大統領は、ジェオを振り返った。
「ジェオ。今から約740年前、オートザムで何が起こったか知っているか?」
「は?」
いきなりそう問われ、ジェオは面食らった。歴史について聞かれたのは、学生時代以来ではないだろうか。成績優秀ではあったが正直、歴史にはそれほど興味がなかったため印象に残っていない。
「740年前……特に何も重大な事件がない、平坦な時代だったはずです。大干ばつが起こる前の、最後の平和な時代ではなかったでしょうか」
「100点の回答だな」そこで大統領は口角を片方上げた。「学生としては、だが」
「どういうことですか」
大統領は、ジェオが立っている場所を指差した。
「昔イーグルが、今お前のいる位置と同じ場所に立って私に言ったことがある。重大事件には、ある特徴的な前兆と後遺症があると。740年を挟んでその特徴がある以上、何も起こっていないとはありえないと言い切った」
「……イーグルがそんなことを?」
イーグルとは学生時代に知り合ったが、剃刀という渾名が冗談に思えるほど、いつものほほんと授業をさぼっていた。丸暗記型だったジェオのノートを試験前に見る程度だったが、学んだことを包括的に捉える能力に長けていた。その当時の学生たちが枝葉を学んでいたなら、イーグルは森を見ていた。同じ学校に通い、肩を並べて同じ講義を聞いていたのに、ジェオには彼が掴んでいたという前兆と後遺症が何なのか検討もつかなかった。
大統領は、背後に映し出されたモニターにちらりと視線をやった。
「まさにそれが書かれているのだよ、この古文書には。740年前、歴史から消え去った国家間の『戦争』、その元凶と結末が」
「戦争……?」
今ジェオがすべきことは、セフィーロに再侵攻しようとする戦艦を止めることで、歴史の空白について聞くことではない。そのはずだが、無関係とは言い切れない不気味さがあった。いずれにせよ、ここまできて全てを知らない訳にはいかない。ジェオは大統領を見返した。
「戦争の元凶は、一体何だったんですか」
「この古文書によれば、危機を引き起こしたのは、たった一人の『セフィーロ』の民。具体的には、ある職業に就く者だった」
「……『柱』ですか?」
「いや。『導師』だ」
「……は」
ジェオは絶句した。一瞬クレフを思い浮かべて、すぐに打ち消す。740年前といえば、クレフはわずか8歳だから当時の導師は彼ではないだろう。しかし、彼と同じ「導師」の称号を戴く者が、世界に害を及ぼすはずがないと思った。
大統領は、モニターに映る文字を睨むように見上げながら続けた。
「この本には、破滅の前兆までが詳細に書かれている。宇宙の大気の微細な変調、付随して起こる動植物の反応、そして各国の戦乱の危機。今まで破滅の直前に起こっていたことがこの数年で、ひとつひとつ再現されているのだ。その現象が、『導師』の意志で起こしていることなのか、自然発生的にそうなってしまうものなのかは不明だが」
「……何ですって……?」
「心当たりがありそうだな」
大統領の視線がこれまでにないほどに鋭い。ジェオは指を手に当てて考え込んだ。戦乱の危機、とは言わずに知れた3年前のセフィーロ侵略のことだろう。動植物に何か変化があったかは分からない。オートザムではそもそも動植物が絶滅しているし、セフィーロでも特段気づくことはなかった。しかし、「宇宙の大気の変調」についてはどうだ?
「……オートザムに帰還する際、戦艦のレーダーに大気中の『何か』が干渉していたのは事実です。航行に邪魔になるほどではなかったので、戻ってから調べるつもりでした。レーダーの故障も考えられます」
ジェオが言い終わるよりも先に、大統領は机の上の受話機を取った。そして、手短に大気の状態を調べるよう指示を出した。相変わらず指導者の立場にありながら、自分で動こうとする男だ。
「……しかし、仮に大気に異変が起こっているとして、一個人の力で引き起こせるものでしょうか?」
素朴な疑問をジェオは口にした。確かにクレフが起こした数々の奇跡を目の当たりにしているが、それでも彼の力が届く範囲は今のところセフィーロにとどまっている。ふむ、と大統領は口の中で唸った。いつも即答する大統領には珍しい反応だった。
「……あなただって、心から信用はしていないんじゃないですか? そんな不確定な事実を元に、セフィーロに侵攻するのですか」
「導師の身柄を確保できれば、セフィーロに侵攻はしない」
ジェオは大統領の言葉に、ぎり、と拳を握りしめた。
「十隻以上の圧倒的戦力をセフィーロに見せつけて、攻撃されたくなければ導師の身柄を引き渡せと恫喝するつもりですか?」
「それが被害を最小に収める方法だ」
「被害……? この古文書には一体、どんな被害が書かれてるっていうんですか」
「……災厄の中心地となったセフィーロの住民はほぼ全滅。他の3国も多数の国民を失い、4国とも消滅の危機に晒されたとある」
「な……」
唖然としたジェオをよそに、大統領は淡々と続けた。
「お前もさっき言った通り、740年前を境に、オートザムの南東部に深刻な干ばつが起こった。その時に全土に広がった食糧危機を克服するためにオートザムは科学化を進めた。今の大気汚染は元を正せばその大干ばつにあり、我々は未だ740年前の負の遺産に苦しんでいるとも言えるのだよ。南東部の地層を調べたところ、肥沃な土地はおろか、土地のかなり深い部分までもが消滅しているのだ。オートザムが何者かに抉り取られたようにだ」
「それは――」
「オートザムの南東側には、何がある?」
ごくり、と唾を飲み込み、ジェオはちらりと南東側を見やった。部屋の中にいて見えるはずもないのに、蒼く輝くセフィーロの姿がその方角に透けて見えてように思えた。大統領はわずかに前かがみになり、ジェオを見つめた。今まであったからかうような色はその目から消えている。
「この古文書に書かれていることは可能性にすぎないが、それを裏付ける現象はこの国のあちこちに残されているのだ。740年前と同じ前兆が起こっている今、同じ結末が起こらないと誰に言い切れる? 起きてからでは、遅いのだ。オートザムだけではなく、セフィーロ、チゼータ、ファーレンの国民が大量に死ぬかもしれないのだぞ。導師の身柄を確保し、更に調査を進める。食いとめる方法が分かれば、導師に危害は加えない。もちろん、セフィーロにもだ。それが最善と考えている」
「……」
「オートザムは、その科学力で他国を凌駕する。我が国には、自国だけではなく他国をも守り、導く役割があるのだ」
沈黙が落ちた。ジェオは、冷たい汗が背中を流れるのを感じていた。セフィーロが侵攻される、それを止めたいという気持ちだけでここまで突っ走って来たが、これほどの背景があるとは予想だにしていなかった。大統領は背筋を伸ばし、息をついた。その表情にわずかに緊張と疲れが見え、彼も人間なのだと当然のことを思う。
「納得したか? それでは――」
「本当に、それだけが理由ですか?」
ジェオは大統領を遮り、彼を見返した。
「4カ国の平和を守るために? 野心家のあなたが」
「どういうことだ」
「あなたの本当の狙いは、大気汚染を止められないオートザムを捨て、セフィーロを新たに手に入れることではないんですか? ファーレンは長い内戦状態にあり、オートザムがセフィーロを侵攻しても本格的な介入はできない。チゼータは」そこでジェオは言葉を切り、モニターに映ったマスターナを見やった。「そこの彼が王家で、政治に絡める人物なら、この侵略にチゼータが介入しないよう手を回せるのではないですか? あなたはそのために、彼を利用している。違いますか」
三人の視線が、鋭く交錯する。息詰まるような沈黙がその場を支配した――その途端、沈黙をひとつの笑声が破った。
マスターナだった。さもおかしそうに、大っぴらに笑っている。彼は笑いやむと、ジェオを見やった。
「脳みそまで筋肉でできてるタイプかと思ったら、意外と頭も切れるやんか。……本当やで。俺は大統領と約束してる。オートザムが今、セフィーロを侵略しても、チゼータは『絶対』、手を出さんってな。『絶対』や」
「大統領……!」
「ならば死ぬか? ジェオ」
声を荒げたジェオを、大統領が遮った。ぐっと詰ったジェオを睨み、続ける。
「オートザムは後1年持たぬ。家族や友人も全員、死ぬことになるぞ。座して死を待つのか」
強かな男だ、とジェオは思わずにはいられなかった。片や全世界を滅ぼすかもしれない災厄の可能性があり、片やオートザムは1年しか持たないという確度の高い事実がある。前者の可能性を利用し、後者の事実をひっくり返すつもりなのか。思惑どおりになるならば、オートザムは二つの障害を突破し、滅亡の危機を乗り越えられることになる。チゼータやファーレンにとっても悪い話ではない。セフィーロはそうはいかないだろうが、滅びるよりはマシと考えられなくもない。
ジェオは、大統領とマスターナを交互に見た。互いに、何を腹の底に隠し持っているのか分からない顔をしている。ジェオは大統領に向き直った。
「大統領。このマスターナという男は、オートザムの味方ではありませんよ」
「どういうことだ?」
大統領の視線が妖しく光った。ジェオは、マスターナを指差した。正確には、彼の後ろでたなびいている新緑を。
「この新緑の色は、セフィーロ独自のものです。チゼータやファーレンの姫たちが、自国では見られないと感嘆していましたから。今この男はセフィーロにいる。二つの国がぶつかり、セフィーロが負けると見ているなら、わざわざ危険なセフィーロにとどまる理由がないでしょう。策略をめぐらせているのはオートザムだけではないようです」
ジェオはマスターナを睨みつけたが、彼は表情を変えなかった。当然、何かしら否定してくるものと思っていたから意外だったが、無反応が逆に不気味だった。
―― せっかく、戦争の危機を超えて助け合う道を探していたところなのに。
そう思うと、悔しかった。確かにこの4つの国は、与えられた条件があまりに違う。狭く痩せた土地だが豊かな文化を持つチゼータ、肥沃な大地を持つが内戦を抱えるファーレン、高度な科学文化を持ちながら破滅の危機にあるオートザム、そして美しい自然と持ち、魔法という特殊能力を持つセフィーロ。これらの国が、真に「平等」であることなどできず、対等に助け合おうとすること自体、絵空ごとなのかもしれない。
現状、最も豊かなのはセフィーロだ。そしてジェオの見るところ、あの国はまとまった戦力を持たない。クレフやランティスなど魔法を使う一部の者の力は、オートザムの軍人何百人分にも値するだろうが、それでも戦艦に攻められれば対抗できないだろう。その上、セフィーロの人々は、「悪意」という感情に良くも悪くも免疫がない。今目の前にいる大統領や、このマスターナという男のように、相手の出方を見越して狡猾にふるまうところなど想像できなかった。
最悪の状況になったとして、オートザムの戦艦が現れた時、セフィーロは、どうするだろうか。クレフなら、ためらわず国のために身柄を拘束される道を選ぶだろう、という気がした。しかし彼の側近たちは揃って芯の強い者たちだ。クレフを黙って行かせたりはしないだろう。戦いになれば……軍を持たないセフィーロはどうなるか、考えるだけで寒気がした。そして、それこそがオートザム大統領の狙いなのだ。
「使者に、俺を出してください」
ジェオは大統領に頭を下げた。
「あなたは、導師クレフを知らない。あの人は、絶対に危険人物ではありません。自国と周辺国の幸せを一番に考えられる人物だからです。戦艦を差し向ける前に、俺に話させてください」
「お前こそ、導師のことを知らない」
さらりと大統領は言った。
「この古文書に書かれている導師の力が事実なら、戦艦十隻でも相手に不足はない」
「……え」
「セフィーロは、ただ狩られるのを待っている獲物ではない、ということだ」
今大統領が話しているのは、本当に自分が知っている「導師」と「セフィーロ」のことなのだろうか? 話が食い違っているような気がしてならない。
大統領は、視線を伏せ物思いにふけるような表情になった。
「それに、『導師』が、お前の知っている『導師クレフ』とは限らない」
「は? それは、一体どういう……」
「この本によれば、『導師』は一人ではないそうだ。導師は常に『二人』……」
「……それだけは絶対に、ありえません」
もう一体何度「ありえない」と発言したか自分でも分からなかった。ジェオもセフィーロの隅々まで知っている訳ではないが、導師は常にクレフだけだった。セフィーロが滅亡しかけた時も、立て直した時も、平和を享受している今も導師は只一人だったのに、もう一人いるとなれば、それは世界観がひっくり返るような話ではないのか。
ずっと黙っていたマスターナが口を開いたのは、その時だった。
「急いだ方がええですよ。……導師クレフはもうじき、セフィーロを離れるから。その日は近い」
「あの人はセフィーロを愛している。そんなことがあるか」
どいつもこいつも、本人のことを何も知らないのに勝手なことを言う。でも、ジェオにはどう止めていいのか分からない。
「あんたには一体、何が見えるってんだ?」
「……炎。そして、裏切り」
低い声で放たれた言葉に、ジェオはマスターナを見やった。モニターに映し出された彫りの深い端正な顔。大きな瞳に、炎のように光が明滅している。この男は「預言者」だと大統領が言ったことが、急に胸に蘇る。ジェオはその時、初めて本気でぞっとした。この男の目には今、一体なにが映っているのだ?
「……一つ聞きたい」大統領がマスターナを見た。「なぜ我々に協力する? お前の……いや、チゼータの取り分は一体なんだ」
「何もないですよ」
マスターナの声は、何だか力なく聞こえた。
「どういうことだ?」
ジェオは声を張り上げた。
「いずれ分かるわ」
マスターナは目を閉じた。
「……導師クレフには、『願い』がある」
「……『願い』?」
「誰にも認められなくとも、間違っていても、どうしても捨てられない『願い』が。導師クレフはその『願い』のために、全てを裏切ることになる」
「……そんなことは、あり得ねぇ」
クレフが、自分のために『願い』を持つ、ということからして、ジェオにはピンと来なかった。前にイーグルが「導師クレフは、道端の一輪の花のためでも、自分の命を捨てるタイプの人間だ」と言っていたことがあるが、ジェオにもそうだと思える。「己の願いのために全てを賭ける」。そんな人間の筆頭が、柱を目指した光やイーグルだとしたら、クレフはその列の、一番最後に並ぶ人間だ。
「まだ、未来は確定していない。いくつも枝分かれした未来が見える。ただ、チゼータは、もう、間に合わなかった」
「なに?」
チゼータと言えば、今ランティスと光が訪れているはずだ。何の異変も聞いてはいないが、「間に合わなかった」と既に過去形で話しているマスターナの表情は、顔を覆った掌で見えなかった。
「分からねえよ……全然」
そう言いながらも、感づいてはいた。「古文書」に記されたという740年前に起こった災厄。それが再び繰り返されるなら、全ての国に危機が迫っていることになるのだ――
「どこへ行く」
一礼し、踵を返したジェオに、大統領が呼びかけた。
「……セフィーロへ。導師クレフに会います」
「それはならん」
「……止めても、俺は行きます。あの人は、俺のことを信頼していると言ってくれた。絶対に、裏切れません」
大股で部屋の外に出た、その瞬間のことだった。外で待ち構えていた何人かの軍人に、ジェオは寄ってたかって押さえつけられた。
「大統領!」
「ジェオが乗って来た戦艦に立ち入りを許可する。差し押さえろ」
冷静な口調で大統領が指示をする声が聞こえてくる。冷たい床に押さえつけられ、ジェオは歯がみした。自分の無力さが呪わしかった。
ジェオが後ろ手をしばられ、引き立てられる最中にも、戦艦の差し押さえは進んでいた。
「―― 船の差し押さえは完了しました。しかし一体、戦艦から脱出するのを確認しました」
「なに? 脱出したのは誰だ」
「分かりません。でも……あれは、FTOです」
「FTOだと?」
大統領の視線がジェオに向いたが、ジェオは気づかないふりをした。FTOはイーグル専用のマシンであり、イーグルが病に倒れてからは整備のみされている。FTOを動かせるのは、イーグル以外はただ一人だけだ。FTOの速度は戦艦を大きく上回り、オートザム最速と呼ばれる。どうか一刻も早くセフィーロへ辿りついてくれ、と祈った。
「追いますか?」
「……無駄だ。オートザムに、FTOに追いつける機体はない」
大統領も同じことを考えたらしく、彼には珍しく指を顎にあてて考え込んでいる。ジェオは嫌な予感がした。
引きたてられる時、廊下の窓から軍港が見えた。巨大な鉛色に輝く最新鋭の戦艦が、全て船首を同じ南東に向けていた。出立を待つばかりの戦艦の行き先には、ジェオが二つ目の祖国と思ってやまない、セフィーロがあった。
「ちくしょう……!」
まだ、自分にも出来ることがあるはずだ。あきらめるな、と自分に言い聞かせる。大統領が窓に手をかけ、FTOを探すように南東を見た。
「追え。絶対に逃がすな」
「はい!」
妹に会うのを楽しみにしていたザズの横顔を遠く感じた。どうかお前だけでも逃げのびて、そしてセフィーロに危険を知らせてくれ、とジェオは心の中で祈った。
* last update:2013/7/16