「これもいい! うぅん、これもいい香りだし! どれがいいかな」
 光は、かれこれ15分も、とある香水の屋台の前で忙しく動き回っていた。ランティスは店の外の木陰で、木に背中をもたせかけて休んでいた。香水のような女の店に入って、一緒に見る趣味はない。ただ、楽しそうに色んな香りを嗅いでいる光の背中を見ているのは、何だか子犬が遊んでいるのを見守っている飼い主のような気分になる。つまり、決して嫌な気分ではなかった。

「ねぇ! ランティス!」
 急に呼ばれて、ランティスは腕を組んだまま店を見やった。ぶんぶん、と光が左腕を振って、全身で彼を手招いている。右腕には、あの写本を大事そうに持っていた。無表情のまま黙っていると、「早く行ってやれよ」「お前の娘だろ」と周囲の野次馬から声が聞こえてくるのには閉口した。光が幼く見えるのは認めるとしても、親子に見えるほど自分は老けていないと思う。
「なんだ」
 しかたなく店先に歩み寄ると、光は困った顔をして二つの香りを見比べた。二つとも、小指ほどの高さのクリスタルの瓶に入っている。左色の液体は紫色で、右側は緑色をしていた。
「ずっと嗅いでるうちに、どっちがどっちの香りなのか分かんなくなっちゃったんだ。どっちが、ほっとできる優しい香りだと思う?」
「優しい香り?」
「うん。なんか海ちゃん、ちょっと元気ないみたいに見えたから。心配なんだ」
 海、という少女と直接口をきいたことは、ほとんどない。様子がどうだったかもよく覚えてはいない。しかし、元気がなかったとすれば……ランティスにはその理由が思い当たらないでもない。

「……相手が悪いな」
「え、なに?」
「いや。俺には香りは分からないが……」
 ランティスは両方の瓶の口元を掌で軽く仰ぎ、香りを確かめた。
「左は鉱物の香りが中心だ。覚醒作用がある。右は薬草の香りが中心で、神経を鎮める働きがある。そう考えれば右だな」

 我ながら、情緒のかけらもない説明だと思う。しかし、どれがいい香りなのか、ランティスにははっきり分からないのだ。期待されているような答えを返せなくてすまない、と言おうとした時、見上げた光の目がキラキラしているのに気づいた。
「ランティスはすごいな! 私は、自分が好きか嫌いかしか分からないのに」
「そう……か?」
「うん! 海ちゃんにはこれにするね! 私、お会計してくる!」
ためらわずにランティスが推した方を選ぶと、背中の三つ編みを揺らしてレジに向かった。


 辺りは少しずつ夕闇が沈み、大通りの両側には松明が煌々と灯り、行き交う人々の顔を赤く照らし出していた。今晩、チゼータを発つ。クレフがランティスに暗に期待していた、異変を感じ取ることは結局できなかった。セフィーロに戻ったら、マスターナという預言者を引き続き探してみるほかない。そこまで考えて、ランティスは我に返った。何もないのなら、それが一番良いではないか。師が柄にもなく気がかりそうだったから、影響されてしまったのかもしれない。まるで、何か禍が起こるのを当然のように、いつの間にか考えてしまっていた。

「ヒカル。買い物が終わったならそろそろ――」
 城に戻り、出立の準備をしなければ。そう言いかけた、不意にぞわりと右肩の辺りに嫌な気配があった。振り返り、通りを見渡す。そして、いつも通りの人々の笑顔を見た。何の変哲もない、いつものチゼータの夕暮れ……
の、はずだった。

 美しい夕焼け空の真中に、ぽつん、と黒い点のようなものが見えた。はじめは、見間違いか、鳥かと思った。その点は見る見る間に広がり、一本の黒く長い縦線となった。写真に一本の黒い線を引いたかのように、違和感がありすぎる風景だった。

 なんだか分からない、が、
 あれは――まずい。生きとし生けるものが、見てはならないものだ。

 体が強張るなど、久しくないことだった。足音を立てて、光が駆けてくる。
「どうしたんだ!?」
 その声が、緊張感を帯びている。彼女も何か危険な気配を感じているのだ。ランティスの視線の先を追い、ハッと息を飲むのが分かった。
「あれは……なんだ?」
 光が、ぎゅっとランティスの腕を握った。二人の視線の先で、その黒い線は一瞬ぶれたかと思うと、ゆっくりと長方形の形に広がった。まるで、ランティスの目には、内側から扉が開かれたかのように見えた。
「……『扉』……?」
 光も同じ事を思ったのだろう。呟く声がランティスに届いた。

「逃げろ、ヒカル」
 ランティスは無意識の間に光の前に立った。次の瞬間、『扉』から、黒い液体のようなものが波を打ち、雨のようにチゼータの街に落ちてきた。人々は何事かと、同時に空を見上げた。そして、黒い雨を見つけた。その「雨粒」が降り注いだ直後、悲鳴がチゼータ全体に轟き渡った。

 「雨粒」は、音もなく落ちた。そして、「雨粒」が落ちた屋根や土にはあっという間に穴が開いた。その真っ黒い穴は、台地を、木々を、壁を次々と浸食して広がって行く。そして、穴が開いた場所にはもはや何もなかった。
「溶けてる……街が、溶けていく」
 光が唖然として呟いた。まるで強力な酸のようだが、酸でもこんな風に無尽蔵に広がりはしない。ランティスは光を屋根の下に庇い、大声を上げた。
「雨に直接あたるな! 建物の中に避難すれば時間を稼げる!」
 若い娘が甲高い悲鳴を上げる。「雨」を受けた着物が、音もなく溶け広がっていく。隣にいた男は、声も立てられずそれを見ていることしかできなかった。ランティスは駆け寄ると、剣を出現させ、服を途中で断ち切った。地面に落ちた服の一部があっという間に溶け、地面へと広がってゆく。

「どこに……どこに逃げればいいんだ!」
「あの黒い穴から液体が落ちているんだ。できるだけ離れろ!」
 うろたえる人々にランティスが声をかけた時、溶けた松明が次々と通りに横倒しに倒れた。そのうちの一本が、着物屋の上に倒れかかった。炎がぱっと着物に燃え移り、荒々しい音を立てた。

 全てを溶かす漆黒の波と、全てを燃やす炎の波がつらなり、チゼータの街を飲みこんでゆく。
「―― もう駄目だ!」
「神様」
 悲鳴が聞こえてくる街を、ランティスは振り返った。たった10分前にはいつもの喧騒が拡がっていた街は、今や炎に真っ赤に照らされていた。この様子では、チゼータ全体に炎が燃え広がるのに時間はかかるまい。修羅場も、戦場も知っている。しかしこれはどちらでもなく、敢えて言うならば「地獄」だった。

「ヒカル」
 ランティスは、背後の光に手を伸ばした。何があろうが、光は守らなければ。しかし、伸ばした手は空を切った。振り返ると、光はある一点を見つめていた。その視線を追った時、今にも燃え落ちそうな建物の下にいる、まだ幼い男の子に気づく。
「ヒカ――」
 光は返事をせず、手にした写本をパシッとランティスに投げて寄こした。とっさに受け取った時には、光はまっすぐに、男の子に向かって駆けていた。建物の下に膝で滑り込み、震えたまま動けない男の子を抱き締める。

 ほっとしたように光が笑った横顔が見えた。その直後、炎に包まれた屋根が、まともに光と男の子の上に落ちた。全てが、炎の下に見えなくなるまで、一秒もかからなかった。
「ヒカル!!」
 ランティスは棒立ちになったまま、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。


* last update:2013/7/17