光は、しっかりと少年を抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じていた。炎の固まりが少年に落ちかかっているのに気づいて、反射的に飛び出していた。少年を抱え込んだ瞬間、炎が自分たちの上に瓦礫もろとも落ちてくるのを見て背筋がぞっとしたが、どうにもならなかった。その場に座り込んでしまっていた少年を動かす時間も力も光にはなく、小さな体の上から覆いかぶさるようにしゃがみこんだのだ。
当然無傷ではありえないはず――しかし、何か、柔らかで温かいものが頬を撫でていくだけだった。
「……レイアース?」
炎の被毛を持つ狼の姿をした彼の息遣いを、久し振りに聞いた気がした。光は、そっと目を開けた。
一番初めに目にしたのは炎だった。頬を通り過ぎ、服に燃えついたように見えたがすぐにぱっと消えた。光を中心に炎が渦を巻いている光景は、まるで旋風に赤い色がついたかのようだった。
「……君! 大丈夫?」
光は慌てて、懐に抱え込んでいたの少年を見やった。くったりと体の力を抜いて目を閉じていたが、その体は火傷はしていなかった。規則正しい息の音を聞いて、光は詰めていた息をほっと吐き出した。
「ヒカル! 無事か!」
駆けつけてきたランティスの頬に、血の気がない。光は少年を抱き起こそうと悪戦苦闘しながら、顔を上げた。
「大丈夫だよ、ランティス。不思議だけど、熱くないんだ。まるで私の魔法の『炎』みたいだ」
ランティスはほっとした顔をしたが、すぐに顔を険しくした。
「馬鹿者。いきなり飛び出していくな」
「ごめんなさい」
ランティスの言い方はぶっきらぼうで、怒っているようにしか聞こえなかった。光がしゅんとうなだれると、ランティスの掌の感触を感じた。頭や肩に降り積もった瓦礫のかけらを、払い落してくれているらしかった。
「怒ってはいない。ただ……」
「ぼうや、大丈夫?」
ランティスの言葉を遮るように、一組の男女が二人に向かって駆けてきた。その視線は、ランティスが抱え取った少年に向けられている。
「この子の親か」
ランティスが懐の少年に視線を落とした。母親の必死な視線が少年に据えられ、一度大きく頷いた。
「ええ、この子は……」
「気を失っているだけだ。ヒカルが……この娘が助けた」
母親は、悲鳴とも喜びの声ともつかない叫びを上げて、子供を抱き取った。
「ありがとうございます」
父親と並んで、何度も何度も頭を下げる。
「ううん、気にしないで。それよりも、ここを離れたほうがいい」
光の言葉に、父親は混乱しきった目で周囲を見渡した。
「とはいっても、どこへ逃げればいいんです? チゼータは今やどこも同じ状況です」
その直後だった。大きなサイレンのような音が、耳をつんざくような音で通りに鳴り響いた。
「チゼータ全国民に告ぐ。ただちにチゼータ城の城内に避難しなさい。ただ一人も逃げ遅れることがないよう、お年寄りや体の不自由な人々には手を貸して下さい。繰り返します。チゼータ全国民は今すぐ――」
通りがしん、となったのは一瞬のことだった。即座に、人々が城に向かって走りだす。
「……っと」
必死で走って行った誰かの肩にぶつかり、光はよろめいた。その肩をランティスが支える。
「俺達もチゼータ城へ向かう。俺から離れるな」
「うん」
こんな時なのに、全く動揺を見せていない。ランティスは、遠くに微かに見える中空の黒い長方形を睨むように見ていた。『扉』だ、と光が思ったものだった。あれが元凶だ、とランティスも思っているに違いないのだ。この闇をそのまま形にしたような波は、あの小さな『扉』から吹きだして来たのだから。
「……チゼータを捨てるか」
「え」
光が聞き返すと、見下ろしたランティスの視線は悲しげだった。
「国土が狭いのが幸いしたな。チゼータ王は、国民全員をチゼータ城に集め、飛行艇でチゼータから脱出するつもりだろう」
「そんな……」
「国民を取るか、国土を取るか。両方にしがみつけば両方を落とす。チゼータ王の決断は早かったようだ。名君だな」
***
ランティスと光が城に辿りつくと、城門は大きく開かれていた。城内の広い庭は、今や次々となだれ込む人で溢れていた。そして二人が目を見張ったことに、すでに城内には何艇もの飛行艇や戦艦が到着していた。チゼータにあるありったけの飛行艇を集めているようで、大小新旧様々である。チゼータの国土の狭さから、国民の数も他の三国と比べれば少ない事は推測できるが、それでも全員が乗り切れるのかどうか分からなかった。
「それぞれの地区長は、今すぐ人数を確認すること! 確認後、不明者のリストを作成すること。そのあと、地区ごとに分かれて飛行艇に乗船してください! 一刻の猶予もありません、急いでください!」
警官に当たる人々なのだろう、明るいオレンジの布を肩にかけた男たちが声をからして叫んでいる。しかしその場の人々は、おろおろと右往左往し泣くばかりだった。
「早く乗りなさい! 逃げ遅れるぞ!」
「でも、今出たら、二度と戻って来れないんじゃないですか! この国のために、まだ出来ることがあるかもしれないのに」
「私はもう年寄り。どこへも行きたくありません。この国がもう駄目なら、この国と一緒に死なせてください」
乗れと叫ぶ警官と、行けないと泣く人々のやり取りがいたるところで聞かれた。子供や親、友人を探す人々の声がそれに重なり、大声を出さないと隣の者とも話せない。
光は唇を噛んだ。たった20分ばかり前は、平和ないつもの国だったのだ。いきなり阿鼻叫喚の中に放り込まれて、人々が混乱する気持ちも分かる。愛する国や、家を置いていけない気持ちは、分かるとは言えないまでも、その辛さを察する事はできる。でも、このままでは――
「……セフィーロからの方ですね」
その時、後ろから肩を叩かれた。すると、警官の一人がランティスと光を見ていた。
「王がお呼びです。こちらから城内へお入りください」
ランティスが頷いた。
「――おぉ、ランティス殿、ヒカル殿。よくご無事でおられた」
二人が玉間に入って行くと、王がほっとした声を上げて迎えた。その場には王妃と二人の姫の姿もある。何人もの側近たちがその周囲に集まり、深刻な表情で壁に映されたモニターに見入っていた。
いくつものモニターに映し出されているのは、チゼータの各地点の景色だった。焼けてゆく街の姿、闇の波が拡がる砂漠、そしてその形を半分ほど失っている、星の左右に位置する三角錐の地域。どこを見ても、無事である地点はなかった。
「王。飛行艇は続々と城に集まっています。しかし国民の多くが乗船を拒んでおり、避難は難航しております」
「そうか」
モニターを見上げる、王の視線は静かだった。
「国民全体に儂から告知する。庭につなげ」
「は、はい!」
すぐに王に、マイクに似たものが手渡される。王は、モニターに映る国民たちを見渡しながら、ゆっくりと声を発した。
「チゼータの国民たちよ。鎮まれ」
その声は決して大きなものではないはずなのに、全員を一瞬で鎮まりかえらせた。まるでオーケストラの曲間のようだ、と光は思った。
「王!」
「王様! チゼータを御救いください!」
すぐに、全体から声が鳴り響く。どれほどこの王が、国民から慕われているか。その救いを求める表情から伝わってくる。王は、ゆっくりと言葉を続けた。
「全ての警備の者に告ぐ。街に火をかけよ。無事な部分を全て破壊するのじゃ」
えっ、とタータが声を漏らした。どよめきと悲鳴が、城内の庭に轟いた。
「何を仰います! ご乱心されたのですか、王!」
王にマイクを差し出した側近が、王に詰め寄ったが、彼は視線だけで側近を黙らせた。
「諦めがつくじゃろうが!!」
王が一喝した。その声の激しさに、側近は動きを止める。その声は当然、国民たちにも届いていた。しんと静まり返った中に、王の声だけが響いた。
「このチゼータは、もう終わりじゃ」
こらえきれなかったように、タータが涙をこぼした。王妃が、タータとタトラの肩を抱く。すすり泣きが庭から一斉に漏れた。
チゼータが泣いている――嗚咽する者、声を出さずに涙だけ流す者。老いも若きも、男も女も、武人も文人も皆泣いている。この国の人達は、本当にチゼータが好きなのだ。セフィーロの人達がセフィーロを守ろうとし、光が東京を大切に思っているように。無意識のうちに、光の頬にも涙が流れていた。チゼータの人達の悲しみが、自分の中に流れ込んできたかのようだった。
王は、ただ一人涙を浮かべていなかった。
「国土がなくとも、人がいれば国は絶えはせぬ。皆の者、生きてはくれんか」
泣いていなくても、その声には消し難い無念があった。心から語りかけ王に対し、国民の反応は早かった。
「飛行艇を城内に! 順番に案内しろ!」
「列を作れ、子供や年寄りが先だ!」
滞っていた流れが、一気に動き出す。光は改めて、王を見やった。どんなにか悔しく、悲しいだろうと思った。一瞬王は目頭を押さえたように見えたが、すぐに側近たちに向き直った。
「国民の準備は整った。他国の様子を映すのじゃ」
モニターが切り替わり、ファーレン・オートザム・セフィーロの映像が順番に映し出された時、光は息を飲んだ。どれも二つずつ画像があり、下に日付が入っている。右側が昨日の日付、左側が今日の日付になっていた。そして左側の映像には、異常がどれも一目で見て取れた。
「他の国にも影響が出てるのか……?」
「衝撃波が他の国にも届いているようです」
モニターを映しだした側近の一人が、補足した。どういうことだ、とどよめきが再び上がる。
「ファーレンは豊かな農業国ですが、攻撃に対する備えは十分ではありません。一番チゼータから距離が近いということもあり、衝撃波の直撃を受けたようです。しかし、巨大な国ですから全体からみれば限定的。さらにこの映像を見る限り、幸運にも山岳地帯に衝撃波が届いたため、人的被害はあまりないでしょう」
「風ちゃん、フェリオ……」
光は口元を押さえた。確かに映像を見比べる限り、被害があったのは山岳地帯のようだ。しかし茶色に色を変えた地形は痛々しく、全姿を映した映像にも映るほど範囲が広かった。あの場所に二人がいないことを光は心から祈った。
「オートザムは……ご覧の通り、国が真っ暗になっているため詳細はうかがい知れません。しかし、こちらの方向にバリアが張られているのが見えますので、被害は免れた模様です」
オートザムを見ると、漆黒の球体に見える国を、かすかに乳白色に見えるバリアが覆っていた。
「……国の三分の一ほどを覆うバリアを張るには、莫大な精神エネルギーを要する。非常用電源の立ちあげに時間がかかっているのだろう」
黙っていたランティスが口を開いた。
「……そなたは」
王が訝しげに尋ねる。
「オートザムにいたことがあります」
ランティスの言葉に、おぉ、と頷いた。
「……大丈夫かな」
小声で光が声をかける。ランティスは険しい表情でオートザムの映像を見つめていた。と、その視線が驚きに見開かれる。おお、と周囲からも声が上がった。
「中央部のみ灯りが戻ったぞ」
「国の機能は問題ないようだな」
声を交わし合う側近たちの中で、ランティスはひとり訝しげな表情を浮かべていた。漆黒の国の一点のみに煌々と明かりが灯っている。それは真っ暗な海の中の灯台のようにも見えた。
「どうしたの? ランティス」
「非常用電源の立ちあげには数日かかるはずだ。こんなに早く復旧できるとは思わなかった。しかし……いずれにせよ長くはもつまい」
光は息を飲んだ。ランティスが、確信のないことは口にしないと分かっているからだ。オートザムに直接行ったことはないが、あのイーグルの祖国だ。彼が知ったら悲しむだろうと思う。それに、ザズやジェオはあの後、セフィーロからオートザムに戻ったのだろうか?
「オートザムは強かな国、心配はいらない。むしろ……」
「むしろ?」
「いや」
ランティスは光の問いに答えず、首を振った。
「セフィーロは」
タトラの声に、一同の視線がセフィーロの映像に集まった。乳白色のバリアが、城の周りを包んでいる。虹が幾重にもかかるように、バリアはその色を薄めながらも、何重にも広く国全体を覆っていた。ランティスが説明する。
「……導師クレフの魔法だろう。城は完全に守られている。城外にも、かろうじてバリアの効力が届いている。被害は小さいだろう」
「……避難するならセフィーロ、だな」
側近の一人が、口を開いた。傍にいた一人が眉を寄せ、王を見やる。
「距離はファーレンの方が近いです。おそらく全ての飛行艇が定員越えとなりましょう。途中で燃料切れとなる危険があります」
「しかし、チゼータとファーレンの間には多量の隕石が漂っている。最新鋭の船ならとにかく、旧式の飛行艇が全ての隕石を避けられるとは思えぬ。隕石が直撃すれば、船は全滅の可能性が高い」
王の視線が、ランティスと光を捉えた。ランティスは軽く頷いた。
「導師クレフの承諾を得るにも及びません。セフィーロへ来られよ。我々は、国が滅びる悲しみを身を持って分かっているつもりだ」
その場の全員の視線が、ランティスに集まった。セフィーロが三年前、崩壊の危機を迎えたことを知らない者はないのだろう。
「……感謝する」
王の言葉には、感情がこもっていた。再び側近たちに視線を戻した時には、その視線は厳しさを取り戻していた。
「全ての船首を『セフィーロ』に向けよ! 王族は最後で良い。ただ一人も国に残すな」
* last update:2013/7/17