ぽかぽかと日ざしが暖かな午後だった。常春の国だった当時のセフィーロでは、「春」と言う必要もなかったのだが。樹上では、親鳥が大きく口を開けた雛鳥にしきりに餌を与えている。小川では、小魚が白い腹を光らせていた。小動物が、川岸から魚を狙っている。この時代のセフィーロでは、生き物は食物連鎖によってつながっていて、どんな動物でも安穏と暮らしているわけにはいかなかった。しかし、明確に秩序立てられた世界で、生き物は安定してそれぞれの生を紡いでいた。
唐突に、静かな城内に大声が響き渡った。
「いったいどこへ行ったのだ?」
親鳥は慌てて周りを見まわし、魚と小動物は草の陰にさっと身を隠すほどの大音響だった。
「まったく。午後からは歴史の講義だと言い聞かせておったのに」
「私が探してこよう」
「いや、娘のことであなたにこれ以上手間をかけさせるのは面目ない」
瀟洒なつくりの城内で、二人が言葉を交わしている。一人は2メートルに迫る大男で、濃い金色の波打つ髪を、後ろで束ねている。ゆったりしたローブの下には屈強な甲冑を纏い、その装飾の豪華さから、高位な人物であることは一目で分かる。
「だからと言って、王であるあなたは他に仕事がある」
その男に向かって、向かいあった少年は微笑みかけた。
「しかし、導師クレフ。あなたの今の仕事は娘の教育で、娘探しではない。あなたもお忙しい身なのに」
思わず、というように少年……導師クレフは笑った。
「かまわん。正直なところ、私も後者のほうが性にあっている」
春の日はどこまでも快適で、城内にいるよりも外に出ていたほうがよさそうだった。
「『ミイラ取りがミイラ』にならないように頼みますぞ」
「分かっている」
心配そうな王に導師クレフは軽く手を上げ、春爛漫の城の外に歩みだした。
***
王には黙っていたが、クレフには、姫の気配は手に取るように分かる。だから居場所は探すまでもなかった。王が心配するのは気の毒だったが、姫に少しだけ休息をやりたいと思う自分は甘いだろうか。いつも、探すのに手こずったふりをして、しばらく経ってから城に戻るのが常だった。
「―― 導師。あまり姫を甘やかさないでください」
そう、女王に言われたことを思い出した。女王はセフィーロの『柱』である。クレフもさすがに気まずい思いをした。
「別に甘やかしてなどおりません」
「嘘です」
女王はきっぱりと否定した。シンプルな黒のドレスが、細い身体によく似合っている。栗色のまっすぐな髪が、白い細面を彩っている。年のころ20代半ばほどに見えた。目鼻立ちのくっきりとした、意志が強さが現れた顔だった。
クレフには及ばないと言っても、『柱』である彼女は既に200年近い時を生きていた。長い時を生きている者だけが持つ独特の気配が、彼女を神がかって見せていた。普通の者であれば、目を合わせることすらできなかったほどだ。すぱりと放たれる言葉は、クレフでも受け太刀に困ることがあった。しかし威厳があると同時に、時折茶目っ気を見せることもある彼女を、クレフは好きだった。
今も彼女の鳶色の瞳の中には、相手をからかうような光があった。
「私が子供のころ、あなたを怖い人だと思っていました。昔の私に対してより、娘にあなたは甘い。どうしてですの?」
くすくす、と周囲から堪え切れずに笑いが起こる。
「……勘弁してください、女王。次からは厳しく接します」
我ながら苦しい返しだと思う。「勘弁してくれ」なんて、なんと導師に似合わない言葉だろう。周囲の笑い声が大きくなった。見上げると、壇上の女王は、はっとするほど優しい瞳をしてクレフを見ていた。きっと彼女には、全て分かっていたのだろう。クレフがエメロード姫を、どこか自分と重ねて見ていたということを。
女王は『柱』であるために、自分の夫である王や、一人娘であるエメロードをセフィーロよりも愛することができない。セフィーロよりも愛するものができてしまえば、セフィーロは崩壊してしまう。セフィーロの秩序を一貫して保ち続けた女王は、自分をも厳しく律した。家族と会う時間を制限し、その限られた機会でさえ、セフィーロに異変が起これば国を優先してきた。時に厳しすぎるとさえ思えるその態度は、家族への愛情の裏返しだとクレフは思っていた。家族をセフィーロよりも愛してしまうことを、一番恐れていたのは女王に違いなかった。
しかし、エメロードに、そんな事情をどこまで理解できただろうか。エメロードにしてみれば「母に滅多に会えない」という事実が全てだったに違いない。しかし敏い姫は、自分が置かれた状況を驚くほど幼いうちから察していた。淋しさを時折顔に見せながらも、健気にふるまう彼女が、クレフには不憫でならなかった。そして、姫が生まれた瞬間、クレフには分かってしまった。この娘は将来、母親から『柱』を継ぐことになると。導師として、新たな『柱』の誕生は喜ぶべきことだ。しかしその瞬間にこみ上げたのは、喜びではなく悲しみだった。
エメロードが生まれて、はや7年。その予感は弱まるどころか、日に日に強くなっている。しかし、『柱』の素養があっても、普段の彼女は普通のお転婆な少女だった。
さくっ、と微かな音を立て、足元で草が鳴る。クレフは城内の外れにある庭に足を踏み入れた。
いつかは姫に、次代の『柱』という彼女に示された運命を話さなければならない。だが、『柱』が払わなくてはならない犠牲を誰よりも肌で感じているエメロードにとって、それは残酷だと思わずにはいられなかった。エメロードが『柱』になれば、女王は解放される。しかしその時には、娘はもう、母親に対して愛情を示せない。いつまでも分かり合えない母娘を思うと、クレフの心は痛んだ。
一方で、もし『柱』になるのをエメロードが拒んでも、クレフは受け入れるつもりだった。その結果、セフィーロが最悪滅びるとしても――今のクレフの心境を知れば、女王は嘆き怒るだろうか。きっと、何も言わないだろう。そんな気がした。
「―― エメロード姫。そこにおられるのか?」
クレフは、庭の中央で立ち止り、周囲を見まわした。年を経た木が並び、木の足元には花がたくさん咲いている。しかし姫の姿はどこにもなかった。
「姫――」
気配は確かにここにあるのに。呼びかけると、樹上からくすくす、と幼い笑い声が聞こえた。
「やっぱり、導師さまが来てくださったのね」
見上げて驚いた。4メートルはある巨木の枝の上から、幼女の顔が覗いていた。波打つ金髪が、繊細な金色のネックレスのように下に流れている。けぶるような輝きは、眩しいほどあった。
「姫、一体どうやってそんなところに……下りられよ」
「無理よ。だって下りられないもの」
その大きな碧の眼は、まるで猫のようにくるくると輝いてみえる。クレフはため息をついた。
「お転婆も度がすぎるな……。魔法で下ろすから、待っていなさい」
「魔法は使わないで」
姫はそう言うと、止める間もなく無造作に枝から飛び降りた。
4メートルの高さから飛び降りたらただでは済まない。クレフは慌てて、その両腕で姫を受け止めた。小柄とはいえ、全く予期していない上に相当な勢いがついている。
「――っと!」
バランスを崩し、クレフは姫をしっかり抱きしめたまま、背中から花畑に突っ込んだ。ピンクや黄色や白の花弁が、さっと周囲に舞い上がった。
「姫! 怪我でもしたらどうするんだ! もうちょっと姫らしい振舞いを覚えなさい!」
がば、と上半身だけ起き上がり、クレフは自分の上に乗っかった姫を叱りつけた。いくら不憫だろうが、こんな無鉄砲な振舞いをするなら話は別だ。姫が何と言おうが、今日こそびしりと言い聞かせ、城内に引っ張っていかなければ。
そんなクレフの思いをよそに、姫はクレフの体の上に寝そべって見返してきた。
「魔法、使わなかったのね、導師さま」
「あなたが使うなと言うから。一体どうしてあんなことを言ったんだ」
「魔法って好きじゃない、だって導師さまが遠く感じるもの。魔法をつかわなければ、抱いてくれると思ったの」
「……」
「大好きよ、導師さま。お父様もお母様ももちろん素敵だけれど、エメロードは導師さまも好きよ。このままずーっと、一緒にいてね」
沈黙が二人の間を流れた時、はるか遠い城内から、王のテレパシーが届いた。
「――導師クレフ! 姫は見つかったか?」
そのテレパシーは、姫にも伝わっているらしい。姫は、クレフの顔を見ると、人差し指を立てて唇の前にもってきた。クレフは沈黙する。
「――導師殿!?」
「……すまない。まだ、見つからない」
妙な敗北感を覚えながら、今日もクレフはまた、嘘をつく羽目になる。
「――むぅ、本当か。いったいどこへ行ってしまったのか……」
そのままぶつりと切れた交信に、すまない、と心の中で謝った。どうしてだか、なぜだか分からない。ただ自分は、どうしてもエメロード姫に逆らえない。700年近く生きた自分が、7歳の小娘にいかんともしがたいというのは、どういうことなのか。
仰向けに花畑に寝そべり、くすくす笑い出したクレフを、エメロード姫は不思議そうに見た。
「導師さま?」
すぐに、エメロード姫も笑いだした。なぜかおかしくてたまらなかった。朗らかな笑いが、春の野を流れてゆく。
「ありがとう導師さま、わたしのお願いを聞いてくれて。わたし今、お城に戻りたくなかったの」笑いやんだ時、ぽつりと、エメロード姫が言った。「聞かないのね。どうして、いなくなったのかって」
「……」
「お母さまは、わたしのことをお好きじゃないのかしら。久し振りにお昼ご飯をご一緒する約束だったのに」
「姫」
クレフは、突っ伏してしまったエメロード姫の長い髪を、優しく撫でた。
「女王は、エメロード姫のことを大切に思っているさ。誰よりも」
「誰よりも……?」
「ああ。私が保証しよう」
たとえ、女王から直接愛情を示されることが決してなくても。慰めではなく、クレフは本当にそう思っていた。
「……ありがとう、導師さま」
顔を上げたエメロード姫の長い睫毛に縁取られた目には、露のような涙が浮かんでいた。
「……ねえ、導師さま」
「なんだ?」
心地よい風が、二人の上を吹き抜けていく。
「導師さまに、『お願い』ってあるの?」
「『願い』?」
クレフは閉じていた目を開けて、エメロード姫の顔を見返した。彼女は、思いがけないくらい真面目な顔をしていた。
「いつも、私のお願いを聞いてもらってばかりだから。いつかお礼に、わたしが導師さまのお願いを聞くの」
うむ、とクレフは唸った。そして、空を流れる雲を見上げたまま考える。胸の上に、エメロード姫の頬のぬくもりを感じた。
「あったかもしれない」
眠気が、背中の方からじわじわと染みこんでくる。そういえば、昨夜は研究に没頭してしまい、一睡もしていないのだった。
「でも、もう、忘れてしまったな……」
***
それから、どれくらいの時が経ったのか自分でも分からなかった。涼しい風が頬を撫で、クレフは目を覚ました。
「しまった……」
慌てて、上半身を花畑から起こす。西の空には、沈みかけの夕陽が見える。クレフの上で、エメロード姫はすやすやと眠っていた。クレフが動くのを感じ取り、目をゆっくりと開ける。「ミイラ取りがミイラ」どころではない。王からさすがにどやされるな、と思いながら、エメロード姫の小柄な体を法衣で覆うと、立ち上がった。
「もう冷える。城に戻ろう」
「……あ」
姫が声をあげる。ふたりが眠っていたところの花は散り、茎は折れて散乱していた。
「ごめんね、痛かったね」
かがみこんで、折れた茎を撫でた。
「大丈夫だ」
クレフは後ろから声をかける。
「セフィーロは常春の国。この花は枯れるが、すぐに次の花が芽を出す」
「……でも」
姫の声が沈んだ。
「それはもう、この花じゃないわ。わたしは、この子を助けてあげたい」
ぽぅ、と姫の手が輝くのを、クレフは驚いて見やった。姫はまだ、何の魔法も知らないはずだ。
姫は開いた掌を地面にかざし、瞳を閉じる。その全身が輝くと同時に、折れていた茎がつながり、しゃんと上を向いた。そして散ったはずの花が次々と花開くのを、クレフは言葉をなくして見守った。
「いつの間に、そんな『力』を」
「何もしていないわ。ただ、祈っただけ」
やはり、幼くともエメロードは次の『柱』なのだ、と感じざるを得なかった。
「導師さまに、同じ力はないの?」
「動植物の傷を癒し、再生する能力は、無垢な幼い子供に多く宿る。私も姫くらいの年の時はできたような気がするが、今は無理だな。それに、あなたは『特別』だから」
「……そう」
姫は、少しずつ暗くなる庭園を見つめて、しばらく無言だった。きゅっ、と自分の肩を包んだ法衣の裾を掴んだ。
「……わたしは、『柱』になるのね、導師さま」
幼女とは思えない、凛とした声だった。
「……そして、お母さまみたいに、長い長い時間を生きるのね」
「誰がそんなことを」
クレフは思わず、早口になった。誰も言っているはずがない、それを悟っているのは、『柱』である女王と自分くらいのものだろう。そうだとも、違うとも言えなかった。黙ったクレフを、エメロードは見上げた。
「さっき、返事をしてくれなかったわ。導師さまは、一緒にいてくださるのよね?」
その聞き方で分かった。彼女は、これほど幼いのにもう、『柱』になると決めているのだ。母親を『柱』に持ち、その責務がどれほど重いか知っているというのに。
「……ああ」
頷いた時、痛みに近い感情が胸を貫いた。辛いのは自分ではなくエメロードだというのに、我がことのように心が痛い。
「『約束』よ」
エメロードは微笑んだ。
「わたしを見守ってくださるわね、導師さま。わたしが生まれてから死ぬまで、ずっと。ずっとよ」
* last update:2013/7/16