと信じられないほどの声量で、二人が同時に肩を跳ね上げたほどだったが、銀髪には全く聞こえていないらしかった。それとほぼ同時に、完全に眠っていたはずのジェオが、カッと目を見開いた。そして、目下の状況を見るなり間髪をいれず、丸太のような腕を真横に払った。睡眠薬で完全に眠らせたつもりだったのだろう、油断していたに違いない銀髪の体が、一撃をまともに受けて壁まで吹き飛ばされた。
「な……んだぁ? 皆、無事か? なんか、頭が……」
ふらつきながらも、とっさの行動力はさすが軍人だと言うべきだろう。ジェオは頭を掌で支え、唸るように言うと周囲を見まわした。
「ああ。もう大丈夫だ」
クレフは即座に、光の鎖で残る二人の男を縛り上げた。油断なく周囲の気配を探ったが、もう怪しい者の気配は感じない。
「イーグル! 無事か?」
ベッドの上に投げ出されているイーグルに目を止めたジェオが、慌てて駆け寄る。
「―― 僕は大丈夫です。それより、この三人に見覚えはありますか? オートザムの者のはずです」
「なんだと?」
ジェオの顔色が変わった。そして、床に座らされている三人にずかずかと歩み寄る。そして、銀髪の男のマスクを指で引きずり下ろした。機械のように整った、非の打ちどころのない顔だ。しかし、整っているという以外、これといって特徴がなかった。目をそらせば、どんな顔だったか、たちどころに印象が消えてしまうような。ジェオは顔をしかめた。
「……知らねぇ顔だ。でも、オートザムには間違いなさそうだな」
その身なり、手にした銃、そして顔立ちも、オートザムに特徴的なものだった。ジェオは三人から離れると、イーグルを元通りベッドに寝かせた。そして、クレフとプレセアに改めて向き直る。
「導師クレフ、創師プレセア。オートザムの者がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。処遇は、あなた方が決めていただいてかまいません。なんなりと従います」
「目的が知りたい、それだけだ。―― ただ、この三人は今、イーグルを連れ去ろうとしていた」
自分も一緒に連れ去られようとしたことは伏せていた。クレフの言葉に、ジェオが驚いたように三人を見下ろす。
「―― こんな強硬手段に出てくるとは。あまり大統領に信頼されてませんね、ジェオ」
「軽口叩いてる場合かよ」
ジェオはため息をついてイーグルを見やった。そしてクレフに視線を戻す。
「大統領が、イーグルをオートザムに帰国させたがっているのは本当です。大統領は、やると言ったことは必ずやる、そういう意味ではこのイーグルによく似た男です。大統領に直接真意を問いただしてきます」
「……わかった。後は、任せよう。ジェオのことは信頼している」
「……ありがとうございます。こんなことがあったのに、信じてくださって感謝します」
オートザムの大統領がイーグルを帰国させたがっている、というのはクレフにとっては初耳だった。単純に、親が息子に会いたがっている、とも思えない。仮にそれだけが目的だとしたら、わざわざこんな物騒な刺客を送り込んではこないだろう。それに、クレフが知る限りこの三年間一度もそんな素振りは見せなかったのに、なぜこのタイミングで、と疑念が募る。
しかし目的については、ジェオ達に任せるのが最善に思えた。下手にクレフが動けば、二国間の衝突に発展しかねないことは分かっていた。今オートザムと摩擦を起こしても、両国にとって利益はなにもない。
クレフは、杖を三人に向けた。ハッと緊張した三人を、光が包む。再び光が消えた時には、三人の姿はその場から掻き消えていた。
「とりあえず、三人をセフィーロ城内の牢に移動させておいた。明日にでも、戦艦に身柄を移せばよいだろう」
「お手間をおかけします」
ジェオは頭を下げた。
「……導師クレフ。大丈夫ですか?」
控えめな声が背後から掛けられて振り返ると、プレセアがクレフの前で膝を折るところだった。そして、黒髪の男に押さえつけられた時に乱れたクレフの衣服を丁寧に直した。その手つきは優しく、大の男を圧倒したさっきまでの姿と同一人物とは思えなかった。
「―― あなたが素晴らしい剣士だとは、知りませんでした」
イーグルの声に、顔をあげたプレセアは微笑んで首を横に振った。
「私は剣士ではないわ。創師として武器を創るのが仕事だから、扱えるのは当然よ」
「……すまなかったな。おまえに剣を取らせたくはなかったのだが」
プレセアは、これほどの剣技を持ちながら、剣士と呼ばれると必ず否定する。何よりも、創師であることに誇りを持っているからだ。それに、何かを創りだすことを好む一方で、自らの手で何かを破壊するのは望んでいない。しかし裏腹に、その剣術はその辺りの剣士が束になっても敵わないほどのレベルだった。彼女ほど、武器を自分の体の延長のように使いこなす者は、クレフが知っている中でもそういない。
クレフの声が沈んだのに気づいたプレセアが、慌てて手を横に振る。
「いいえ! どうかお気になさらないでください。あなたが無事で、ほんとうに良かったですわ」
そう言いながら、何気なく自分の姿を見下ろした。そして肩も露わな夜間着一枚しかまとっていないことに気づき、足の先から顔まで一気に赤くなった。
「す、すみません! お見苦しい姿で……!」
思わずジェオが顔をそむける。その頬が赤くなっているところから見て、意外に初心なところがあるらしい。クレフは法衣の上着を外し、プレセアの肩に掛けた。
「部屋まで送ろう。そろそろ睡眠薬が効いてくるはずだ」
「え……睡眠薬?」
首を傾げたプレセアの体が斜めに傾いだ。無理やりに体を起こしたものの、上半身が頼りなく揺れている。
「だ、大丈夫です。一人で帰れますから」
「大丈夫ではないだろう」
「大丈夫です……どうせ寝るところでしたし」
ただの睡眠薬で毒性はなさそうだったが、そういう問題ではないだろう、と思う。プレセアは何とか数歩歩いたが、前にくず折れたところでジェオが支えた。
「しかたないな」
クレフは杖を掲げ、その場に天蓋付きのベッドを出現させた。なんとかそこにプレセアを横たえたジェオが、床に座り込む。
「すんません。どうにも、眠く……」
そこまで話すのが限界だったらしく、座ったまま動かなくなったかと思うと、すぐに寝息が聞こえだした。
ジェオとプレセア、ザズの寝息が、静まり返った部屋に小さく響いている。さきほどまで大立ち回りがあったとは思えないくらいの静寂だった。
「―― 導師クレフ。助けていただいて、ありがとうございました」
ふわりとイーグルの声が脳裏に届いて、この男は起きているのだったと思い出した。さっきジェオを呼んだ時も、セフィーロの者だけに聞こえるようテレパシーに工夫を加えていた。もともと、イーグルは気づいていないようだが、相手にテレパシーを送ること自体が、一種の魔法なのだ。並々ならぬ魔法の素養を備えている可能性も大いにある。
「ずっと意識はあったのか」
「ええ。睡眠薬も効かないようです。というか、元々眠っている状態ですしね」
あははは、と呑気に笑うイーグルに、クレフは少し呆れた。今の今、浚われるところだった人物の態度とは思えない。
イーグルは同じ調子で続けた。
「さっき、わざと捕まるつもりでしたね。オートザムの目的を探るために」
あまりに断定的で図星だったせいで、とっさに取りつくろえず黙った。この男はおそらく最初の辺りから目を覚ましていたのだろう。それにしても、目が見えないのに、どうしてその場の空気がそこまで把握できるのだろうと不思議だ。
「さっきの侵入者を見て、お感じになったでしょう。オートザムの人々は、年々『心』を失ってゆきます。人の心を心とも感じず、命を命とも思わない……捕まれば、何をされるか分かりませんよ」
「……『心』を?」
「ええ。それに彼らは、この場で貴方を始末したほうが簡単だったにも関わらず、連れ去ろうとした。オートザムは絶対的な大統領の権限で支配された世界ですから、あの男たちの独断とは思えません。オートザムの者が貴方を浚おうとしたのなら、それは大統領の意志と言っていい。……ご自愛ください、導師クレフ」
大統領の息子であるイーグルの言葉には説得力があり、クレフは考え込んだ。大気汚染に苦しめられているオートザムが、クレフを連行しようとするに足る、理由。セフィーロは魔法や薬草を使い大気汚染の解決に協力してきたが、その成果が現れるのが待てなくなった? しかし、それはない、とクレフは直感的に思った。オートザムは、セフィーロなど他国の協力は受けても、最終的には自国の科学を最も重用する国家だと、今までのやり取りで感じていた。
その時、しばらく黙っていたイーグルが、口を開いた。
「カリア、を」
「え?」
「カリアを、お持ちいただけませんか。僕にはもうあまり、寝ていられる時間がないようです」
「焦るな、というのは難しいだろう。だが、おまえの治療には最善を尽くしている。これ以上のカリアの使用は、今のおまえの体には無理だ」
「副作用はないんでしょう? セフィーロにある中で、最も覚醒効果が高い薬草だとも聞きました」
イーグルが食い下がると、クレフは首を軽く横に振った。
「確かにカリアには副作用はない。しかし、三年間眠っていたおまえの身体にとっては、覚醒するという行為そのものが負担となるのだ」
「それでも、と言っても?」
「駄目だ」
クレフはきっぱりと言う。イーグルが苦笑した。言い募っても無駄だとわかっているのだろう。
正確には、覚醒効果が最も高い薬草はカリアではない。今から百年ほど前、更に効果の高い「フィオラート」という薬草をクレフ自身が創りだしたからだ。最も、副作用もそれに比例して高く、体力がある者にしか使えない。弱ったイーグルの身体向けではなく今まで使っておらず、イーグルには存在も知らせていなかった。知れば必ず使ってくれと言うに決まっているからだ。一方で、セフィーロの者であれば誰でも、フィオラートの存在は知っていて、むしろフィオラートがなかった時代があることも知らない。そこまで考えて、ふと違和感を覚えた。
「……イーグル。お前に、カリアの効果を教えたのは誰だ?」
カリアが最上の薬だという知識は、百年以上前のものなのだ。誰かが、フィオラートの存在を隠すために嘘をついたのだろうか? しかしランティスを初めとして、敢えてそんな嘘を口にはしない気がした。
イーグルは数秒言葉を止め、やがて微笑んだ。
「僕もこの国に来て、魔法が使えるようになったのかもしれませんよ?」
「イーグル?」
「―― 導師。これは、ただの僕の勘ですが――」
イーグルは、少し間をあけて、続けた。
「セフィーロは、この三年間、平和でした。でも、ずっとこのままではいられませんよ」
「ああ」
クレフはすぐに頷いた。予感は少しずつ、覚悟に変わりつつあった。
「わかっている」
第二章 完
* last update:2013/7/15