甘やかな花の香りが、どこからか漂ってくる。どこか懐かしい香りだ、と思って、イーグルは心中苦笑した。花の香りを、懐かしいなどと思うのはおかしい。イーグルが生まれたころにはもうオートザムの大気汚染は末期まで進んでいて、花どころか草の一本もなかったからだ。もしかしたら、母親のにおいに似ているのかもしれない。
 今度は微笑まずに、目を開いた。

―― また、戻って来たのか。
 目を開ける前から、すでに気づいてはいた。イーグルが「ロザリオ」という女性と出会ったこの崖を目にするのは、もう三度目だった。二度目に見た時は、眼下に広がる荒野に膝が震えたものだが、今目の前にある景色は、一度目の夢に似ていた。白い崖の向こうには、きっぱりと青い空が広がっていた。やはり、ランティスの瞳の色によく似ている、と親友の顔を思い浮かべた。崖の周辺には緑が広がり、色とりどりの花が咲いていた。一体彼女は、今度の夢の中ではどうなってしまっているのだろう。人物のいない人物画のように、落ちつかないものを感じた。


 あははは、と子供の笑い声が響いてイーグルは驚いた。一瞬、一度目の夢に現れた、幼いロザリオが再び現れたのかと思ったからだ。しかし、イーグルの足元を走り抜けたのは、茶色と黒色の髪をした男の子だった。イーグルの腰より低いから、まだ5・6歳くらいのものだろう。イーグルの足に触れるくらいの距離を通ったのに、全くイーグルに気づいていない。この子供たちは、いつもの他の夢に現れる登場人物たちと同じように、イーグルを見ることはできないのだろう。

 その時、かすかに誰かが息をついた。ほんのかすかな、向かいあっていなければ気づかないほどの吐息だったのに、イーグルははっきりとその音を聞いた。女性のどこか甘い息を感じたような気もした。鼓動がどくん、と高鳴り、イーグルはそちらを振り向いた。

 花が咲き乱れる中にぽつんと残された、椅子くらいの大きさの岩に、一人の女性が腰掛けていた。イーグルに向けた背中には、銀色の髪が波打っている。ほっそりと体に添う形の白いロングドレスを纏っていた。裾が広がり、その足元を隠していた。

「―― 導師ロザリオ」

 ゆっくりと、イーグルは歩み寄った。彼女の後ろ姿は透けそうに儚く見えた。どうしてこんなに胸が痛いのか、分からなかった。
 肩越しに振り返った彼女を見て、おや、と意外の感に打たれる。ロザリオには間違いなかった。しかし、前回のような、ぐさりと相手を差し貫いて来るような強い光はもうなかった。もちろん、初めて会った時の少女のような無邪気さもない。目元はほんの少し下がり、口元も前のようにきっぱり引き結ばれてはいない。穏やかな表情と言ってよかった。オートザムで考えれば、30代の半ばくらいかと思われた。
 
 前回会った時は10代後半に見えたから、あれから更に年月が流れたのだろう。オートザムでは10年でも、セフィーロにとってはそうではあるまい。何より、彼女の背後に広がる自然の豊かさが、前回の荒れ地の時代から、長い時間が流れたことを示していた。美しい、と思った。この自然もロザリオも、無邪気な時代と戦争を潜り抜けて来たのだ。この光景は、一度目よりも、二度目よりもずっと美しい。やっと完成された絵画を見たように思った。

「おまえか。……また、来たのか」
 その声音は、外見と同じようにやはり穏やかで、ゆったりとしていた。何が彼女をこんなに変えたのだろう。彼女は、イーグルに向き直り、続けた。
「もう、この世界で会うのは最後になろう」
「なぜですか?」
「私は遠くない未来に、この世を去るからだ」
 喉が詰まったように、とっさに声がでなかった。改めて、目の前の美しい人を見やる。同時に、クレフを思い出した。正確には、「導師ロザリオ」の名前を出した時の、クレフのあらわな動揺が頭をよぎっていた。どうしてその名前を知っているのだと詰問しかけて、クレフは結局言葉を切った。そして、逃げるようにその場を去ったのだ。イーグルが知る限り、そんな態度をクレフが取るのは初めてだった。

「あなたに、一体これから、何が起こるというのですか」
「……これは『導師』である者誰にでも訪れる『宿命』。導師になったその日に、分かっていることだ」
「『導師とは、すべからく罪を背負う者』」
 ロザリオは、初めて表情に驚きを乗せた。イーグルはゆっくりと続けた。
「僕の知る世界の『導師』の言葉です。彼は、誰にも『導師』を引き継ぐつもりはないと言った。自分の代で終わらせると」
 ロザリオは、痛みを堪えるかのように固まった。

 まただ、とイーグルは思った。クレフも、導師が引き継がれる時に何が起こるのかは答えようとしなかった。人の心は分からない、とクレフは言ったが、確かにその通りだとイーグルは思った。すぐ目の前にいても、その心の中に何が映っているのかは分からない。ただし、これだけは推測できる。ロザリオの名前を聞いたときのクレフの反応、そして今、クレフの言葉を口にした時のロザリオの反応からして、二人は互いの存在をよく知っている。ロザリオは、クレフの直接の師―― 先代の『導師』だろう。

 いつ、目が覚めてしまうか分からない。一体、どこから話していいのか、言葉が出て来なかった。イーグルがつかの間ためらった時、ロザリオの背後の茂みががさがさと動いた。
「かあさまー!」
 無邪気な高い声が響き、現れた子供がロザリオの膝に飛びついた。子供の銀髪を、彼女がゆっくりと撫でてやっている。その優しい手つきを見て、どうして彼女の雰囲気がこれほど変わったのか、イーグルは理解した。
―― そうか。母親になったのか。

 その時、ロザリオがふとイーグルを見やった。
「初めて会った時、おまえは私のことを『導師クレフ』と呼んだか」
「……ええ」
 ロザリオにとっては遥か昔のことのはずなのに、よく覚えている、と驚きながらイーグルは頷いた。
「―― そうか」ロザリオは、どこか淋しげな笑みを唇に乗せた。「やっと分かった。おまえが一体、どこから来たのか」
「導師ロザリオ、あなたは――」
「私も同じだ。本当は、私が『最後の導師』になるつもりだったのに。歴史は、繰り返されるのか」
「……。どういうことですか」
 声が柄にもなく上ずりそうになる。
 クレフの言葉が、はっきりと頭に蘇っていた。どうして二人とも、同じことを口にする? まるで、延々とループする画像を見せられているようだ。

「クレフは、僕が今いる世界の『導師』です。『導師』とは罪深いものだとおっしゃったのも彼です。あなたは、その理由を知っているのですか」
「それを知って、どうするつもりだ」
 ロザリオが視線を険しくする。鎧をまとっていたころの眼光が一瞬で戻っていた。この人は、おそらくこの世界で最も強い人なのだ。もし危害を加えるつもりなら、イーグルにはどうすることもできないだろう。イーグルは意を決して、ロザリオを向き合った。

「導師クレフは、心の底に誰にも言えない苦しみを抱え続けている。僕にはそんな気がしてならないんです。僕は彼を助けたい」
「しかしおまえは、今不治の病に冒されている。今のままでは、いずれ目を覚ましても、四肢の回復には至らない。一生ベッドから、身を起こすことすらできないだろう」
 その言葉は、まるで錐のようにイーグルの心を差し貫いた。ロザリオが本当のことを口にしているのが分かったからだ。いつか目を覚ます、そして以前のように動けるようになりたい。その兆しが見えていると思っていただけに、胸に穴がぽっかり開いたような虚しさが襲った。
「それでも」イーグルは自らを奮い立たせるように口を開いた。「それでも、僕は自分のできることをしたい」
「どうしてだ」
 ロザリオの瞳は真剣だった。イーグルはそっと微笑んだ。
「理由なんかありませんよ。僕はただ、導師クレフのことが好きなんです。それだけのことです」

 ロザリオはつかの間、黙っていた。しかしイーグルをまっすぐに見つめたままだった。やがて、彼女は子供の肩に手を置いた。
「ここへ来なさい」
「はい、かあさま」
 まだ、5歳程度だろうか。無邪気な笑みは、幼いころのロザリオをほうふつとさせた。ちょこんと立っている姿は、イーグルの微笑みを誘った。青い目まで、母親と瓜二つだった。瑞々しい、葉の先にたまった朝露のような印象があった。子供は、ふとイーグルを見やった。その視線がまっすぐに彼を捉えたのに気づいても、イーグルはもう驚かなかった。

「お兄ちゃんは、誰?」
「僕は、イーグルと言います」
 丁寧に名乗ると、子供は心配そうな顔をしてイーグルに近寄ってきた。
「病気なの?」
 目が合って数秒だというのに、いきなり見抜いた『力』はやはり、母親譲りなのだろう。
「ええ、ずっと目が覚めないんです」
 どこかで交わしたような会話だと思った。
 ―― そうだ。まだ少女だったロザリオとの会話と同じだ。
 既視感で頭がぐらぐらした。

 ロザリオの声が背後から聞こえた。
「おまえの『再生能力』は特別なものだ。……もう、その男は目覚めてもいいころだ。治してやりなさい」
 ハイ、と子供は元気に頷いた。そして、そっとイーグルの目に、その小さな手を当てた。
「君は――」
「もう目覚めるよ。ほら」
 真っ暗になった視界の向こうで、子供の声が聞こえた。それきり、景色はぐるりと暗転した。夢が終わってしまう―― イーグルはもうろうとする意識の中で手を伸ばしたが、その指先は空を切った。


***


 目を開けて、初めに視界に映ったのは、薄暗い室内だった。また別の夢の中に入り込んだのかもしれない。頭は、さっきの夢の中よりもずっとぼんやりしていて、ずっしりと重い。ぼやけた焦点が周囲をさまよい、目の前の子どもに合うにいたって、やっぱり夢だと思った。それは、さっきの子供に違いなかった。しかし、ロザリオの姿はどこにもない。

 子供の銀髪が、夜の部屋の中で鈍い輝きを放っている。その細く繊細な顎の輪郭を、外からの夜の光が縁取っていた。子供は、ベッドサイドの椅子に腰かけ、月の柔い光で本を読んでいるようだった。改めて見ると、子供の様子が違っていることにすぐに気づいた。顔は同じだが、さっきの夢よりも姿が成長している。その視線はさっきのロザリオのように大人びていて、頭には宝玉を戴いていた。

 また次の「夢」か、とイーグルは考えた。これは、さっきの夢よりもさらに後の世界なのだろう。ロザリオは死に、子供は成長した――もう、ロザリオはどこにもいないのか。胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになり、イーグルは身を起こそうとした。しかし体は鉛のように重く、上がったはずの腕はあまりの重みにすぐにベッドに落ちた。

 その音に、はっ、と子供が振り返った。イーグルに視線を向けたとたん、読んでいた本がその膝から転がり落ちた。
「目が覚めたのか、イーグル」
「―― え?」
 この声。混乱するイーグルをよそに、『子供』は早口に続けた。
「私が分かるか?」
 その瞬間、イーグルには全てが分かった。

 しばらく間を開けて、イーグルは答えた。
「ええ。分かりますよ。『導師クレフ』」



第五章 完




* last update:2013/8/3