グリフォンが、何メートルもある巨大な翼で力強く羽ばたいた。その背に座っていると、海の青い髪が後ろに流れ輝いた。ラファーガは海の隣で立ち上がり、セフィーロの森を見下ろしている。
「助かったわ、グリフォンがいてくれて!」
 ラファーガと二人、城から出ようとした途端に、グリフォンが舞い降りてきたのだ。人懐こいグリフォンのことだ、馴染みがある人間を見つけて嬉しかったのだろう。言葉が通じるだろうかと思いながらも、光がやっているように、森へ乗せて連れてってくれないかと頼んでみたら、こくりと何度も頷いたのだ。ランティスの精悍な馬と同じ精獣とは思えないほど、のほほんとしていて人が良くて……海は、クレフの精獣のほうが好きだった。

「ねえ、グリフォン。なんで一人でいたの? クレフと一緒じゃないの?」
 茶色い羽に手を触れながら海が語りかけると、グリフォンは突然大声で鳴いた。
「な、なによ!?」
 ばたばたと羽を動かしたせいで、海はグリフォンの背中からずり落ちそうになる。そのいかにも気に入らない、納得いかない、という素振りに、海はハタと思い当った。
「わかったわ。クレフは、フューラに乗って行ったのね?」
 どうやら図星だったらしい。今度はうなだれてしまったグリフォンが、何だか気の毒になる。どうやらフューラに嫉妬している彼(彼女?)は、精獣とは思えないくらい人間臭かった。
「グリフォンのほうが速いのにね」
 こくこくと頷くグリフォンをなぐさめながら思ってみる。
―― 置いて行かれたのは私だって同じだわ。

「簡単な理由だろう。フューラは海に潜れるからな。グリフォンには無理だ」
 思わぬタイミングで口を開いたのはラファーガだった。
「そうなの?」
 初耳だった海は目を丸くする。でも考えてみれば、魚の姿なのだから泳げるのは普通で、むしろ飛べるほうがおかしい。振り返ったラファーガの表情は険しかった。
「導師クレフは、まだ城に戻られないのだろう」
「ええ。私もずっと、探していたんだけど、どこにもいなかったわ」
「あの方も本調子ではないはずだ。わざと、姿を隠されているのかもしれないな」
「えっ?」
 海がラファーガを見上げると、見下ろして来た彼と目が合った。

「導師は、弱さを見せ周囲を不安にさせてはならないのだ。セフィーロは、人々の不安が魔物として具現化する世界なのだからな。不安が増幅すれば、取り返しがつかないことになる。この国は、人間の心次第で良くも悪くもなる。それは、『柱』制度があったころと変わらない」
「そう……よね」
 この国では、例えるなら一人ひとりがエメロード姫なのだ。一人の肩にかかる重圧は比べ物にならないほど軽いとはいえ、人々の心が一定の方向を向いてしまえば、その勢いを留めることはむずかしいだろう。
 でも、と海は思う。クレフが人々の心を一身に背負っているのなら、それは『柱』と何も変わらないのではないか?

「そんな不安そうな顔をするな、ウミ」ラファーガは、彼には珍しく笑顔を浮かべた。「なにはともあれ、あれほどの事態で誰も死人を出さずに済んだのだ。最悪の状況だが、我々は最善を尽くした」
「ええ」
 海がこくんと頷くのを見ると、ラファーガは視線を再び大地に戻した。
「フウがいたという場所はもう少しだ。―― ん?」
 目を凝らし、身を乗り出したラファーガに海は背後から近寄った。
「どうしたの?」
「あれは……」

 ラファーガが指差した方向を、海は目を凝らして見下ろした。そこは、森へと続く波打ち際だった。白い砂浜に、何かが投げ出されているのが小さく見えた。周りの砂浜はえぐられ、近くの木々は中途で無惨にへし折られている。二人の視線の先を察したグリフォンが、それを目がけて降下し始める。人間にしては巨大だが、明らかに人型をしている。白く光る腕がねじれて天を向き、突っ伏した顔は砂に埋もれている―― それが何か気づくに至って、海は思わず叫んだ。
「FTO! あれ、FTOだわ。イーグルが乗ってた……」
「FTOだと? しかし今は乗り手がいないはず」
「戦艦で保管されてて、ザズが大事に手入れしてたわ。あの戦艦は、ジェオやザズと一緒にオートザムに戻ったはずなのに。どうしてFTOだけあんなところに……」
 全身がねじれた姿に、ぞっと背筋が寒くなった。オートザムも被害は大きいはずだとクレフは昨日言っていた。オートザムから逃げ出してきたのだろうか? そして、この状態で乗り手が無事だとは、到底思えなかった。

 先に砂浜に降り立ったラファーガが、FTOに駆け寄った。そして、コックピットの部分を覗き込むと同時に、眉をひそめた。駆けつけた海の前に、掌をかざして止めた。
「近寄るな」
「え……」
「お前は見なくていい」
 どくん、と心臓が高鳴った。コックピットの蓋はしっかりと閉じられていたが、隙間から赤いものが流れ出し、蓋にこびりついているのを見てしまった。そのドス黒く濃い赤さは、人間の血に違いなかった。操縦席にいる誰かが、ひどい傷を負っていることは間違いない。生きていないかもしれない。人の死を見るのは怖かった。それでも目は釘付けになったように離れず、緊張と恐怖で体から力が抜けそうだった。

 ラファーガは、コックピットの蓋に手をやり、力づくで押し広げようとした。それが無理だと知ると剣を抜き、蓋の隙間に剣先を差しいれ、力を込めて押し広げた。剣がしなり、折れるかと冷やりとした時、バキッと音がして蓋が壊れた。ゆがんだ蓋を押し広げて、ラファーガが中を覗き込む。とほぼ同時に、うめき声が漏れた。
「……ザズ」
 海は、恐怖も忘れて駆け寄った。そして、ラファーガの逞しい腕に引き出された人物を覗き込む。

 それは間違いなく、青白い顔をしたザズだった。顔は綺麗なもので、血の跡は見えない。目を閉じ、ぴくりとも動かなかった。
「ザズ!」
 その名を呼び、揺り動かそうと背中に腕をまわした。すると、ぬるり、と手が滑った。その手を引き抜いてみると、海の手は真っ赤に染まっていた。
「お、医者さまを……」
 その場に座り込みそうになった膝を励まし、立ち上がる。腰を抜かしている場合ではない。目に浮かびそうになった涙をぐいと払う。泣いている場合でもないだろうと自分を叱咤した。こんな状態のザズを動かせない。グリフォンに乗って城に戻り、医者を呼んでくるほか方法はない。グリフォンに向かって走ろうとした時、その手首をラファーガが捕まえた。

「何よ! 急がなきゃ……」
 振り返った海に、ラファーガが首を横に振った。
「え……何よ。どういうこと……?」
 ラファーガはもう一度、首を振った。その時には、海は分かってしまった。今度こそ、力が全身から抜けて行く。ラファーガはザズに視線を落とした。
「残念だが。今、生きているのが不思議なくらいだ。医者を呼びに戻っても、まず間に合わない。それならばせめて、傍にいてやろう」
「……嘘」
 海は、ふらふらとラファーガの元に戻り、ザズの前に膝をついた。彼の息が浅く、ゆっくりと遅くなるのが分かった。妹に、セフィーロの大気を持ち帰ってやるんだと言っていた時の笑顔が思い出された。前に会った時は、元気だったのに。こんな数日で、こんなことになっているのがどうしても信じられなかった。

「ザズ……やめてよ。起きて」
 優しい笑顔で送り出してあげることなど、到底無理だった。死なないでほしかった。まだ命はここにあるのに、どうしたら留められるのか分からない。ここに風がいたら、と思った。彼女なら瀕死の重傷でも癒せるかもしれない。偽物でも何でもいい、ここに現れてくれたらと祈ったが、不可能なことは分かっていた。
「クレフ……」
 最後に口をついて出たのは、最も信頼する者の名前だった。クレフに治癒能力があるとは聞かないが、海の知る限り、彼に不可能はないように思えた。クレフ、の名前に反応したのか、グリフォンが高い声で鳴いた。何度も、何度も鳴いた。その悲痛な鳴き声が、山々を渡ってゆく。

 その鳴き声に、甲高いもう一つの声が返した。フューラの声だ。はっ、と海が顔を上げると、弾丸のようなスピードでこちらに駆けて来る青い影が視線に止まった。
「フューラ!」
 フューラがこれほどのスピードで飛ぶことができるとは、夢にも思わなかった。フューラは勢い余ったのか、体をひるがえして浅瀬に飛び込んだ。一瞬前に、その背中から素早く影が落ちた。
「クレフ!」
 涙声で海が呼んだ時には、足音も立てず砂浜に飛び降りたクレフの視線は、ザズとFTOに向けられていた。
「ザズ……!」
 クレフは顔色を変えて駆けよると、ザズの前に膝をついた。その小さな手をザズの頬に添えたが、ザズはぴくりとも動かなかった。
「導師クレフ、よくいらっしゃいました。ザズが……」
「前置きはいい。何があった」
 クレフは口早に遮ると、いつにない険しい表情でラファーガを見返した。
「意識はまったくないようです。このFTOでここに辿りついたらしいのですが、私達が見つけた時には、浜辺に打ち上げられていました」
「……オートザムから、FTOを駆りやってきたのか。タイミングにもよるが、あの衝撃波に巻き込まれた可能性が高いな。ひとつの国でさえダメージを受けた状態だ。一体のマシンには計り知れない衝撃だっただろう」
 ラファーガがこくりと頷いた。そして彼が続けた言葉に、海はぞっと立ちすくんだ。背骨の損傷、多臓器の破裂、そして体中の創傷。怪我に詳しくない海にも、それが手の尽くしようがない重傷だということは分かった。

「ねえクレフ。ザズを助けられないの……?」
 海の言葉に、クレフは振り返った。その白い顔が、いつもより増して青白く見える。唇を噛みしめ、言おうとした言葉をためらっているようにも見えた。クレフなら、いつものように「大丈夫だ」と言ってくれると思っていた。でも、彼は無言のままだった。海はクレフの後ろにしゃがみこみ、その小さな肩に額を寄せた。
「ねえ……」
「……私には治癒能力はないのだ。幼いころはあったが、もう遠い昔のこと」
「そんな……」
 いつもクレフにばかり頼ってはいけないと思っていても、目の前の死を前にして、何も手段が思いつかなかった。海が涙に濡れた顔を上げると、クレフは瞑目していた。

 やがて彼は、杖をまっすぐに立てて立ち上がった。
「……決して人前で使ってはならぬと、教えられたのだが」
 その呟きは、海には痛みをこらえているかのように聞こえた。
「……え?」
 何を、そして誰に。海が尋ねようとした時、クレフは杖を握る手に力を込め、上に掲げた。それと同時に、杖の宝玉の色が黒に変わっていた。いつも青に輝いている色が黒になると、杖自体が別物になったように違和感があった。石の色が変わると同時に、つむじ風が巻き起こる。海とラファーガは、吹きつけた砂から腕で顔を庇った。
「なんなの……?」
 旋風が止んだのを確かめると、海は両腕の間から前を窺った。そして、目の前に立っている見慣れた人物を見て、息を飲んだ。

「風……?」
 栗色のウェーブがかった髪が、肩のあたりで揺れている。優しげなブラウンの瞳、大ぶりの眼鏡。それはどう見ても風に違いなかった。しかし同時に、海が知っている風では「ありえなかった」。なぜなら、現れた彼女は中学生のころの制服を身につけていたし、明らかに14歳の面差しだったからだ。17歳になった彼女は高校生の制服をまとい外見はぐっと大人びている。
 「風」は、動揺を隠しきれない海を見上げて、にっこりと微笑んだ。その微笑み方、気配は完全に風のもので、海は激しく混乱した。

「……『フウ』」
 クレフは彼女をそう呼んだ。「風」はクレフに向き直る。そしてザズに視線をやった時、その優しい眉が寄せられた。ラファーガに抱かれたザズに歩み寄ると、さっきクレフがしていたのと同じように、頬に手をやった。そして、間違えようのない風の声で、力ある言葉を唱えた。
「……『癒しの風』」
 静かな言葉と同時に、爽やかな一陣の風がその場を包み込んだ。ザズを間近で見守っていたラファーガが、「おぉ」と声を上げる。背中をべっとりと濡らしていた血が一瞬のうちに消え去り、少し遅れてザズの頬に赤みが差してきた。その旋風がなぎ倒されていた木々の葉を揺らすと同時に、木々が再びしゃんと上を向く。折れた幹からぐんぐん枝が伸び、青々とした葉を茂らせるのを見て、海は目を疑った。
 ラファーガから聞いた、「風」の目撃談を思い出していた。それによると、「風」にそっくりな人物は、傷ついた木々をも癒す力を持っていたという。その話とまったく同じだ―― しかし風には、そのような力まではなかったはずだ。

 クレフは、ザズが息をしっかりし始めたのを見届けると、ほっと息をついた。
「ありがとう、『フウ』」
「いいえ」
 「風」は、ふるる、と首を横に振った。そして、スッとクレフに向かって膝を折り、頭を下げた。その直後、風の姿は一瞬で掻き消えた。
後には、クレフと海とラファーガ、そして意識を失ったままのザズが残された。「風」の気配の残像のように、一陣の風が吹き抜けてゆく。
「ど、どういうことなの……?」
 海は混乱していた。今目にしたことが、夢のようにしか思えなかった。ラファーガも同じだったらしく、問うような視線をクレフに向けている。クレフはわずかに息をついた。
「後で説明しよう。ザズを城に運ぶのが先だ」



* last update:2013/7/28