甲高い悲鳴が、長く長く尾を引き、空気を震わせてゆく。叫んでいるのは自分なのか、頬を伝う涙は本物なのか、分からない。鼓動が見る間に早くなり、まるで溺れているかのように息ができない。キーン、と頭の中で耳鳴りが響く。
「ウミ! しっかりしろ!」
耳元でクレフの声が聞こえるが、炎で覆われてゆくチゼータから視線を引きはがせない。
「わ、たしのせいで……光!」
無意識のうちに、がっくりと膝を折っていた。お土産を買ってくる、と言っていた光の無邪気な明るい声が、何度も耳に蘇った。マスターナが外したことがない預言者だと知った時、どうしてあの男の言葉を思い出さなかったのだろう。「チゼータは危ない」とはっきりと言っていたのに。あの時に、それを光に告げていたら。たった30分もなかったとはいえ、もしかしたら出航準備を早められたかもしれなかったのに。きっと光はあの後、海がああ言ったから香を買いに行って、そして――
「ウミ! 聞け!」
パニックになる直前、ぐいと引き寄せられた。白い法衣が、ふわりと頬を掠める。クレフに抱き締められているのだ、と気づくのにさえ、時間がかかった。くず折れた海より、立っているクレフの方が頭一つ分高かった。クレフのぬくもりが、じんわりと腕を通して伝わってくる。
「……私が分かるか」
クレフは、海の体を自分から少しだけ離すと、ごく近くからまっすぐに見つめてきた。その瞳は、全く揺らいでいなかった。はるか彼方から届く炎が、白い頬をほのかに照らしている。ここにいても、熱気が伝わってきそうだった。
海は、こくんと頷く。口を開けたら、また悲鳴が漏れだしそうだった。
「ヒカルは炎を使える。ランティスも凄腕の剣師だ。この程度でやられるものか。大丈夫だ」
ぽん、と頭を撫でられた。クレフは海を慰めるためにでも、嘘を言ったりはしないはずだ。爆発してしまいそうだった気持ちが、少しずつ落ちついてくる。海は大きく、深呼吸した。こみ上げてくる嗚咽を、どうにか耐えていると、背後から誰かが駆けてくる足音がした。
「導師クレフ! 一体これは……」
金色の髪を揺らして現れたのは、プレセアだった。その顔色は蒼白になっている。クレフは問いに答えず、海の肩を掴んでプレセアの方へ押しやった。
「ウミを頼む」
何か聞きたそうな顔をしながらも、プレセアはこくりと頷く。ふらりとよろめいた海の肩を、しっかりと支えた。
「導師クレフ! そちらにおられるのか! チゼータが……」
城内の方から聞こえてきたのは、緊迫したラファーガの声だった。城内もこの騒ぎに気づかないはずもなく、住人たちから悲鳴やどよめきが上がる。その中でひときわ高い、女の悲鳴が上がった。カルディナ―― 海は涙を拭いた。泣いている場合ではない。初めの衝撃が去り、ようやく自分の思考が戻ってきつつあった。「ヒカルとランティスは大丈夫だ」というクレフの言葉が、思いがけないほどの安堵を海に与えていた。
クレフは、普段の彼からは信じられないような大声で、城に向かって怒鳴った。
「ラファーガ、イーグルとカルディナを頼む! 全員城内へ入れ! 衝撃波が来るぞ!!」
そして、手にした杖を体の前に立てた。両手で柄を握り、炎に包まれるチゼータを決然と見上げた。その法衣が、風に強く煽られている。
「プレセア、ウミ。お前たちは私の後ろにいろ」
「導師、私も……」
前に出ようとしたプレセアを、クレフは制した。微笑んでいる――こんな時だと言うのに周りを気遣えることが海には驚きだった。750年近く生きてきたひとなのだ、ということが初めて腑に落ちた瞬間だったかもしれない。このひとは、自分たちには計り知れないほどの経験をし、危機を乗り越えてきたのだろう。
「クレフ……」
「そこにいろ。私の後ろは、セフィーロで一番、安全だ」
杖が突如、まばゆい光に包まれた。そして、螺旋のような弧を描き、杖から吹きだした光が周囲に拡散する。海はその明るさに、プレセアと抱き合ったまま目を閉じた。爆発的な光の勢いとは裏腹に、その光の弧は二人の体を通り過ぎる時に、そよ風を吹かせただけだった。
「……これ……」
海は周囲を見渡して、唖然とした。三年前のセフィーロ崩壊の危機の時、城を覆っていたバリアが再び現れていた。あの一瞬で、このとてつもない大きさの城をバリアで覆ったというのか。
「頭を下げていろ、ウミ」
立ちあがっていると、前を向いたままのクレフにそう言われた。再びしゃがむと同時に、初めの衝撃波がセフィーロを襲った。力の波が、バリアにぶつかるのがはっきりと目で分かった。数秒後、セフィーロを立っていられないほどの揺れが襲った。城内からいくつも悲鳴が上がる。バリアに覆いきれなかった城外の木々が、めりめりと音を立てるのが聞こえてきた。
幸い地震は、長くは続かなかった。せいぜい20秒くらいだっただろうが、海にはとてつもなく長い時間に感じた。そっと海が顔を上げると、まだ強い光を放っている杖を、強く握りしめたクレフの背中があった。その肩が一度大きく揺れる。
「クレフ、大丈夫!?」
海はクレフに駆け寄ろうとした。あれほどの力を一瞬で放出して、負担にならないはずがないのは海にも分かったからだ。
「導師クレフ!」
その時、ラファーガが茂みから姿を現した。さすがに彼の声からも、動揺が隠せない。大股でクレフに歩み寄ろうとした。
「全員、私に近寄るな!」
クレフが厳しい声で止める。そして、肩越しに振り返った。
「私の今いる場所を楔にバリアを張った。下手に近づけば、お前たちも消し飛ぶぞ」
よく見ると、クレフの周囲には青い光を放つ円が描かれ、円の中には精緻な紋様が浮かび上がっていた。ここから、強い「力」が発散されているのが分かる。ビリビリと肌に響くほどだった。
「ど、どうすれば……」
「導師!」
海より経験豊かで、セフィーロを深く知っている二人でも動揺している。クレフは振り向いた。その額に、汗が浮かんでいる。
「もうすぐ第二波が来るゆえ、私はここから動けぬ。動けぬものの周りにいてどうするのだ。ここの住人を守るために何ができるか、各々で考えて動け」
「……分かりました」
クレフが感情を込めて、誰かを叱咤するのは珍しい。二人は一瞬立ちすくんだが、やがてこくりと頷く。ラファーガはクレフに一礼すると、城内へと走った。
「ウミ」
プレセアが海の肩を後ろから掴む。あれほど取り乱したところを見られたのだから、心配されて当たり前だ。海は、無理やりに平静を保って振り返った。
「大丈夫よ、プレセア。私にはやることがあるの。だから、行って」
「……分かったわ。ウミ、無理だけはしないで」
プレセアには、プレセアにしかできないことがあるはずだ。走り去る彼女を、海は見送った。
「……みんな、本当に強いわね」
海は心からそう言った。初めから動揺を見せなかったクレフは勿論凄いが、動揺しながらも自分で考え動きだせるプレセアとラファーガも凄いと思った。あんな風になりたいと、思っている場合ではないのだ。海は涙を指で払った。
「おまえが取り乱すのは当たり前だ。落ちつくまで、さがっていろ」
前を向いたままだったが、クレフの言葉は優しかった。海は首を横に振る。
「こんな時、光ならどうするだろうって、思ったの。きっとみんなを助けるために、今頃走りまわってるはずよ。へたりこんでたら、戻って来た時、光に笑われちゃうわ」
光が今どうしているか海には分からない。しかし、今の自分よりはるかに窮状にいることは間違いない。でも、決して怯んでいないだろう、という確信があった。彼女が戻って来た時に、セフィーロの人々が傷ついていたら、また悲しませてしまう。風だって、この状況を見てきっとセフィーロに戻って来るはず――
海の心は決まった。
「魔神を呼べなくても、たった一人でも、わたしは魔法騎士。セフィーロを守らなきゃ」
そもそも、セフィーロに何かあった時のために、一人セフィーロに残ったのではないのか、と海は自分を叱咤した。私の願いは何だろう、と自分の中に問いかける。私は、セフィーロを守りたい。そして、光や風に無事なセフィーロをもう一度見せたい。そして……一人でセフィーロを守りきるつもりでいる目の前のひとを、これ以上独りにさせたくない。
「ウミ!」
クレフが声を上げた。クレフの周囲に描かれた円陣に、海が一歩足を踏み入れたからだ。
「きゃ……」
バチッ、と音がしたと同時に、電流を流されたかのような衝撃が海の全身を襲った。体に力が入らず、目も開けていられない。この巨大なバリアの要にあたる場所なのだ。こんな力が渦巻く中で、平然としてクレフが立っていられるのが信じられなかった。クレフが、焦った顔で振り向いた。片手を杖から離そうとするのを、海は必死に見開いた視界の隅で捉えた。
「駄目! 力を……弱めないで」
「離れろウミ! この中に入っては――」
「――っ!」
海は目をつむったまま、クレフの杖を思い切って掴んだ。
「……ウミ」
再び目を見開いた時、クレフが驚きを隠さずに海を見上げていた。感電したような衝撃は、身体から嘘のように去っていた。周りを見まわすと、円陣の色が青みがかっている。
「私とウミの力が共鳴しているようだ」クレフは信じがたいような目のまま続けた。「無茶なことを。この杖を掴んだのはおまえが初めてだ」
「無茶とか、クレフにだけは言われたくないわよ」
杖を握るクレフの指が、血で赤く染まっている。衝撃波に耐えるために全力で握りしめ、爪が手を傷つけたのだろう。
「私も一緒に、やるわ」
杖に、力がぐんぐんと吸い取られていくのが分かる。気を張っていないと、よろめいてしまいそうだ。でも――負けない。三年前、セフィーロを守るために戦った感覚が、身体に蘇って来るのが分かった。セフィーロは、意志の世界。魔神が呼べなくても、この手に剣が無くても、クレフを助けたいと思う気持ちは何よりも強い武器になる。
クレフは一瞬笑うと、表情をすぐに引き締めて、杖を再びしっかりと握りしめた。
***
「次が来るぞ。準備はいいか」
「ええ!」
円陣の中に渦巻く力が、海の髪を巻きあげる。海は、杖をぐっと握りしめた。海の手の少し下に、クレフの手がある。しっかりと支えている力を感じる。もしもたった一人なら、セフィーロ全土を揺るがす衝撃波の前に、とっくに絶望していただろう。たった一人が隣にいてくれるだけなのに、こうも違うものなのか。海は改めて、きっと前方を見据えたクレフの横顔を見下ろした。ひとりの人間の存在の大きさを、こんなにはっきりと感じたことはない。そして、クレフでなければこうは思わないだろうこともはっきりしていた。
前を向いたまま、クレフが口を開いた。
「……ウミ。これだけは忘れるな。もう駄目だと思った時、絶対に座り込むな」
「……どうして?」
「二度と立てなくなるからだ」
さっき泣き崩れたのを見て、そう言っているのに違いなかった。確かにそうだ、と海は唇を噛みしめる。クレフがいてくれなければ、きっともう、立ち上がれなかった。
「立ち上がって、目の前を見て戦え。生き残るにはそれしかない」
迷いのない、きっぱりとした口調だった。いつも守りに徹しているひとの言う事とは思えない、と海は思う。まるで、戦士のようだ。ちらりと海を見たクレフの目は優しかった。
「いつも私が隣にいてやれればいいのだがな」
「……あなたは」思わず海は言った。「どれくらいの戦場を、乗り越えてきたの?」
「乗り越えてなどいない」クレフの声は静かだった。「ただ、通り過ぎただけだ。まだ、私は……」
クレフが最後まで言ったのかは聞きとれなかった。言い終わる前に、第二波が襲って来たからだ。ごう、と空が唸り、雲がものすごい勢いで駆けてゆく。と思った瞬間、突風が上から吹きつけ地面は揺れた。海は歯を食いしばり、衝撃に耐えた。骨がきしみを上げる音を聞いた気がした。力が、杖にどんどん吸収されていく。まるで、自分がそのまま吸い込まれてしまいそうだ。負けてたまるか、と思った時、自分の手の周りが薄青く発光しているのが見えた。
「―― なんだ?」
クレフが顔を上げる。青みを帯びていたバリアの色が、さらに変わったように見えた。と同時に、地震は除々に小さくなる。
「誰の力だ? これは」
誰かが力を貸し、バリアを強化したことで衝撃波の威力が押さえられている。
「大丈夫ですか!? 導師クレフ、ウミ!」
上空から降って来た複数の声に顔を上げると、城の5階にあるテラスから身を乗り出したプレセアとラファーガの姿が見えた。その周囲に、見えるだけでも何十人もの人々の姿があった。魔導師、召喚師、剣師、創師――誰がどの職業なのか正確に見分けはつかないが、特別に『心』の強い者たちだということは分かった。全員の顔に濃い緊張が張りついていた。
「おまえたち……」
「導師だけに負担をかけさせるわけにはいきません! セフィーロは、私たち全員の国ですから」
自らを鼓舞するような大声だった。怖いはずだと海も思う。経験したことがない力に襲われている今、一歩前に出るだけで、どれほどの勇気がいることか、身をもって知っている。しばらく黙っていたクレフの力が、ふっと緩むのが海には分かった。円陣を中心にした光が弱まる。
「ウミ! 導師クレフ!」
茂みを掻きわけて、息せききったアスコットが現れた。
「アスコット!」
顔を上げた海と目が合うと、アスコットは険しい表情を和らげた。
「よかったウミ、無事だったんだね。導師クレフの円陣に踏み込むのが見えたから、どうなることかと思った」
「そんな……無茶だったの?」
「今頃聞くな。当たり前だろう」
クレフが呆れたように言ったが、その表情にはわずかに疲れが見えた。アスコットがこくこくと頷いている。
「でも、みんなが立ちあがったのは、ウミのおかげだ」
「え?」
アスコットの言葉に、海は首を傾げた。彼は、興奮冷めやらぬ表情で続けた。
「みんな、知らなかったんだ。このセフィーロを守る力が、自分たちにもあるってことを。エメロード姫のころから、守られることが空気みたいに、当たり前だと思ってたから。何かあったら、『柱』や導師みたいな特別な人が現れて、なんとかしてくれると思いこんでたんだ。でも、ウミが導師クレフを助けようとするのを見て、みんなハッとしたんだと思う。自分にもできることがあるって」
そうか、と聞いていて海は思った。エメロード姫の時代のセフィーロでは、姫の意志が全てであって、他の者はこの国に影響を与えることができなかった。新生セフィーロになって、一人ひとりの意志が未来を決めるということを、頭では分かっていても今まで、理解はしていなかったのではないか。
「……これこそ、魔法騎士たちがセフィーロにもたらした変革だな。……おまえたちは皆、成長した」
クレフは微笑んだ。
「でも。私の力なんて……」
「いや、さっきは正直驚いた。私の力は第一波の時よりも落ちていた。それでも押し返せたのはおまえがいたからだ。……ありがとう」
慰めてもらったり、庇ってもらったことは数あれど、こんな風に自分の力を褒めてもらったのは初めてだった。というよりも、クレフは優しい半面厳しいところもあり、本気で褒めたいと思わなければ褒めないことはよく知っていた。
ううん、と海は首を振った。いろんな感情の入り混じった涙が、少しだけ浮かんだ。
杖を持ち替えたクレフの掌に、血がにじんでいる。
「爪が傷つけたのね……待ってて、今何か布を」
「まだ、終わっていない。威力は下がって来ているが、第三波が来ることもありえる。油断するな」
クレフの視線は、すでにチゼータに戻っていた。今や太陽のように、真っ赤に光り輝いて見える。夜に近づく空の中でそこだけが煌々と赤く不気味だった。アスコットは不安げに、クレフを見た。
「一体、何が起こったんでしょう? 他国の襲撃か隕石か、火山でも噴火したのかと、みんな様々に言っていましたが」
「……どれだったとしても、他国にこれほどの影響はもたらさない」
クレフは首を振った。
「そうよ! ファーレンとオートザムも、セフィーロと同じ状態ってこと?」
海の脳裏に、風とフェリオが浮かんだ。
「被害は避けられなかっただろうな。セフィーロも、守れたのは城内まで。城外の森や海は被害をこうむっている。ファーレンはチゼータに最も近い。被害は受けているだろうが巨大な国だ、被害は限定的だろう。しかし、オートザムは……」
クレフはそこで言葉を切り、ファーレン・チゼータと少し離れたところに見えるオートザムを見やった。
「バリアを張って国を守りはしただろうが、元々精神エネルギーが枯渇していたところだ、今後の影響は大きいだろう。下手をすれば、大気の浄化システムを保てなくなる可能性はある」
「でも、みんなで協力すれば、チゼータとオートザムも……」
「チゼータはもう駄目だ」
クレフは言い切った。
「今余力があるのは、セフィーロとファーレンだけだ。ファーレンが最も近いが、チゼータとファーレンの間の宇宙空間には瓦礫が多く漂っている、飛行艇が通り抜けるのは難しいだろう。チゼータからの避難民を受け入れる準備をせねばな」
海は改めて、ぞくぞくと恐怖が背筋を駆けあがってくるのを感じていた。チゼータからの避難民を受け入れるとすれば、「すぐにセフィーロに来ることになる」というマスターナの言葉の後半も実現することになるのだ。必ずそうなるに違いない、という不気味な予感があった。
クレフが振り返って自分を見る視線を感じた。
「……ウミ。さっき、『自分のせいだ』と言っていたな。どういうことだ?」
クレフに問われて、海は我に返った。そういえば、まだクレフには何も説明していない。海は口ごもりながらも、自分が聞いた「預言」のようなもの、そして光の言葉を伝えた。
「あの男が、預言者?」
さすがにクレフも驚いたようだった。
「そんなの、信じられないわ……未来を予知するなんて」
絶句するプレセアをよそに、クレフは一点を見つめている。猛烈な勢いで何かを考えているのは分かった。しかし彼は、すぐに首を振った。
「……いずれにせよ、今はこの状況を切りぬけるのが先だな。チゼータの様子も気になる」
「……交信できないの? ランティスと光に」
海は、怖くて聞けなかったことを聞いた。
「試みてはいる」
チゼータを見上げたクレフの横顔が一瞬、苦痛を感じているかのように歪んだのを海は見逃さなかった。試みたが、返事はなかったのだ、と十分に物語るものだった。ランティスも光も、クレフにとっては「教え子」なのだ、と海は思い出さずにはいられなかった。「教え子」という言葉を、どれほどクレフが優しく口にするかということも。離れた場所にいて何もしてやれないことが、師としてどれほど辛いか。その苦痛には、750年生きても、経験豊かでも、決して慣れることはないのだろう。海とアスコットは同時に唇を噛んだ。クレフは微笑んで、首を横に振った。
「原因は分からないが最近、テレパシーが通じにくい状態が続いているのだ。今もこの状況だ、通じないからと言って相手に何か起こったとは限らない。あまり心配しすぎるな」
「……こんなことが起こるなんて」アスコットは張りつめた息を、一気に吐き出すように口にした。「過去にも、このようなことはなかったんでしょう?」
「過去には、」
クレフは何気なく答えかけたが、唐突に言葉を切った。はっとしたように、改めて夜空に視線を戻す。
「導師クレフ……?」
「……いや、何でもない」
クレフはすぐに言葉を継いだ。いったい何を否定したのか聞きたかったが、クレフの表情は妙に青ざめて見えた。
* last update:2013/7/17