「ウミか。入れ」
 クレフの返事を聞くのももどかしく、海はクレフの私室の扉を開けた。
「光から連絡が来てるんですって?」
「ああ。やっとチゼータと交信できた。ヒカルがおまえと話したいそうだ」
 振り返ったクレフはいつもの法衣で、私服を期待していた海はちょっとだけがっかりする。
「じゃ、なくて。光、だいじょうぶ? ちゃんとご飯食べてる? 切なくなってない?」
「……お前はヒカルの親か」
 クレフは少し呆れたようだった。そして、顎をしゃくって窓の外を見やる。
「もうつながっている。好きなだけ話すがいい」
「……」
「……」
「……えっ?」
 海の目は電話機らしいものを探したが、それらしきものは何もない。

「あの……どうやって?」
「通信すればいいだろう?」
 クレフは自分のこめかみを人差し指でトンとついた。海はがっくりとうなだれたが、すぐに起き直った。
「一般の女子高生は、宇宙と交信なんてできないの! なんかこう、ないの? 電話みたいなやつ!」
「デンワとはなんだ?」
「え、電話、電話……こんなのよ」
 当たり前だと思っているものを、当たり前のようにどんなものだと聞かれると困ってしまう。海は、空中に電話の輪郭を描いた。なぜか、使ったこともないのに典型的な黒電話を描いてしまった。描きながら、そもそもセフィーロとチゼータの間に電線がないから、電話なんてあってもつながらないわよね……と考えている。

 ふむ、とクレフは考えながら頷き、手にした杖をちょっと掲げた。すると机の上に、色こそ青だが、黒電話らしきものが忽然と現れた。海は歓声をあげて駆けより、コードがどこにもつながっていない……というよりもコードがないことに気づいて再びがっかりする。
「そうよね、当然よね分かってたわよ。でもコードがなければ、おままごとにすぎないわよ!」
 がちゃり、と受話機を取る。
「海ちゃん! 私の声、聞こえてる!?」
 途端に、光の元気な声が耳に飛び込んで来て、海は耳を疑った。

「……なんで?」
「お前はいつも、それを使って話していたのだろう。いつもと同じ行動をとることで、通信しやすくしただけだ。やっていることはコレと変わらん」
 再びこめかみを指差すと、クレフは海に背を向けた。
「好きなだけ話すといい。私は散歩でもしてこよう」
「……いいのに。でも、ありがと」
 クレフに隠すような話はないが、それでも気をつかってくれたのだろう。いったん背中を向けたクレフは、ちらりと振り返った。
「……寝るなよ」
 多分にいたずらっぽい言い方だった。
「分かってるわよ!」
 この間、この部屋で寝てしまったことを思い出して、海は赤面する。クレフは笑い、部屋から出て行った。


***


 受話機を再び耳に当てると、光は笑っていた。
「クレフと海ちゃんって、ほんとに仲良しだね!」
「そう……かしら?」
 後半は疑問形になった。気兼ねない関係だとは思うが、「仲良し」という言葉には違和感がある。相手の年齢を考えれば当然かもしれないが二人は対等ではなく、結局いつもからかわれている気がする。
「本当だよ? よかった、海ちゃん元気そうで」
 出発する時に、海のことを心配していたという風の話を思い出して、海は微笑む。
「私はだいじょうぶよ。みんなと楽しくやってるから。ていうか、光こそだいじょうぶ? お腹すいてない? 変な人に声かけられてない?」
「うん、お腹いっぱいだし。変な人なんて誰もいないよ!」
 前半はとにかく、後半は当てにならないわ。そう思いながらも、一週間ぶりに聞く光の声は元気いっぱいで、海の心も明るくしてくれる。

「さっき、タータとタトラから、クレフに見てもらう古文書の写しをもらったんだ。今晩チゼータを出発して、セフィーロに帰るから。何か、お土産で欲しいものある?」
「いいわよ、お土産なんて。セフィーロにいること自体、旅行みたいなものだしね」
「私が買って帰りたいんだ」
 そう言われて、しばらく考え込んだ。
「そうね……タータとタトラ、いつもいい香りがするわよね。チゼータはお香が有名ってタータが言ってたから、もし手に入りそうだったらお願いね」
「あちこちに売ってるの見た! まかせといて。他のみんなにも買ってくるね! 似合いそうなの」
 こくん、と大きく頷く光の顔が、目に浮かぶようだった。

 こうやって話していると、東京で光と電話している時と変わらない。ここがセフィーロだと忘れそうになった時、光が少し声を潜めた。
「海ちゃん。そっちに、チゼータの人って来てないよね?」
「え? ……あぁ、一人、変なのに会ったわ」
 8日前の夜に海沿いでくつろいでいた時、チゼータの若者に声をかけられたのを思い出していた。
「マスターナって人じゃないよね?」
 ずばりと名前を言い当てられて、海はぎょっとして受話機を見やった。
「なんで知ってるの光? あなたもナンパされたの?」
 肩を抱かれた時の感触がよみがえり、ぞわっとする。いい男には違いないが、海は生理的に無理なタイプだった。
「え、海ちゃん、大丈夫?」
「あ、私はなんともないの。クレフが鉄槌食らわせてくれたから」
「なにかあったんだな……」
「でも光、なんでマスターナの名前を知ってるの?」
 海が尋ねると、光はすぐには答えなかった。

「……預言者、なんだって」
「預言者って?」
「うん、ランティスに聞いたんだけど、占い師みたいなものなんだって。未来を知ることができるって。今まで、外したことがないんだってタータとタトラが言ってた」
「そうなの!? 信じられないわ、そうとう、うさんくさかったわよ」
 預言者や占い師、というと、紫色のローブを頭からすっぽりかぶって、人前に姿を見せないイメージがある。あの調子のいい男と、その肩書きがどうしても被らなかった。
「……あ、でも」
「どうしたんだ?」
 何かが引っかかる。何か、預言めいたことをあの男は口にしなかっただろうか。

「その人、チゼータの人達がたいせつにしていた本を、持ち出しちゃったみたいなんだ。だから、みんなマスターナを探してる」
「持ち出したって……」
 光の言葉に、海の意識が呼びもどされる。持ち出したとはソフトな言い方だが、つまりは盗んだということではないのか。
「分かったわ。次会ったら……会いたくないけど……その本と一緒に宅配便でチゼータに発送するわね」
「う、うん。本さえ返ってきたら、とりあえずいいみたい」
「光、甘いっ! 平たく言えば泥棒でしょ。言う事きかなかったら、プレセアに折檻してもらうから」
「……プレセアはちょっと」
 思い浮かべたのだろう、光は止めたそうだ。泥棒にまで気を使う光はほんとうに優しいのだが、時には相手に厳しくすることも必要だと思う。海はため息をついた。

「海ちゃん?」
「いいえ、なんでもないわ。光、気をつけて帰って来るのよ」
「うん! 戻ったら、またいっぱい話そうね!」
 それからしばらく話して、通話を切った。海はしばらくその余韻を楽しむように、そのまま椅子の背もたれに横向きに腰かけていた。
「……そうだ、クレフにお話が終わったって伝えにいかなくちゃ」
 そう独り言をいって、立ち上がる。胸の片隅に、なにか引っかかるような気持ちを抱えていた。


***


 外に出ると、もう辺りは薄暗くなってきていた。空は黄金色に輝き、木の葉や漣に茜色の光を投げかけている。木々の間から大海原を見やり、海は思わずため息を漏らした。
「本当に、『水色』ね……」
 海原はまさに水色、としか呼べない優しい色に染まっていた。夕陽がゆっくりと沈むところで、水平線の近くはピンク色に染まっている。寄せては返す、絶え間ない波音は穏やかで、まるで揺りかごにいるようだ。潮の香りと共に吹き抜けた風で、海の長い髪がふわりと背後に流れた。夕陽が沈むまで、海はその場に立ちつくし、風景に見惚れていた。陽が沈みきると途端に、チゼータ・ファーレン・オートザムの三つの星の姿がくっきりと浮かび上がってくる。
「みんな、あそこにいるのね」
 海は、そっと包み込むように星々に掌を伸ばした。ファーレンはひと際大きく見え、ファーレンの衛星のような位置にチゼータが小さく見える。オートザムはファーレンに比べると10分の1ほどにしか見えなかった。オートザムは他の三国より離れた位置にあると聞いていたから、そのせいだろう。
 
 久し振りに長居してしまったが、光は二日後に戻って来るだろうし、風も前後して戻るだろう。となれば、東京へ帰ることになる。長い休みが終わるように、今から少しさびしい気分になる。
「っ、そうだわ。クレフを探さなきゃ」
 海は城を振り返った。広い庭は森のように木々がうっそうと茂り、ひと一人見つけ出すのも簡単ではない。それほど遠くには行っていないだろうが、少しずつ空気が冷えてきているのが気になった。この八日間、間近に過ごすうちに気づいたことだが、クレフは予想外なほど寒さには弱かった。というよりも、導師という肩書から無敵だと思いがちだが、肉体の強さは、見た目通りの子供なのだ。
「クレフ? どこ行っちゃったの? 風邪引くわよー……」
 子供扱いするなとか、年寄り扱いするなとかクレフは怒るだろうが、実際風邪を引きそうなのだから仕方ない。
 
「クレ……」
 若葉の茂みを掻きわけた時、海は息を飲んだ。そこには小さな滝があり、滝の下は滝壺というにはこじんまりとした泉があったが、その脇にクレフが立っていた。泉の中には、水がその場から立ちあがったように巨大な青い影ができていた。その形を見て、海は声を上げそうになる。
―― セレス?
 その姿は、青く透けていたが龍に違いなかった。でも、セレスとは色合いも形も違っていることにすぐに気づく。目の辺りが、他の部分より黒っぽくなっていた。

 龍はその長い首をクレフに向かって垂れていた。クレフは右手を高く差し上げ、その頬に触れる。龍が更に首を下げ、互いの頬が触れあった。海は声を上げることができなかった。それがとても密やかな行為に見えたことがひとつ。もうひとつは、ちらりと見えたクレフの横顔が、初めて見るほど厳しく見えたためだった。

 不意に龍がちらり、と顔を上げた。その目が、海の方に向けられる。海は、どうしたらいいのか分からずに立ちすくんだ。
「……ウミ」
 クレフが気づく。そして龍から離れた。龍は首をゆっくりと暮れなずむ空に向ける。首から順番に、体が水に戻ってゆく。ぱしゃん、という水音を残して、泉の中に消えた。
「な、なに、今の……」
「セフィーロの動物たちの『主』だ」
「主……?」
 人々の最高責任者として導師クレフがいるように、動物にも頂点があるのか。それにしても、さっきクレフが見せていた厳しい表情が気になった。

「……クレフに何か伝えようとしてたの」
 クレフは首を横に振ろうとして止めた。海は、クレフの元に歩み寄った。
「……動物や植物たちが騒いでいる、と言っていた」
 まるでその言葉を待っていたかのように、鳥が一斉に地面から飛び立った。見上げると逆光のせいで鳥たちの姿は真っ黒に見えた。何十もの群れは上空で何百となり、鳴きながら旋回する。
「なんなの……?」
 何とはなしにゾクリとして、海はクレフに寄り添うように立った。
「……何かが起こりそうだぞ」

 空を見上げたクレフの瞳が険しい。いつも穏やかな彼にしては珍しい、と思いかけて、はっとする。さっきクレフは首を横に振ろうとしていた。「何でもない」と言いかけたのではないだろうかと思う。しかし途中で止めて、嫌な予感を口にした。海のことを子供だとか、異邦人だとか思うのは止め、一人前として扱ってくれようとしているのだろうか。「何かが起こりそうだ」とは、何気ない言葉ではあるが、理由がなければ口にしない言葉だと思うから。
「……うん」
 力を込めて頷くと、クレフが見上げてきた。その視線は、意外なほどに優しいものになっていた。
「中に入っていろ、ウミ。春とはいえ、夜は冷える」
「ええ。クレフも一緒に入りましょう」
「いや、私は」
 どうしても残ると言われれば、海にはそれ以上は言い募れない。だから、とっさにその手を掴んだ。言葉を止めたクレフが、目を見開いて海を見た。
「いいから」
 手を引っ張り、城に足を向けた。海には、何が起ころうとしているのか全く分からない。でも、嫌な予感を肌で感じていた。この予感が晴れるまで、セフィーロにとどまろう。自分は弱いかもしれないが、それでもここにいればできることがある。

 クレフは少し困った顔をしたが、海が手を引いて歩き出すと、抵抗せずに後ろからついてきた。
「――あ、そういえばね、クレフ。あのマスターナって言うひと……」
 実は、預言者だって光が言ってたんだけど。そう続けようとして、海はぴたりと足を止めた。
「ウミ?」
 いぶかしげなクレフの声を、背中に聞いたが、答えられなかった。

―― 「でも、このままチゼータにおったら、危ないしなぁ。どうせここに来ることになるし」

 電流のように、マスターナの何気ない言葉が頭に閃いていた。あの時は、違和感を覚えつつも聞き流してしまった。彼が預言者だと知った今、その意味を再考しなければいけないのではないか。何気ない言葉であっても、理由がなければ、口にしない……。今しがた自分自身が思った言葉が胸に蘇った。
「クレフ」
「なんだ?」
「あのね」
「どうしたんだ? 深刻な顔をして」
「私、もしかして、大変なことを……見逃してたのかも」
「ウミ、どうした。落ちついて話せ」
 クレフが海の手を逆に引いて近づけたその時、クレフの横顔が赤く照らし出された。

 はっ、とクレフと海は同時に上空を見上げた。上空に浮かんだ星のうちの一つが、真っ赤に光っていた。何度か、赤い柱のようなものが爆発的に立ち上がるのが、セフィーロからでもはっきりと見えた。炎だ、と気づいたのは数秒後のことだった。炎が、星全体を覆いつくそうとしている――!
「チゼータか?」
 さすがのクレフも愕然としている。
「うそよ」
 海の声が震えた。
「あそこには光がいるのよ!!」


* last update:2013/7/16