風とフェリオがセフィーロ城に戻って来た時、まだ日は天頂から少し傾いたところだった。波打ち際で、セフィーロとチゼータの子供たちが入り混じって遊んでいるのを見て、風は思わず微笑んだ。チゼータの子供たちが、寄せては返す波から逃げたり追いかけたりする姿は、肌の色が違っているだけで、セフィーロの子供と変わりない。
「なんやこの海! すっごい深いで」
「え、ここは波打ち際だよ? まだ。本当の海はもっともっと深いよ」
「えー、なんでやの?」
「なぜって言われても……どうしてもだよ」
 子供たちの噛みあわない会話が聞こえてくる。どうやらチゼータの海は、セフィーロよりもよほど浅いらしい。

「大丈夫でしょうか、子供たちだけで……」
「心配ないさ、あっちにプレセアとカルディナがいるから」
 フェリオが指差した方を見ると、確かに見慣れた二人が、海からほど近い木の下で話していた。
「ちょい、あんたら! あんまり深い方行ったらあかんで!」
 二人だけの会話に夢中になっているようでいて、ちゃんと子供たちのほうも見ている。声を張り上げている姿は、数日前まで寝込むほど元気をなくしていたのと同一人物とは思えない。帰れる故郷を無くしたことに一時は絶望したものの、身内や友人と大勢再会する中で、見た目は元気を取り戻していた。今は、チゼータの人々がセフィーロに馴染めるようにすることが自分の役割だと、自覚しているように見えた。
「玉座の間に行こう。今日会った魔物のことをお伝えしないとな」
「ええ」
 当たり前のように答えて、ふと風は違和感をもった。唐突に、今自分が当たり前のようにセフィーロにいることに思い当ったからだ。
もう、セフィーロに来て二週間近くになる。どれほどセフィーロで過ごしても、東京で経過している時間は数秒程度らしいから問題はないのだが、いつの間にかセフィーロを「この世界」、東京を「あの世界」と考えるようになっている。本来なら東京が、自分にとっての第一の世界のはずなのに。こうやって、少しずつ東京を忘れて行ったら……その時、風は妙に背中が寒いような気持ちになった。


***


 玉座の前に行く途中で、フェリオはイーグルの寝室に立ち寄った。どうやらこれはフェリオの習慣らしく、通りすがる時にはいつもイーグルに一声かけて、何か頼みごとはないか聞いているようだ。
「イーグル! 元気か?」
「はい、元気に寝ていますよ」
 フェリオが声をかけると、イーグルはいつものようにベッドから返事を寄こした。ベッドの上半身の部分が、ほんの少しだけ起こされている。両手の指をゆったりと組み合わせている姿は、今眼を開けてもおかしくないように思えた。イーグルの隣のべッドには、眠り続けるザズの姿があった。

 風は、笑顔を見せるフェリオとイーグルの横顔を見つめた。二人とも、王家に生まれた、ただ一人の男性という立場が共通しているが、受ける印象が全く違う。フェリオは剣を手に森を駆けまわる姿が似合うが、イーグルは静かに読書している姿が似合う。その上、かつては攻められる側と攻める側という真逆の立場にいた二人だが、意外と気が合うらしくよく長話をしていた。年齢はイーグルの方が上だが、話している様子は対等に見える。やはり、王の子供という立場が同じ分、分かり合う部分があるのだろうか。

 静かに寝息を立てているザズに視線を移す。体に傷はないのに、4日間も目が醒めないなんて、一体何があったんだろう。これ以上起きないのは、本人の栄養状態を考えてもよくない。無理にでも起こしたほうがいいのではないか、と思った時、そよ風が庭から吹いてきた。暖かなその風は、桜に似た花びらを運んできた。ちらほらと散る花びらのうち一枚が、ザズの頬にハラリと落ちた。その、少し日焼けした頬を滑り、音もなく枕元に落ちる。

 その途端、ザズが両目をカッと見開いて、全身に電流でも流されたかのように跳ね起きた。
「FTOは!?」
 開口一番、そう叫んだ彼の首筋に、脈がどくん、どくんと波打っているのが見えた。一番傍にいた風が思わず飛び退くほどの大声だった。フェリオものけぞったが、慌てて風の肩を受け止める。そして、ザズに向き直った。
「ようやく起きたか。よかった無事で――」
「FTOは! いや、違う。今日は一体、何日だ? あれから、何日経ったんだ」
 肩が揺れるほど息が荒いのは、寝たきりの状態から急に起き上がったためだけではないだろう。見る見る間に顔が青ざめるのが分かった。
「ザズ」
 その時、その場に響いた静かな声に、ザズはぴたりと動きを止めた。
「FTOは大破していますが、あなたなら直せると思いますよ。今セフィーロ城に収容されています。今日は5月2日、チゼータ受難から4日経過しています」
 ザズは血走った眼で、イーグルを見下ろした。そして、いつもと変わらず穏やかな表情で目を閉じている彼を数秒間見つめ、やがて大きなため息を漏らした。
「……俺、あんなにイーグルがいてくれればと思ったの、初めてだった」
「何があったんです。ジェオは」
「分からないんだ。俺ひとり、逃げるので精いっぱいだった」
 ザズの顔がゆがみ、苦しげに俯くのを、皆成す術なく見守った。続いたザズの言葉は、その場の全員の心を凍らせるに十分なものだった。
「ごめん。何もできなかった……オートザムが、セフィーロに攻めてくる。もう、時間がない」


***


 「オートザムが、あと11日で滅亡するってのか……まさか、そんなことになってたとは」
 ザズの話を聞き終わったフェリオが、そこまで言って絶句した。
「でも。だからと言って、どうして12艦もの戦艦でセフィーロを襲う必要があるんですの? 全てのエネルギーを自国の維持に集中させて、他国の協力を仰ぐならとにかく、理由が分かりませんわ。チゼータもこんな状態なのに……」
 そう言いながらも風は、自分が来た世界に思いを馳せずにはいられなかった。追い詰められた国が他国に助けを求め、他国が助けるような理想郷であれば、風のいる世界で戦争は起きていない。そして理想郷ではないのは、この世界でも同じだ。

 また、戦争が起こってしまうのか。そうなればどうなるのか、混乱する頭の片隅で、冷静に計算する自分がいた。他国の助けは期待できない―― チゼータは言わずもがな、ファーレンも内戦で苦しんでいる。かつてのセフィーロはオートザムと互角に戦いその侵略を防いだが、それは魔神の力によるところが大きい。今、戦艦はもちろん魔神の一体も持たないセフィーロが、オートザムの戦艦と戦えるとは思えなかった。
―― せめて、『禁術』をクレフさんが使えば……
 例えば、ザガートのように魔神を生み出せる力がある者がいれば、状況が変わる可能性はある。生身のザガートはセフィーロを裏切ったが、『コピー体』であればクレフの意志のままに動かすことができる―― 
「フウ?」
 怪訝そうにフェリオに覗きこまれ、風はびくんと肩を揺らせた。
―― 私は、一体何を考えていたの?
 人を、死者を、まるで道具のように考えていなかったか。『禁術』は人に対する冒涜だ、とクレフが強い口調で言っていたのを思い出した。二度と、禁術は使わないと。少なくともクレフは、人を傷つけるために『禁術』を使うことは決してしない。それは、風には確信に近かった。

「……オートザムからセフィーロへは、戦艦だと一週間です。戦艦が到着するまで、あと三日。前後にぶれる可能性も否定できませんが」
 フェリオとザズが同時に呻いた。風は唇を噛んだ。ここには、イーグルもいると言うのに、父親であるという大統領は何も思わないのだろうか? 目の前にイーグルがいるのに、それを口にすることはできなかった。
 ここで、感情に流されてはいけない。風は強いて頭を切り替え、イーグルとザズを交互に見ながら問いかけた。
「この状況で、国の存続を目的としない行動をするとは思えませんわ。オートザムの目的は何だと思われますか?」

 ザズは、操縦している時のことを思い出しているかのように、自分の両手を見下ろしながら口を開いた。
「あの日、先に下船したジェオからの連絡が待っても来なくて、何かあったかと思った直後に、軍人達が乗り込んできて戦艦を占拠し始めたんだ。俺はFTOで船を離れたけど、通信機は生きてて、軍に流れてる情報はだだ漏れだった。……どうして今、セフィーロを侵攻するのか、その理由も聞いた。セフィーロにはオートザムが当分暮らしていけるだけの『精神エネルギー』がある。それを奪うほかにオートザムが生き延びる術はないって。軍は、必死になっているんだ。『セフィーロで最高位の魔導師、導師クレフを拘束せよ』。それがオートザム軍に下された指示だった」
 がたん、とドアの所から音がして、皆ドアの方を振り向いた。風もびくりと肩が震えた。それほどザズの話に集中していたのだ。皆の視線の先には、怯えた眼をした少女が立ちすくんでいた。
「……海さん」
 海は風の言葉にも答えず、ドアの取っ手にすがるようにつかまっている。その背後から、見慣れた杖が覗いた。
「……クレフさん、ラファーガさん……」
 今のザズの言葉が耳に入ったのは間違いないだろう。青ざめた海と、険しい顔をしたラファーガの間に挟まれ、クレフはただ一人、落ちついた顔でその場に立っていた。




* last update:2013/8/3