ランティスは、チゼータの神殿に続く道を歩いていた。色褪せた赤い煉瓦が、隙間なくきっちりと並べられている。砂漠から吹きこんできたと思われる赤っぽい砂がうっすらとその上を覆っていた。湿度の少ない強い日差しが、容赦なく肌に照りつけてくる。マントで身を覆っていた方が涼しく感じる。常春のセフィーロを離れるまで気づかなかったが、彼は暑さが苦手だった。どちらかというと、暑いよりは寒いほうが肌に合う気がする。

―― 苦手、というならこっちのほうが上か。
 ランティスは表情を変えないまま、ため息をついて道の右側を見やった。とにかく、騒がしい。わいわいがやがやというレベルではない。水音に混ざって、時折甲高い嬌声も混ざる。
「きゃああ、冷たっ!」
「こっち深いよ!」
 通路の右側には、海が広がっていた。そして、大勢の人々が海水浴に興じている。どうみても、ランティスの目には海が膝よりも深いようには見えないのだが、大人も子供も水を跳ね散らかして大騒ぎだ。左側には、びっしりと家や店が並んでいた。
 チゼータの面白いところは、砂漠と海の距離が近いことだ。これほど狭い星でも山があり、そこでは何と雪が積もっていた。土地によって景色ががらりと変わるのだ。そして今この場所はこれほど暑いのに、チゼータの人々は陽気で、朝も昼も夜も関係なしに出歩いているようだ。店に入っても、店員と客が一緒になって飲み食いしているために、誰に注文していいのかも分からない。

 今日城に呼ばれたのは、チゼータ側がクレフに解読を依頼した古文書を、受け取るためだった。チゼータに来てからの六日間は、この狭い星を見て回るには十分な時間だった。写本を受け取ったらセフィーロに帰国しても構わなかったが、ひとつ気にかかっていることがあった。
 クレフは、チゼータに何か凶兆を感じ取っているようだった。その前兆を掴むために、自分が寄こされたのだろうと思ってここに来た。しかしランティスが見る限り、チゼータはごく平和で、何の凶兆も感じ取れなかった。もちろんいいことだが、「何もなかった」と戻って報告するのは、なんとなくバツが悪い気がしている。
 いつもマイペースで、他人にどう思われようが気にならないと自認しているランティスには珍しいことだった。ただ、ああ見えてクレフは厳しい師匠だ。何もつかめず帰国して失望されると思うと、大いに不本意な気分だ。期待されているからこそ厳しいのだろうが、師を前にすると、昔ながらの子供らしい気持に返る自分に、ランティスは苦笑した。

「ランティス!」
 不意に弾んだ声で名前を呼ばれたランティスは足を止め、海のほうを見やった。探すまでもなく、光がこちらに向かって大きく手を振っている姿を見つけた。ランティスが先日買ってやったサリーを身にまとっている。赤い地色がよく似合っていた。裾をまくって海に足を浸しているが、やはり深さは膝丈ほどもないようだ。それにしても、大人びた体格の者が多いチゼータの人々に混ざると、本当に子供のようにしか見えない。ランティスと目が合うと、光は顔いっぱいに笑顔を浮かべ、人懐こい子犬のようにランティスの法に駆けだそうとした。そして、その途端に前にいた男につまずいて前のめりに倒れた。おおっと、と叫び、その男が光の小柄な体を受け止める。
「ご、ごめんなさい! 私、ちゃんと見てなくて……」
「嬢ちゃん、可愛いなぁ」
「えっ?」
 立ち上がろうとした光の肩を、男が掴んだ。光はきょとんとして男の視線の先を追い、後ろを振り返った。
「誰もおらへんって。あんたのことや、あんたの。なぁ、一人か?」
「ううん、一人じゃないよ」
 光はぶん、と首を横に振って否定した。その後ろに、ランティスは無言のまま、ぬぅっと立った。影が男の方にまで差し、男はのけぞった。
「怖! なんやあんた、無表情で」
「行くぞ、ヒカル」
「うん! ごめんね、私行かなくちゃ」
 自分が誘われたということにすら気づいていないようだ。というより、つまずいたのはとにかく、今のに謝る必要はまったくないと思う。

「ヒカル……気をつけろ」
 チゼータの男は、軽薄な者が多すぎる、とランティスは元の道を歩きながらため息をついた。
「え? 何に? どうして?」
「……」
 チゼータには軟派な男が多く、すぐに女を誘ってくるから誘われてもついて行くな、というだけのことを、ランティスは例によってうまく説明できない。光も、たぶん言われてもピンと来ない。光は男兄弟の中で育ってきたせいか、自分を「女」だとあまり認識していないように見える。例えが悪いが、猫に育てられた犬が、自分は猫だと思い込んでいるようなものかもしれない。……と様々に思うが、結局言葉にできない。結果として、無言で歩いて行くことになる。しかし光は、ランティスの隣で楽しそうだった。


***


  王宮に着くと、二人の顔を知っていた従者に、すぐに内部に通された。謁見の間のような厳めしい場所ではなく、より内輪向けで、豪華な応接室といった雰囲気だ。部屋の中では南国系の花の香りが漂い、照明や装飾品からは長い歴史が感じられた。
 「いい香りだな」
  光は立派なソファにちょこんと座って膝を伸ばし、太腿に両手を置いた大勢で目を閉じていた。そのまま無言になった彼女を、ランティスは何気なく見下ろして、その表情が思いがけず物思いに沈んでいるのに気づいた。きっと、イーグルを心配しているのだろう。しかし、時に動物的な勘を働かせる彼女のことだ。もしかすると、クレフが感じ取っているのと同じ危険な兆候を、どこかで分かっているのかもしれなかった。もっとも、光は滞在中今のように物思いに沈むことはあっても、何もランティスには語らなかった。不安を口に出さない姿が健気に映り、ランティスは胸が痛んだ。

 タータとタトラはしばらく経ってもやって来なかった。ドアの外では、何か慌ただしい気配が漂っている。
「……何かあったのかな」
 敏感に感じ取った光が目を開けて、ドアを見やった。
「ああ。……ただ、それほど緊急事態ではなさそうだ」
 ランティスがそう返した時、ドアがノックされた。すぐに入ってきたのはタータとタトラだった。入って来るなり、二人は頭を下げた。
「待たせて済まないな」
 タータがため息を共に、向かいのソファに座りこんだ。タトラはいつもと変わらない笑顔でその隣に腰を下ろす。
「私たちも来たばっかりだし、気にしないで! それより、何かあったのか?」
 タータの仏頂面がますます深まったが、タトラは笑顔のまま首を横に振った。ランティスの視線は、彼女が抱えた分厚い本に吸い寄せられた。

「大丈夫です。……導師クレフには、例の古文書の原本をお貸しするつもりだったのですが、たった今紛失していたことが発覚したんです。写本はここにありますので、こちらをお持ちになってくださいな」
「なくしちゃったの?」
 光は声を上げ、ランティスと顔を見合わせた。タトラはあっさりと口にしたが、なくした古文書はかなり重要なものだったのではないのか。周囲が騒がしかったのも頷ける。
「本の捜索は別途進めなければならないが、見ていただく分には写本でも差し使えないだろう」
「ありがとう」
 光がタトラから本を受け取り、ものめずらしそうに表紙を眺めた。
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。導師クレフには、お忙しいところ時間を取らせて申し訳ない、とお伝えしてくれ」
「気がねすることはない。導師は本の虫だ、喜びこそすれ苦にするなどありえないからな」
 ランティスは、澄ました顔で本を受け取りながらも、心の中ではわくわくしているに違いない師の様子を思い浮かべた。

「……」
 光は真剣な顔で、表紙の題字を穴があくほど見つめている。
「……ヒカル? まさか」
 タータが怪訝な顔をした。
「ぜんぜん分かんない」
 タータがふっと息を吹きだした。
「真剣に見てるから、見覚えがあるのかと思ったぞ」
 ランティスも光の横から覗きこんだが、同感だった。クレフの書斎には埋もれたら死ねそうな量の本があり、ランティスは自由に読んでいいことになっている。何十冊か手に取った中には、こんな文字はなかったように思う。タータは、光の腕に大事そうに抱かれた写本を見下ろした。

「700年から750年ほど前に書かれた本らしい。それくらい昔だと、今は滅びてしまったチゼータの言語もいくつかあってな。この本も、そのうちの一つだと言われているのだが……解読ができる者が誰もいないんだ」
「解読不能なのはこの本だけではないのだろう? なぜ、この本なのだ」
 ランティスがそう尋ねると、タータとタトラは顔を見合わせた。
「……ある者が、この本を気にしていました。元々解読したいと言いだしたのは王なのですが、彼が気にしていたことが原因でしょう」
「そうか」
「ある者」とは誰なのか当然気になったが、二人がそれを話す気配はなかった。落ちた沈黙を拾い上げるように、光が言葉をはさむ。
「セフィーロには、それくらいの昔の本はあるのか?」
 光に問われて、ランティスは頷いた。
「あるにはあるが、蔵書は少ない。所蔵しているのは導師クレフを始めとした、何人かの名のある人物だけだ」
「どうして少ないんだ?」
「……セフィーロは、その特殊な形態から、何度も滅亡の危機に晒されてきた。そのたびに数多くの本が失われた」
「……そうなんだ」
 光はショックを受けたように黙り込み、もう何も尋ねてはこなかった。たった一人の意志が全てを決めることが、どれほど不安定なものなのか。魔法騎士であり、最後の『柱』でもあった光には人一倍、思う事があるのだろう。ランティスは彼女の小さな背中に手を置いた。

 ランティスは、改めてタータとタトラに視線を向けた。
「解読できるかどうか。しかし、導師クレフには渡しておこう」
「ああ、何が書いてあるか分かるかもしれないと思うと、楽しみだ」
 光は膝の上に大事に本を置いて、物思いにふけりながら表紙を撫でている。

 タータが二人に向き直った。
「何か、チゼータでやりたいこととか、会いたい人物はいるか? もう星のことは大体理解したことと思うが」
「……ひとつ、聞きたいことがある。チゼータには、『預言者』と呼ばれる、未来を読み解くことができる者が就く職業があるというが、事実か」
 タータとタトラは、再び目を見合わせた。数秒の間を開けてタータは、はぁ、とため息をついた。
「あー、あの預言者か。こないだ港で、女をナンパしてたわ」
「……ナンパ?」
 光が首を傾げた。ランティスにとっても思いがけないリアクションだったが、そんなことはどうでもいい。ランティスは座ったまま体を前に倒した。
「会いたいのだが」
「やめといたほうがええ。混乱するだけや」
 タータは首を振った。
「なぜだ?」
「あいつは、イタズラ者でウソ付きなんや。未来を正確に読めても、伝える能力がからきしや。ていうか、本人にちゃんと伝える気がないんやから、余計タチが悪い」

 話を黙って聞いていたタトラが、くすくす笑って口を挟んだ。
「タータはね。前にお見合いする時に、からかわれたのよね。相手は逞しい殿方だって聞いてすごく期待してたのに……会ったら、ものっっすごくひょろひょろだったのよね」
「ああああ、思い出しただけでハラ立つわ! なにが『君の理想にぴったりの男やで安心しや』や!」
「それで、彼のことを話す時は言葉遣いが戻っちゃうのよね」
「だー! もー!!」
「未来を的確に読めると言ったな。能力は本物なのか」
 ランティスがいつまでも続きそうな二人のやり取りに口を挟むと、姉妹は口をつぐみ、同時に彼を見返した。そして、同時に頷いた。
「あいつの預言者としての能力は、本物だ。それは皆が認めてる」
「それならば会いたい。尋ねたいことがあるのだ」
「ランティス……?」
 光の視線を感じた。
 セフィーロには、魔導師も剣闘師も創師もいるが、預言者にあたる職業の者は存在しない。チゼータを前回訪れた時に、何度か耳に挟んだ預言者の噂は、前から引っかかっていた。そして、クレフでさえ分からない、ランティスにも全く感じられない凶兆を知るには、まさに預言者は適任だと思っていた。

 タトラは、申し訳なさそうにランティスを見た。
「そのことなのですが。彼は一週間ほど前に、チゼータを出国しました」
「え、そうなのか?」
 タータがタトラを意外そうに見やった。
「ええ。行先は、『セフィーロ』」
「セフィーロ?」
 光が頓狂な声を上げた。
「よく知ってるな、姉様」
「なぜなら彼は、さっき言っていた、導師クレフに渡すはずだった古文書の原本を、持って行ってしまった張本人なんです」
「大変なことをサラァッと言うなや、姉様! 大変やんか!」
「そう、それで行先をさきほど調べていたのです」

 意外な展開に、ランティスは光と顔を見合わせた。
「古文書なんてあいつ、どうするつもりなんや。中身を気にしてたとは言え、一文字も読めんかったはずやで」
「ですが、手に触れることで中身を『預言』することが、あの方にはできるかもしれません」
 ランティスがタトラを見やると、彼女は補足した。
「彼は、自分の能力について多くを語りません。そのために正確には分からないのですが……自分が目にしたり、手を触れたりしたものの未来や真実を『読む』ことができるようです。常に、ではないようですが。……実は、さきほど申し上げた、この本を気にしていた者というのも、彼のことです」
 全員の視線が、写本に集まった。預言者が気にかけ、ついには無断で持ち出したほどの本。一体何が書かれているのか、興味は募る。しかしランティスはなぜか、少し嫌な予感がした。

 光はしっかり本を抱き、二人を見やった。
「その人は今、セフィーロにいるんだよね。戻ったら、探してみるよ。名前はなんて言うんだ?」
「マスターナ。私たちの従兄にあたります」
「王家か」
「ええ、そうです」
「王家だからって、遠慮することはない。きっとどこかで、女をナンパしてるから、見つけたらどやしつけてやってくれ。特に、美人が危ない」
「……大丈夫かな、海ちゃん」
 光は、本当に心配そうだ。自分自身がさっきナンパされていたことには、露ほども気づいていないのだろう。

 凶兆はつかめなかったが、手掛かりを持っていそうな預言者がセフィーロにいるのなら、帰国してもよいと思った。何より、拉致されかけたイーグルが心配だった。
「もしもマスターナに合うことがあれば、ひとつだけ心に置いておいてください」
 タトラが、ランティスと光をまっすぐに見た。
「マスターナの能力は確かに本物です。でも、彼は決して予知した内容を、そのまま伝えることはしません。混乱する、とタータが言ったのはそのためです。彼が何を言ったとしても、流されないでください」
「なぜ、そのまま言わないんだ」
「天の邪鬼なひねくれ者やからや」
 タータはばっさりと一刀両断したが、タトラはわずかに首を傾げた。
「理由はわかりません、彼はいつもはぐらかしてしまいますから。ただ、『未来を自分の意のままに変えることは、未来が分かったとしてもできないし、するべきではない』と彼が言っていたことがあります。それが、答えではないでしょうか」

「……探し当てねばならんな」ランティスは考えるよりも先にそう言っていた。「望まぬ未来なら、あらかじめ知ることで変える努力はできるだろう」
 念頭には、チゼータに訪れるかもしれない凶兆があった。
「……でも」返した光の声は、珍しく力がなかった。「皆が望む未来は、きっとひとつじゃない。願いがかなったって、幸せになれない人もいる」
「……ヒカル」
 どうしても、エメロード姫のことを思わずにはいられなかった。
「……マスターナっていう人に、会ってみたい」
 しかし、光が出した結論はランティスと一緒だった。しかし、理由は違っていた。
「その人、たぶんとても、孤独だと思うから。話がしたい」
 光がぽつりと漏らした言葉が、やけに心に沁みついた。


* last update:2013/7/15