早朝の爽やかな空気が、笹のように先が尖った葉を揺らしていた。さわさわと音が耳をくすぐり、風は目を細めた。高台から見下ろすと、段々畑や水田が一面に広がっている。こんなに朝早いのに田畑には人が出てきていて、畦道ではヤギに似た生き物が、二匹の子供を連れて草を食んでいた。
「綺麗ですわね……」
 風は、胸を反らして大きく息を吸い込んだ。アスカに聞いたところ、これから本格的に暑くなっていくとのこと。今は東京で言う5月か6月くらいの気候なのだろう。

 初めて訪れた国なのに全くそんな気がせず、懐かしくさえあるのはなぜだろう。アスカやサンユンと初めて会った時にも思ったのだが、人々の顔立ちはアジア風で、景色も日本や中国、東南アジアの田園風景を彷彿とさせる。今、風が手を掛けている木も、竹とどう違うのか見わけがつかないくらいだった。
 ひっきりなしに鳴いているのは蛙だろうか。生の声を聞いたこともないのに、そう分かるのは不思議だと思う。風が住んでいるのは典型的なヨーロッパ調の邸宅で、親戚たちも皆、洋風の家に住んでいる。蛙の声はもちろん、水田や畑をこれほど間近で見たことは一度もない。それなのに、目の前の景色は自分のルーツを強く思い出させるものだった。米にそっくりな植物は、その剣山のようにすっきりと尖った葉先を天に向け、野菜が青々と実っている。この国の豊饒さが伝わってくる風景だった。
 
―― モコナさんの影響があるのかもしれませんわね。
 三年前に、自分たちの前から姿を消したことを思い出し、風は我知らず唇を噛んだ。彼女たちの旅に最初から最後まで同行したあの生き物は、実はセフィーロや東京を含めた、世界の『想像主』だった。創造主なら当然、東京のこともセフィーロのこともよく知っていたはずだ。二つの世界が、どこか似通っていたとしても、当然かもしれない。
 
「あら?」
 物思いにふけっていた風は、少し離れた畦道に目をやり、我に返った。そこにはいつもの格好のフェリオが立っている。三角錐型の編笠をかぶった男と、何かしきりに話しこんでいる。傍には子供たちがいて、珍しそうにフェリオを遠巻きにしている。このアジア風の景色の中にフェリオがいると、ものすごい違和感があった。一体何を話しているのだろう、二人は同時に胸を反らせるようにして笑った。風はつられて微笑むと、二人の方へと向かった。

 フェリオは、風がやって来るのを見つけると笑顔で大きく手を振った。
「おはよう、フウ」
「おはようございます、フェリオ。早いですね」
「フウこそ。今、この人たちに何をやってるのか聞いてたんだ」
 そう言うと、フェリオは編笠をかぶった男を笑顔で見やった。
「何って、そんな珍しいことじゃないさ。農作物を育ててるんだよ」
 笠に半分隠れている目は意外と人懐っこく、背後の畑を指差して見せる。フェリオは頷き、珍しそうに男が手にした農具を見下ろした。
「そうか。自分たちで食用になる野菜や果物を育ててるんだな」
 試しに鍬を手に取り、振り下ろしてみる。そんな体勢じゃ駄目だぁ、と子供たちが一斉に笑った。

「そういえば、セフィーロでは皆さん、食べ物はどうなさっているんですか?」
 フェリオの言葉に思い当ることがあり、風はふと気になって聞いてみた。今まで何度も不思議に思ってはいたのだ。セフィーロではいつも野菜や果物が潤沢にあったが、畑を見たことがない。もっとも、風たち三人はセフィーロの住民にはほとんど関わらなかったから、目にしていないだけで居住地には畑があるのだろうと想像していたのだ。フェリオは当たり前のような顔をして答えた。
「果物は勝手に木になってるし、食べられる野菜はそこらじゅうに生えてる。その辺にいる動物の乳を搾って飲んだり、魚を食べる奴も一部いるな」
「そういえば、肉を食べたことは一度もありませんわね……皆さん、ベジタリアンなんでしょうか」
「獣の肉か!? 普通、喰わないぞ。というか、ベジタ……ってなんだ?」
 フェリオの驚き方に、逆に風は驚いた。東京では日常的に肉を食べている、などとは言わないほうがいいのだろう。全員が肉を基本的に食べないのなら「ベジタリアン」に値する言葉もなさそうだ。風はにっこり笑って話を流した。
「そう、食べ物を作る必要がないのですね」

「セフィーロってのは、すげえ国だな。魔法の国だって言うけど、天国みたいじゃねえか」
 男は、背後にいる子供たちと顔を見合わせている。フェリオは笑って、手を横に振った。
「エメロード姫のころはそうだったけど、最近はそうでもないんだ。自分が食べるものは、ある程度自分で育てなきゃいけなくなった。だから、こういう技術を学んで、セフィーロに広めたいんだ」
 フェリオは立っている位置が高い、と風は横顔を見て思った。王子という立場が彼を成長させたのだろう。常に、セフィーロにとって何が一番いいか、今までの型にとらわれずに考えて学ぼうとしている。風は今、責任のない立場ではあるが、それでも周りの人達のために、何ができるか自分なりに考えてみたいと思った。

 その時、丘の上から長く影が差しこんできて、風とフェリオは顔を上げた。すると、朝日を背に見慣れた姿が視界に入った。
「お二人とも、朝食の時間ですよ。アスカ様も御屋敷でお待ちです」
「サンユンさん、ありがとうございます」
 にっこりと笑って頭を下げ、サンユンに歩みよる。丘の上に並んだ時、田畑とは反対側に広がる巨大な屋敷が目に映った。東京タワー何個分、と数える気にもならないほどに広大な土地に、瓦屋根を翼のように優雅に広げた屋敷群が、延々と続いていた。遠くの方は朝靄に隠れてぼやけてしまっている。これが王宮ではなく、アスカ一人のために造られた別荘のようなものだと言うから、初めて見た時には唖然としたものだ。「子供部屋」には明らかに度が過ぎている。
「本当に『平和』ですのね、ファーレンは」
 思わず、思っていたことが口をついて出た。当然、サンユンはいつもの笑顔で頷くものと思っていた。しかし予想していた返事はなく、風はサンユンを見返した。
「……あれを見てください」
「え?」
 サンユンは屋敷のほうを指差した。すぐ隣に立って彼の視線を追い、ようやく気づいた。屋敷の周囲には、塀が張り巡らされている。

「あれは……」
「敵の襲撃から屋敷を守るためです。あの屋敷の中央にある高見櫓(たかみやぐら)から、常時斥候が周囲を見張っているんですよ」
「一体だれが、ファーレンの人々を……」
「ファーレンですよ」
 どこか淋しげに笑ったサンユンは、いつもに似合わず大人びて見えた。
「ファーレンは見ての通り、豊饒で広大な大地が広がっています。四カ国の中でも住民は飛びぬけて多い。数多い国民達を束ね上げることは、極めて難しいんです。いくつもの部族が覇権をめぐり争っています。王家とは言え、全てを支配はできていないんです。ファーレンの統一は、王家も含め未だに誰も成し得たことがありません」
「そう……なんですか」

 アスカがいつも明るくふるまっているから、そんな背景があるようには全く見えなかった。もしかすると彼女が対峙しなければならない困難は、セフィーロやチゼータ、オートザムの誰よりも厳しいのかもしれない。風は微笑んでサンユンを見下ろした。
「でも、アスカさんが笑っていられるのは、あなたが隣にいるからかもしれませんね」
「えっ?」
 サンユンの小さな目が、意外そうに見開かれた。
「見てみたいですわ。アスカさんが統一したファーレンを。今でさえ、こんなにすばらしい国ですもの」
 そう褒めると、その色白の顔が一気に赤くなった。
「そうなんです」
 大きく頷いたその顔は、誇らしげだった。

「ファーレンには、セフィーロのような魔法はありませんし、統一もされていません。それでも、美しい大地とそこに住む人々を私は誇りに思っています。その国の次の王となられるアスカ様にお仕えしていることも」
「……あなたは、幸せな人ですわね」
 大切な人に信頼されて、ずっと一緒にいられること。自分がすばらしいと思えるもののために働けること。サンユンは目立たないけれど、芯が強いひとだと風は思っている。信じるもののために生きるひとは、強い。

 サンユンは、まぶしそうに風を見上げた。
「私が幸せだというなら、王子も幸せな方だと思いますよ」
「……そうでしょうか」
 風は、畑の傍で子供たちと遊んでいるフェリオを遠く見やった。
「……フウさん?」
「私は、フェリオの傍に、ずっといてあげることができませんから」
 光や海にさえ言っていない本心がぽろりと転がり出て、風は自分でも驚いた。サンユンは普段なかなか会うことがない、適度な距離のある人物だったからかもしれない。それとも、サンユンの表情があまりに風に優しかったせいか。

―― フェリオのことを愛している?
 そう聞かれれば、Yesとすぐに答えられる。どんな状況で何度尋ねられても、一生の間にこの答えが変わることはない。そう確信が持てるほど、かけがえのない人だと思っている。それなのに、東京を捨ててこの世界に生きようとしない理由を、風は自分でもうまく説明できない。それに、みな風に気を遣ってそんなことは尋ねない。たった一人で問いかけ、そして地の底に吸い込まれるような淋しさを覚えることがある。

 比べても仕方がないと知りながらも、何の障害もなく一緒にいられるアスカとサンユンを、羨ましいと思ったのは、確か。
―― 私は、フェリオを幸せにできているだろうか?
「王子は幸せですよ。僕にはわかります。なぜなら自分の手で、大切な人を守れているじゃないですか。あなたが今ここで笑っていられることが、その証拠ですよ」

―― どうして、どうして私の気持ちが分かるのですか?
 そう尋ねようとした言葉を、胸の奥に飲み込む。
「……ええ。そうなら、私も『幸せ』です」
 風は微笑んだ。


* last update:2013/7/15