ふと見上げると、雨上がりの空には二重に虹がかかっていた。
 クレフは精一杯つま先立ちしながら、その美しさに見とれていた。一体どうすれば、空に七色の橋が架かるのだろう。どこから現れて、どこへ行くのだろう。今すぐ向かえば、橋の根元が見られるだろうか。クレフの足ではどうすることもできないが、最近創りだした「あれ」の脚なら行けるかもしれない。

「クレフ。何をぼんやりしている」
 上から声が落ちてきて、クレフは視線を虹から逸らした。ロザリオが無表情で、振り返った肩越しに彼を見下ろしていた。
「虹を見てたんだ」
 ありのままを伝えると、ロザリオはため息をついた。
 
 母は、笑わない。物ごころついたばかりの時、クレフは母のことを、よく笑う周りの人々とは別の生き物なのだと思っていた。それほどにロザリオはいつも表情を変えない。でも決して、冷たくはない。母と接している時の気持ちは、人間というよりも、自然と相対している時の気持ちに似ていた。例えるなら、今架かっている虹のように。美しいと讃える人はいても、自分に反応してくれないからと不満を言う人は誰もいないのと同じだ。
 「導師」という特別な立場が、彼女を生き物でないように見せているのかもしれない。彼女の桜色の唇が言葉を紡いだ。

「急ぎなさい。今日は初めておまえが『柱』に謁見する日だというのに、お待たせするつもりか」
 クレフは唇をへの字に曲げながらも、黙って母親の後ろに従った。さっぱりとした夏の日で、日ざしは強いが風は涼しく、波打ち際で遊んだら最高の一日なのに、と心中ため息をついていた。どうやら今日は一日中、堅苦しい城にいなければならないらしい。初めて袖を通した魔導師用の服も、やたら布地ばかり多くて動きづらかった。クレフは躓きながらも、懸命に歩いた。
「ねえ、かあさま。どうして『柱』っていうの?」
 ずっと疑問に思っていたことを尋ねると、ロザリオは前を向いたまま答えた。
「柱のない家は、壊れてしまうだろう。全てを支えるもの、という意味だ」そして、わずかに声を低めて続けた。「人柱、という意味もあるだろうな」
「ひとばしら……?」
「いずれ分かる」ロザリオはさばさばした口調でクレフの疑問を断ち切った。「セフィーロの全てを創り上げているのが『柱』なのだ」
「偉い人だから、言うことを聞くの?」
 そう問うと、ロザリオは振り返った。青い目がクレフを射た。
「そうではない。私は、『約束』したのだ」
「『約束』……かあさまが『柱』と?」
「ああ」ロザリオは頷いた。「約束などするものではないぞ、クレフ。私たちはたった一つの『約束』のために、全てを捨てた」
「……僕は?」
 クレフは一言だけ、遠慮がちに尋ねた。全てを捨てた、という飾り気のない言葉が、クレフの心をぐさりと貫いていた。それならば、クレフよりもその『約束』とやらが大切なのだろうか。母が急に遠のいたような気がして、歩調が緩んだ。そしてまた躓いた時、手を掴まれた。見上げると、前を行くロザリオの銀髪が目に映った。きらきらと光ってとてもきれいだと思う。同じ銀色でも、クレフの髪は逆立つほど固く、ロザリオの髪はやわらかい。
 母と手をつなぐのは久しぶりだった。まだ幼かったクレフはただ、先を行く背中を追い掛けていた。


 セフィーロ城は、いつもどこからか水の音がしている。滝や泉や小川、湖に川。城の傍には海が広がっている。よほど水が好きな『柱』なのかな、とクレフは思った。それか、異常な暑がりか。ただ、『柱』なら天候も自由自在。暑いと思えば涼しくできるのだろから、やはり夏が好きなのだろう。城に足を踏み入れた二人を初めに出迎えたのは、ゆったりとしたローブに身を包んだ、まだ若い男だった。穏やかなブラウンの髪と目をしていて、優しそうな印象だった。
「導師ロザリオ。ようこそいらっしゃいました」
 ロザリオと目が合うと、頭を深く下げた。頭を下げた時、神官とクレフの目がぶつかった。
「その御子が、類稀な力を持つというあなたのご子息ですか。なるほど、あなたにそっくりですね」
「遊んでばかりで到底駄目だ」
 ロザリオにばっさり切り捨てられて、クレフは頬を膨らませた。確かに遊んでいるが、夜は机に向かっている。……向かう日もある、と言い直すべきかもしれないが。神官はにこりと笑った。
「隠しても駄目ですよ、導師。皆、その御子のことを噂しています。……あなたから『導師』を継ぐのは、息子のクレフに違いないと」
「馬鹿な」
 ロザリオは吐き捨てた。その言い方の思いがけない強さに、神官は驚いたように目を見開いた。ロザリオも、自分の言葉に驚いたように一瞬言葉を止め、「すまない」と表情をわずかに和らげ、首を横に振った。

「そんなことより、『柱』が息子に会いたいと仰せだ。本日の予定だったのだが、おられるか」
「おられますよ」神官は肩をすくめた。「このセフィーロのどこかに」
「……またか」
 ロザリオは驚いた風にも見えず、クレフはその態度に驚いた。つまり『柱』は行方不明ということだろうか。セフィーロの主である『柱』が家出するなんて、セフィーロ城はそんなに居心地がよくないのか?


 神官とロザリオが、『柱』がどこに行ったのか話している最中に、クレフはその場から脱け出した。セフィーロで一番偉い人である『柱』がいなくなるのだから、ただの子供であるクレフがいなくなっても大したことではない、という自分なりの屁理屈をつけていた。どうせなら、海へ行こう。セフィーロ城の近くにある砂浜は真っ白で、それは美しいと聞いていた。庭を横切り、小川を飛び越えたところで、小川の近くで草を食んでいた白馬に、クレフの視線は吸い寄せられた。
「ねぇ、『柱』ってどんなひと?」
 クレフが話しかけると、白馬はふと草を食むのを止めて、クレフを見下ろした。
『『柱』は強いよ。今までの歴代の『柱』の中で、一番強い『心』を持っている』
 白馬は、妙に抑揚のない、ゆっくりとした声で答えた。小川で水浴びをしていた青色の鳥が、囀りに混じって会話に加わる。
『うん、『柱』は強い。失礼をしたらいけないよ』
 鳥の声は甲高く、早口なので聞きとるのが難しかった。聞いているうちに不安になって、クレフは聞き返した。
「怖い人?」
『ううん』
 白馬と鳥は同時に返した。
『『柱』は優しいよ』
『『柱』は楽しい人だよ』
「わかった……ありがとう」
 クレフがお礼を言うと、馬はまた草を食み始め、鳥は水浴びを始めた。

 強くて、優しくて、楽しい。いったいどんな人なんだろう。堅苦しいのは嫌だ、と思っていた気持ちが、少しずつ変わっていくのを感じた。でも、海の誘惑も捨てがたい。ちらっと見たら、すぐにロザリオの元へ戻ろう。すでに気づいていて、また怒られるのは分かっていたけれど。

 
 砂浜に向かう歪曲した一本道を、クレフは息を切らしながら走った。両側から張り出した葉の先がちくちくと腕を刺したが、気にならなかった。青い煌きが、背の高い草の向こうにちらっと垣間見える。視界が突然開け、見渡す限りいっぱいに広がる真っ白な砂浜と青い海に、クレフは言葉も忘れて立ち止った。これほど白い白も、これほど青い青も、生まれて初めて見たように思った。砂浜はきらきらと輝き、岩陰に青い影を落としている。海は群青になり翡翠色に変わり、直後には薄青に転じたと思えばまた暗い色に落ちて行く。楽しそうに気まぐれに輝く波が、砂浜に何度も打ち寄せている。
「海が珍しいの?」
 急に後ろから声をかけられて、クレフはびくりと肩を揺らして振り返った。すっかり、誰もいないと思いこんでいた。探すまでもなく、白い岩に腰かけた少女と視線がぶつかった。

 少女と言っても、クレフよりはいくつも年上だった。少女というほど幼くもなく、大人の女性ほど成熟していない。小柄で細身で、つぶらな目をしていて、まるで小鹿のような印象だった。その髪は、セフィーロではめずらしい黒髪で、男の子のように短くしていた。袖の部分が広がっていて、胸の前で合わせるように出来ている、見覚えのない白い服を着ていた。大きなネックレスを首から下げている。真紅の長いスカートに似た服の下から、まっしろい素足が覗いていた。

「どこから来たの? ファーレン?」
 そう尋ねたのは、その髪や顔立ちは、ロザリオを訪れたことがあるファーレンの人々に似ていたからだ。服装も、同じではないがどこか似ているようだ。娘はクレフの質問に少し目を見開き、遠くの方角を見やった。
「ううん、ファーレンじゃないわ。ずっと、ずーっと、遠くよ」
「ずーっと、遠く?」
「うん」
 娘は幼い子供のように、こくりと頷いた。それだけで、なんだかこの娘のことがとても好きになりそうな気がして、クレフは背後の海のことも忘れて彼女に歩み寄った。

「君の名前は?」
 彼女の隣に腰を下ろしたとたん、そう聞かれた。クレフ、とだけ答えた。
「どう書くの?」
 続けて聞かれて、クレフは短い木の枝を砂の間から拾い、砂の上に「クレフ」とつづった。
「セフィーロの字って、可愛いね。絵みたい」
「お姉さんの名前は?」
「私はね」
 娘はクレフの手から枝を取った。砂の上に書かれていく複雑な模様に、クレフは目を見張った。
「これ、何? 絵?」
「これが私たちのコトバよ」
「何って読むの?」
「何かしら」
 悪戯っぽく娘は笑った。クレフは砂の上に書かれた文字をにらんだが、いくら見たところで分かるはずがなかった。セフィーロの言葉からすると、信じられないくらい画数が多い。よくこんな複雑な模様を書けるものだと思った。
「綺麗だね」
 思ったままを口にすると、娘は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑いだした。
「おもしろい子ね。教えてあげよっか? 私達のコトバ。そしたら、私の名前も分かるようになるよ」
 私達、とは一体誰を指すのだろう。そう思いながら、クレフはこくりと頷いた。魔法のように、この娘は不思議と人の心をとらえるらしい。

「じゃあ、初めはこの文字ね」
 楽しげに枝を握った娘は、ふと言葉を止めて背後を振り返った。そのまま、風の匂いを嗅ぐように顔を上げた。
「なに?」
「呼んでるわ。探してる」
「え?」
「どうやらあなたも、悪戯っ子みたいね」
 娘はふふっと笑うと、砂を払って立ちあがった。そして、クレフの手を取った。ロザリオのそれより小さく、細く、あたたかかった。

 娘の足は、城の方に向いている。セフィーロ城に戻るのだろか。つまらないな、と思った時、ふわりと足元が浮いた気がして軽くめまいがした。はっとして足を踏みしめた時、足は柔らかい砂浜ではなく、固い石畳についた。
「あ、あれ?」
 辺りを見回した途端、ロザリオと目があった。
「え?」
 つい一秒前まで砂浜にいたはずなのに、ロザリオと神官のいる、城の入口まで戻って来ていた。もちろん、自分で動いた記憶などない。くすり、とクレフの手を握った娘が笑った。まさかこの娘が、一瞬でこの城に移動したというのか。魔法を唱えたようにさえ見えなかったが――
「巫女。お手間をおかけしたようで、すまなかった」
 ロザリオが、娘に頭を下げるのをクレフは目を丸くして見守った。自分が知る限り、一度も他人に頭を下げたことがないこの母の態度は、クレフには軽いショックでさえあった。

「クレフ。まだ碌に挨拶もしていないのだろう、自己紹介をしなさい」
 ロザリオがクレフの頭に手を置いた。まさか、という気持ちが先に立ち、クレフはとっさに言葉が出て来なかった。娘はころころと笑った。
「いいのよ。もう自己紹介はしてもらったし。名前の書き方も教えてもらったわ」
 そして娘は、繋いだ手に力を入れた。
「はじめまして、クレフ。私はセフィーロの『柱』。ここでは、『巫女』と呼ばれてるわ。よろしくね」


* last update:2013/8/3