どこかから、狼の遠吠えが聞こえたような気がした。
 大地を走り、谷間をくぐって、空の向こうに連れて行かれそうだ。耳を通りぬけた後も、頭の中にさびしい余韻を残す。
 イーグルはゆっくりと目を開けた。

 真っ先に視界に入ったのは、雲ひとつない真っ青な空だった。その色に、チゼータに旅立って一週間になる、ランティスのことを思い出した。この地はセフィーロに違いない、と確信する。監視塔からチゼータやファーレンの空は見たことがあったが、ここまで透明感のある深い青ではなかった。
 下を見やると、鳥の嘴のように先がとがった崖が目に入った。あの場所だ、と直感的にわかった。前に夢を見た時、イーグルが初めに立ちつくしていた崖だ。そこで彼は、銀色の髪と青い瞳をもつ、美しい少女と出会ったのだった。
 これは、あの夢の続きなのだろうか。それとも、あの夢があまりに印象的だったから、また現れただけなのか。一瞬空に視線を戻して、また崖を見やって、驚いた。つい一秒前には誰もいなかったのに、いつしか一人の娘が、イーグルに背中を向けて立っていたからだ。

「……」
 話しかけようとしたが、喉が詰ったように声が出なかった。腰まである娘の銀髪が、崖下から吹きあげる風にたなびいている。陽光を受けキラキラと輝く髪は、まるで晴れの日の雪原のようで人間の体の一部とも見えなかった。そして娘は、華奢な体に似合わない藍色の甲冑をまとっていた。少し灰色がかった白のマントが、その背中を覆っている。腰からは、剣の柄が突き出していた。イーグルは、一度ごくりと唾を飲み込んだ。
「―― こんにちは」
 今度は滑らかに口が動いた。これではこの間と真逆だ、と思いながら。娘はすでにイーグルの存在には気づいていたのだろう、微動だにしなかったが、やがてゆっくりと振り返った。

―― イーグル・アイ。
 鷲の目。自分の名前の由来にもなった言葉が、ひらりと頭の中に閃いて、消えた。ガラスのように透明で鋭い眼差しが、肩越しにイーグルを見つめていた。
―― なんて青いんだ。
 その青い目と視線がぶつかった時、視界全体がわずかに青みがかったように見えた。もちろん、これは錯覚だろう。しかし、ランティスのそれよりも深く、海の色のような青は、やはり人間のものとは思えなかった。彼女はきっと、人間でありながらこの『セフィーロ』という土地に愛されているのだろう。そして、イーグルは自分を見つめて来る眼差しから確信を持った。知っている――この娘はあの時に見た少女と同一人物であるだけでなく、自分のことを覚えている。
「また、お会いしましたね。あの時は、あなたの名前は聞けませんでしたが――」
 あの時のあどけない少女と比べると、比較にならないくらい成長していた。あの頃が10歳足らずだとしたら、今は17・18歳くらい―― 今の光や海、風とそれほど変わらない年頃になるだろう。白いドレスは威厳ある甲冑に代わり、携えていた小さな花籠は剣に変わったが、顔立ちはあの少女の面差をはっきり残している。

 キッと引き結ばれていた娘の桜色の唇が微かに開かれる。その時に一陣の風が吹き抜け、今までは気づかなかったきな臭い匂いを、崖下から運んできた。
「―― 私は、ロザリオ。導師ロザリオ」
「……導師?」
「たった今、その称号を受け継いだばかりだ」
 導師、という単語を聞いた時、頬を急に叩かれたような軽い衝撃が走った。イーグルにとって「導師」とは、クレフだけだ。今のイーグルにはクレフの姿を直接見ることは叶わないが、彼が歩いて来る時に感じる、セフィーロそのものを凝縮したような人間離れした気配は、彼だけのものだと思っていた。しかし今目の前に佇むこの娘は、クレフと同じ気配を持っている。覚えず、背中に冷たい汗が流れた。

「やっぱり、ただの夢ではないようですね」
 かすかに呟いた声はロザリオには届かなかったのだろう、彼女が表情を変えることはなかった。イーグルは眦を決してロザリオに向き直った。
「ここは『セフィーロ』なのですか?」
 これがただの夢ではなく、現実とリンクしていると仮定するならば、できる限りの情報を聞きださなければ。ロザリオの瞳が、スッと細められた。一切の感情を現さなかった顔に、痛みとも懐かしさとも何ともつかない感情が走る。

「『セフィーロ』か。そうだな」
 静かな、穏やかとすら言ってもいい声だった。イーグルはゆっくりと、ロザリオの元に歩みよった。そして彼女と並び、眼下の景色を見渡した。その途端、我知らず足が震えた。
「『セフィーロ』だった、と言うべきか」
 前に見た時には、この崖からは森や湖や砂漠が見渡せた。宙に浮かんだ島からは巨大な滝が流れ落ち、ずっと見ていたら飛沫が顔に飛んできそうなほどに臨場感がある、美しい自然が広がっていた。
 しかし今、イーグルの目に映っているのは、見渡す限りの焦土だった。森も湖も砂漠もなく、ただ黒々とした大地が続いているだけだった。一体どうすれば、あれだけの大自然が絶滅するというのか。大地に火を放ち、地形も変わるほど永い間焼き続けたとでもいうのだろうか。原因は想像しがたい。しかし、そこに住んでいただろう、人や動物、植物の命がどこにもないことだけは確かだった。

 ロザリオは、歴史を読み上げるように淡々と続けた。
「ここはもう、ただの荒れ地でしかない。だからもう、この土地に名前などない」
「滅びた……セフィーロが?」
 ランティスと、一週間前に交わした会話が脳裏をよぎっていった。
――「かつて、セフィーロは滅びたことがあるそうだ。導師クレフがそう言っていた」
 ランティスは確かにそう口にしていた。それ以上のことは聞かなかったが、このことを示していたのか? 過去にセフィーロに起こったことが、そのまま今イーグルの前に現れているとでもいうのか。そこまで考えて、イーグルはぞくりとした。これがただの「夢」ではなく「現実」なら、過去に起きた事実という可能性と同時に、未来に起きることを垣間見ている可能性もある。

「ここは……どこなのですか」
 押し出した声は、掠れていた。本当にここはセフィーロなのか、そしてどの時間軸にいるのか、分からない。突然知らない場所に放り出された迷子のように、心もとない気持ちがイーグルを満たした。ロザリオは淡々と答えた。
「気づいているのだろう? ここは『夢』ではない。おまえもよく知る『現実』だ」
「自分も知らない『現実』を『夢』で見ることなど……」
「稀に、できる者が存在する。最も、おまえにその力はないが」
 ロザリオはちらりとイーグルを流し見て続けた。
「オートザムの者か。私が見慣れぬ服装ということは、おまえは未来から来たのだな」
 世の中に『現実』を『夢』として見る力を持つ者がいて、イーグルがその力を持たないということは、これは何者かの計らいによるものなのだろうか? 疑問に思ったが、後半の発言はイーグルの思考を奪うに十分なものだった。

「それなら……それならば『これ』は!」
 イーグルは声を荒げ、腕で崖下を差した。
「一体なぜ、セフィーロは滅びねばならなかったのです?」
 ロザリオは、わずかに眉をひそめてイーグルを見つめた。
「……異なる時空から来た青年よ。自分のいた世界に戻るがいい。ここにはもう、何もないのだから」
 彼女の手は、よく見れば血とも泥ともつかないもので汚れていた。そうだ、少なくとも戦争は起こったのだ。彼女の甲冑や剣を見れば、容易に想像できることだった。そしてこの娘も、戦ったのだろう。「導師」なら、その実力は想像するに難くない。そして、全ていなくなったのか? 彼女一人を残して。

「でも、この地にはあなたがいる」
 無意識のうちに、そう口にしていた。
「たった一人残されて、あなたはどうするのです。いったいこの地に、何が起こったのです。僕があなたに、何かできることはないんですか」
 自分よりも遥かに「強い」だろう娘を前に、どうしてそんなことを尋ねたのか。言おうとして言ったというよりも、勝手に言葉が口に出たというほうが正しかった。ただ、ロザリオが今にも消えてしまいそうに儚く、幼い少女だった頃の彼女が背後にダブって見えたのだ。

 ロザリオは、少し驚いたように目を見開き、イーグルに向き直った。しかし、やがて諦めたように、小さく首を横に振った。
「いったいどうして、こうなってしまったのか。こんな『結末』を避ける方法はなかったのか。何度も考えたことがある。しかし、今でなら分かる。避ける方法はなかったのだと」
「導師ロザリオ……」
「人には、誰しも『願い』がある。誰にも認めてもらえなくとも、間違っていると分かっていても、捨てることができない『願い』が。それに出会えるのは、『幸せ』なのだろうか。それとも、『不幸せ』なのかな」
 ロザリオは、言い終わる時にはもうイーグルを見ていなかった。遠い空の向こうを見ていた。
 
 イーグルは、ロザリオが呟いた言葉に、心を直接打たれたように立ちすくんだ。それは、イーグル自身が何度も思ったことに違いなかったからだ。心を読まれたのかと思った。
 セフィーロの『柱』制度の終末を願い、命を賭けるランティスを救うために、イーグルは『柱』になることを決意した。たった一人の命のために、ランティス自身望んでもいないのに、多くのものを犠牲にしようとした。誰にも認められるはずもなく、正しいはずもなかった。それなのに、その願いを捨てることがどうしてもできなかった。
「……僕には、その問いに答える資格はありません」しばらく沈黙した後、イーグルは言った。「僕もまだ、答えを出せていませんから」
 ロザリオは振り返った。彼女が涙を流しているのに、イーグルはその時気づいた。自分が泣いていることにすら気づいていないようだ。涙は頬を伝い、水滴となって宙に舞った。周りに生けるものの気配は他になく、血の匂いのする娘が一人。それなのに、ぞくりと恐ろしくなるほどに、ロザリオは美しかった。

 イーグルはロザリオに歩み寄る。そして、涙が伝う頬に指先を伸ばした。
「病んでいるのか」
 不意に、ロザリオが言った。
「ええ」
「……直に、目は覚めよう」
 ロザリオは目を閉じ、指先でトン、とイーグルの額を衝いた。それと同時に、意識がぐんと遠くなる。
「導師ロザリオ!」
「ひとつ聞きたい」
 そう言ったロザリオの顔がぐんぐん遠のき、輪郭がぼやけていく。声だけが耳に届いた。
「おまえの知る『セフィーロ』は、美しいか?」
「ええ……ええ。何よりも」
 セフィーロと同じ色の目をした男のために、自分の人生を全て掛けてしまうほどに。それほどまでにあの「青」は、美しい。イーグルは懸命に叫んだが、その声がロザリオに届いたかは分からない。ただ、彼女が微かに笑う気配を感じた。
「また―― 会おうぞ」
 衝撃に目を閉じ、開けた時にはもうロザリオの姿はどこにもなかった。


***


 意識がゆっくりと浮上したが、夢なのか現なのか、自分でも分からなかった。また別の夢に入り込んだのかもしれない。自分がベッドに横たわっているのは分かったが、瞼には力が入らず、目を開けることができない。現実に戻ったからなのか、そういう夢なのか判然としない。

 ただ、すぐ隣に誰かがいるのは分かった。「人」の気配とは明らかに違う。セフィーロ自体を濃縮したような、人間離れした空気。まだ、とどまっていてくれたのか。イーグルはほっと息をついた。そして、わずかに動く指先を、気配に向かって伸ばした。
「―― 導師」
心の中で呼びかける。すると隣で、身を起こす気配がした。
「―― 導師ロザリオ」
 その瞬間、がたんっ、と音がした。そのひとは椅子を倒して立ち上がり、イーグルを見下ろしたようだ。こちらを凝視する視線を感じた。わずかに震えた吐息に、イーグルは自分の勘違いに気づいた。
「あなたは、導師クレフ……?」
「なぜだ?」
 クレフの声は、生々しいまでに揺れていた。いつも冷静沈着な彼がこれほど動揺しているのを、初めて聞いた。
「なぜおまえは、導師ロザリオを知っている?」


* last update:2013/7/15