どこかで、絶え間ないせせらぎの音が続いている。鳥のさえずりも聞こえる。いつもと同じ平和な午後が、セフィーロに訪れていた。セフィーロはかつては常春の国だったというが、『柱』制度が終わってからは、4つの季節が巡るようになった。ファーレンやチゼータに四季はなく、大気汚染により外気に触れることもないオートザムでは季節があるのかも分からない。となれば、異世界の少女たちの影響であることは間違いなさそうだった。

 夏は暑さ厳しく、冬はしんしんと冷え込み、春しか知らないセフィーロの人々は最初こそ戸惑い、苦労もしていたようだ。しかし人々は助けあって季節の変化に順応することを覚えた。やがて、夏には夏の花が咲き、冬には冬の雪が降るのを楽しむようになっている。ただし、最も人々が愛するのはやはり、春だった。懐かしい友が戻ってきたかのように、皆この季節を楽しみにしている。

 そして、今の季節はまさに春爛漫。花は咲きみだれ、鳥や虫や獣は一斉に活気づき、人々は外に繰り出していた。しかし、自分ほどセフィーロの季節を全身で深く感じている者はいないだろう、とイーグルは思っている。
 

 セフィーロ侵攻が終わると同時に、イーグルの意識はブツリと唐突に途切れた。精神エネルギーの枯渇が原因で、二度と目覚めない植物状態に陥る、不治の病のためだった。セフィーロ侵攻を決めた時点で、覚悟していたことだった。セフィーロの最後の『柱』となり、セフィーロと共に永遠に眠り続ける。ランティスの命を救うことができるなら、それでもいいと思っていた。そうなるはずだった―― 光が、イーグルの前に現れなければ。

 あの少女は、イーグルには全く思いがけなかった方法で『柱』制度を終わらせた。「完敗」だ、と思った。でも全く悔しい気持ちにはならず、むしろ清々しかった。彼女の登場で、結果は180度転換された。闇は光へと、死は生へと。異世界からセフィーロに戻って来た時、もう目も見えず、体も動かなかった。「死ぬ」んだな、と思ったが、怖くはなかった。最後に、光とランティスの腕に抱かれ、その生存を確かめた時、もうこれでいいと確かに思った。ここで人生が終わっても全く悔いはないと。

 だから、あの戦争から一年経った時、突然意識が浮上して、とても驚いた。目も開けられず、指一本動かせなかったが、意識だけは覚醒していた。セフィーロは、信じる心が全てを決める世界。知識として知ってはいたことを、身をもって思い知らされた気分だった。イーグルが必ず目覚めると信じ、願い続けた光やランティスの存在が、ゆっくりとイーグルを回復に導いていたのだ。

 今でも、金縛りにあっているような状況は変わらないが、周りの音を楽しむことができる。言葉を念じることで、相手に伝えることもできる。目は開けられなくても、瞼越しに光を感じられる。少しずつ、指先には力が戻りつつあった。

 全てが、夢のようだと思う。かつて、監視塔から遠く眺めていた美しいセフィーロに今いて、やわらかな自然の風に吹かれているということが。体は眠り続けているものの触覚と聴覚はあり、動けない分、季節の移り変わりを全身で感じ取っていた。


 イーグルのためにと、部屋の窓際には風変わりな風鈴が下げられている。風が吹く度に木球が動き、様々な長さの金属筒にぶつかり、その時々の音楽を奏でる。「トウキョウ」というらしい異世界から、光が持ってきたものだった。三年前、ちらりと目にした異世界の姿をふっと思い出す。素朴な音色は眠っている時にはあたたかい夢を、起きている時には安らぎを与えてくれる。


***


 春の日差しの中で、夢とも現ともつかない世界をさまよっていた時だった。さらさらと衣擦れの音がして、小さな足音が近づいてくる。イーグルの意識は、ゆっくりと浮上した。この三年の間に、この部屋に来る人物はたいてい、足音で特定できるようになっている。

「具合はどうだ? イーグル」
「導師クレフ。お見舞いありがとうございます」
 直接話さなくても、心で言葉を念じるだけで通じることに最初は戸惑ったが、すぐに慣れた。今では、隣同士に立っている二人の片方だけに言葉を伝えたり、声量を変えることもできる。直接話すよりも便利だと思うくらいだった。

「寒くはないか?」
「いいえ、大丈夫です。いつもこの中は適温に保たれていますから」
 この部屋の中にはそよ風は吹き込んでくるし、温かな日差しも直に感じる。小鳥が飛び込んでくることもあるのに、不思議なことに外の世界と完全に繋がっているわけではないらしい。外で風が強く吹いていても部屋の中には吹き込まないし、危険や不快を感じたこともない。目を開けることができるようになったら、どうなっているのかまず確かめたいことの一つだった。
 
 聞くに、クレフの魔法のひとつらしい。自然の物音を誰よりも楽しみにしているイーグルを想いやってくれているのだろう。それに、周囲に意識を向けるのは、回復にもいいのだと聞いていた。
「そうか。調子は良さそうだな」
 クレフの穏やかな声が、すぐ近くで聞こえた。
 

 クレフは、週に一度は必ずこの部屋を訪れる。そして、意識の目覚めにいいという香を焚いてくれる。何とも不思議な香りで、なぜかいつもイーグルは眠ってしまうのだが、目覚めた時には今でも覚醒しそうに意識がはっきりするのが常だった。昔、ランティスに何を使った香なのかと尋ねたら、「カリア」という白い花を煎じたものだと聞かされた。

「香は……あの棚の上か」
 衣擦れの音が、ベッドの隣を通り過ぎる。そのまま身を乗り出し、腕を伸ばしたようだった。あの棚の位置は結構高いはずだ。手が届くのだろうか、と思う傍から、悪戦苦闘する気配を感じた。
「大丈夫ですか?」
「笑うな。取れたから問題ない」
 クレフのため息が聞こえてきた。決して笑ったわけではなかったが、声音で気づかれてしまったらしい。
「すみません。誰かが導師のものだと気づかずに仕舞ったようですね。今度から、低いところに置いておくように皆に言っておきます。……僕が動けたらいいんですが」
「おまえが動けたら、そもそもこの香はもういらないだろう」
「それもそうですね」
 イーグルは思わず、わずかに口角を上げた。完全に治っているなら、あははと笑ったところだろう。

「おまえは、いつも明るいな」
 クレフの半分呆れたような、感心したような声が聞こえてくる。彼はイーグルを気遣って口には出さないが、病状は上向いてきているとはいえ、どこまで回復できるのかは未知数。瞼すら開けられない状況は、傍から見て楽観できる状況ではないはずだ。

「ええ。事実、僕は幸せですから」
 数秒のことだが、クレフの答えは遅れた。わからないだろうな、と思う。オートザムの汚染されきったあの大気の中で一度でも過ごしたなら、イーグルの言っている意味も伝わるかもしれない。金縛りのように動けない状態でも、おだやかな風を感じることができるのがどれほど幸せなことか。オートザムのことを思い出し、イーグルの心はわずかに暗くなった。


 沈黙が落ち、いつもの香がほどなく部屋を満たした。まどろみ始めた時、イーグルの手の甲に、二回りほど小さな手がそっと触れた。
「ヒカルの『願う力』は大したものだな。体の機能が少しずつだが回復している」
「末端から、少しずつ力が戻っていくようです」
 イーグルは指先を動かし、クレフの手を握り返した。まるで硬直したかのようにぎこちないが、ゆっくりとなら動かせる。クレフがはっと息を飲む気配があった。

「驚いたな、もう動かせるのか。……しかし、焦る必要はないのだぞ。ゆっくり治っていけばいい」
「……敵国の長の息子である僕を治療してくださっていることに、感謝していますよ」
「敵国ではない」
 さらりと、しかしきっぱりとクレフは否定した。


 三年前に争った四つの国が和解し、自国が抱える問題を、助け合って解決しようとしていることは知っていた。良かった、と思う反面で、オートザムの大統領である父親、その側近たちの胸のうちを、イーグルは読み切れていない。「もう敵国ではない」。決して味方とも言っていないクレフも、何か感じ取っているのかもしれない。一刻も早く意識を戻してオートザムに戻り、真意を正したい。誰にも言っていないが、イーグルはそう思っていた。……いや、
――「焦る必要はない」。
 今そう言ったクレフには、イーグルの気持ちはもう気づかれているのかもしれないが。

「どうした?」
 顔色ひとつ変えていないはずなのに、そう聞かれた。クレフの口調はいつものように穏やかで、懸念を抱えているようには思えない。
「いいえ、なんでもありません」
 今確証もないのに不安を口にしても、いたずらに心配させるばかりだ。イーグルは話題を切り替えた。

「それより、導師クレフ。ずっと気になっていたんですが、あなたはどんなお姿なんですか? 子供のお姿をされていることは、分かりますが」
「髪は銀。瞳は青だ」
「ぞんざいな紹介ですね」
 イーグルは笑った。目が見えないイーグルのために、いつもなら丁寧に外見を説明してくれるのに、本人のことに関してはそうでもないらしい。もっとも、本当に自分に関心が無いのかもしれない。
「身長は?」
「……ヒカルよりも小さい」
 不本意そうな言い方だった。聞かなくても、本当は声が聞こえてくる位置で分かっていたのだが。そもそも、オートザムにいた頃のランティスから、クレフのことは聞かされていた。
「あなたの気配は誰よりも大きいですよ。セフィーロと同じ空気を感じます。おそらく、『柱』が何人変わっても変わらない、セフィーロそのものがもつ空気を」
「私は748歳だ。セフィーロの誰よりも長寿だからだろう」

 イーグルは不意に、クレフの手を握る力を強めた。驚いて手を引こうとしたところを、捕まえる。身じろぎする気配を感じた。多分、顔をしかめているだろう。
「どうして、子供のお姿なんですか? セフィーロは意志の世界。あなたなら、自分が思うままに姿を変えられるでしょう。今のあなたの力は、子供にしては強いかもしれませんが、大人の男にはかなわない程度です。元気な僕なら、一瞬でねじ伏せられます」
 手の力を緩めると、するりとクレフの指が離れた。
「そんなことは、元気になってから言え」
 クレフは怒るでもなく、気まぐれな子供をなだめるような口調だった。その穏やかな声を聞くにつれ、乱してみたくなる。平たく言えば、困らせたくなる。ランティスが聞けば無言でため息をつかれそうだが、結局、この遥かに年上の導師のことが自分は好きなのだと思う。

 だから、本人がこの話題を終わらせたがっているのを知りながらも、さらに尋ねてみたくなってしまう。
「それで、どうして子供のお姿なんですか?」
「私は導師。力は必要ない。この姿が一番、燃費がいいのだ」
「時々、不便そうですけど」
 少なくとも、たった今、棚の上の香を取るにも苦労していたのだから不便なのは本当だろう。少しの間をあけて、仕方なさそうにクレフが口を開いた。
「力を押さえるために、いくつも宝玉を身につけなければならないのだ。大人の姿では余計ものものしいだろう。子供を怖がらせるだけだ」

「……宝玉は、力を強めるために身につけているのではないんですか?」
 思わず聞き返したのは、本心からだった。クレフは返事の変わりにイーグルの手を掴むと、自分の方へと近づけた。指先が、大きな宝玉に触れる。さらさらと髪が指を滑り、彼の額に触れているのだと分かった。宝玉はつやつやと冷たかった。しかし、しばらく触れていると、中でどくん、どくんと脈を打っていた。
「わかるか? この宝玉が生きているのが」
「ええ」
 触れているだけで、腕がぞくぞくと冷たくなるような「力」を感じる。
「これを身につけている限り、私の力はある一定の量を超えないのだ。導師の立場にいる以上、これは手放せないものだ」
 クレフは身を引き、イーグルの手が宝玉から離れた。クレフは丁寧に、イーグルの手をベッドに戻した。ひとりごとのように、つぶやく声が聞こえた。

「私は、私の存在が誰かを恐れさせたり、傷つけたりするのを好まない」

「……そっちが本心ですね」
 オートザムでは、誰もが自分を大きく見せようと努力するし、それが間違っているとは思わない。しかし自分を小さく見せるために努力する者もいるとは意外だった。
「……まあ、理由はそれだけではないが」
「え?」
 クレフは返事をせず、代わりに微笑む気配を感じた。

 
 会話が途切れ、静寂が戻った時だった。長い廊下をこちらに向かって歩いて来る、硬質な足音を耳がとらえた。決して大きくはないが、大股の足音には重量感がある。
「……導師クレフ」
 ノックの後にドアを開けたのは、思った通りランティスだった。
「どうした? ランティス」
 クレフが尋ねる。
「ヒカルたちが、この時間にセフィーロに来るはずなのだが、まだ現れない」
「たまには遅れることもあるだろう……ん?」
 なんだそんなことで、と言わんばかりの口調だったクレフが、語尾を上げた。淡々とランティスが返す。

「そんな時は大抵、城以外の場所で現れるのだ。例えば、」
「また、空の上か!」
 慌ただしくクレフが立ち上がる気配がした。
「イーグルすまない、後でまた寄る」
「お気にならず、またのお越しをお待ちしてます」
 最後の言葉は聞き取れなかったかもしれない。長寿にも似合わず、せっかちな気がある導師は、言うが早いか部屋を出て行ってしまったからだ。
「こんにちは、ランティス」
 イーグルはにっこりと笑い、部屋に入ってきたランティスに顔を向けた。




* last update:2013/7/15