毎晩、クレフがいなくなる夢を見る。
そう言ったら、クレフはなんと返すだろう。海には、尋ねることができなかった――
夢のシーンはさまざまだった。でも今朝の夢は特にショックが大きかった。
「――!」
暗闇の中で大きく目を見開いたまま、しばらく身動きが取れなかった。動悸が激しく、頬を涙が伝っていた。海は上半身を力なく起こして、ベッドの柵に背中を持たせかけた。
「大丈夫。大丈夫……」
あれは、ただの夢なんだから実現するはずがない。口元を押さえたまま、何度も呟いた。
夢の中で海は、クレフを探していた。自室にも、玉座の間にも、お気に入りだった庭にもいない。朝食の時間になっても、クレフは現れない。それなのに皆、何事もなかったかのように談笑しているのだ。笑いのさざなみの中で海は戸惑い、二人の親友を見つめていた。
「ねぇ、光、風……?」
――「どうしたの、海ちゃん」
――「海さん、顔色が悪いですわよ」
屈託のない笑みを向けてくる二人は、クレフがいないことに全く気づいていないようだ。そこにプレセアとカルディナが入ってきた。クレフがいないテーブルに、当たり前のようについた姿を見て、海の焦燥は高まってゆく。
「プレセア、カルディナ……!」
――「あら、おはよう、ウミ」
――「おはようさん」
私だけがどうして、こんなに動揺しているの。私だけが立ち上がり、私だけが笑顔でなく、私だけが凍りついている。私だけが、
我慢ができなくなって、ついに海は口を開いた。
「……クレフは? クレフは、どこにいるの?」
――「「「「クレフ?」」」」
全員の声が、同時に響いた。そして、全員の視線が、同時に海に集まる。
――「クレフさんは、もういませんわ」
――「うん、もうずっと前から」
――「ウミ、あなたも知ってるはずでしょ?」
――「まだ受け入れられてへんのや、可哀想に」
どくん、どくん、と鼓動がどんどん早くなる。誰かが心配して手を伸ばしてきたが、海は振り払った。そして、何かを叫んだ。嫌、と言ったかもしれない。そしてテーブルを叩いて、思い切り泣いた。泣きながら、お前はとっくに知っていたはずだろう、という冷たい声を、自分の頭の中に聞いていた。
あれは、ただの夢だ。海はもう何度目か、自分に言い聞かせる。チゼータ滅亡をまのあたりにし、光が戻らないという異常事態だから、不安が夢と言う形をとって現れただけなのだ。息を整え、隣のベッドを見やる。そこでは風が、すやすやと寝息を立てていた。どうやら叫んだのは夢の中だけだったようだ、とほっとする。不意に、「クレフさんは、もういませんわ」と笑った風の顔を思いだし、表情が凍りつくのを感じた。
「……私」
海は、朝の薄明かりの中、掠れた声で呟いた。
海にとっての、「不安」を形にしたものがあの夢だというならば、自分はいったい何を恐れ、何を失いたくないのか。突然、はっきりとそれが分かったのだ。
海にとって一番大切なものは、少女のころは「家族」だった。自分に生まれながらにして与えられていた優しい親、温かな家庭。学校にいても、セフィーロにいても、帰る場所があって、迎えてくれる人がいることが、どれほど支えになっているか分からない。互いに愛し合っている両親の姿は海にとって理想だったし、大好きだった。
海がもし姿を消したら、二人は深く嘆き悲しむだろう。一生の間毎日、海を思い出してくれるだろう。でもきっと、二人で支え合って、生き続けることができる。
では、自分がクレフの前から姿を消したら? 海はそこまで考えて、ほろ苦く微笑んだ。クレフと出会って三年間、優しくされたり怒られたり、呆れられたりしてきたが、根底には教え子に対する温かさがあった。でもその温かさは、海だけに向けられるものではなかった。クレフにとって海は、千人もいるという教え子のひとりでしかないのだろう。海がいなくなっても、時折思い出してくれるだけかもしれない。そもそも文字通り住んでいる世界が違うのだから。
それでも。私はクレフを失ったら、何事もなかったかのように生きて行くことはできない。
頭で考えたわけではなく、直感のように閃いただけだ。どうしても、クレフは海にとって「失えない人間」なのだ。だからそばにいて、だから守れるようになりたかった。突然見つけ出した、自分だけの「願い」。「願い」の強さが世界の全てを決めるというなら、この「願い」だけは絶対にかなう。それは、祈るような気持ちだった。
もう、与えられた世界の中で生きる子供ではない。自分の世界を選び、大切な人を選び、自分の願いのために生きていきたい。
それなのに――クレフは海に、平和になったら異世界に帰れと言った。それが彼の「願い」だとまで口にした。海が無理をしていると、分かった上で、海のことを考えての言葉には違いない。でも本当は、海自身のことなどどうでもいいから「私の傍にいろ」と一言、言ってほしかった。ただそんなことを、クレフに告げられるはずもない。胸が、脈打つように痛くて苦しかった。
***
「どうしたのだ? ウミ。黙りこんで」
急に声をかけられて、海は両肩を跳ね上げた。クレフが、怪訝そうに海を振り返っていた。気づけば、城の入口まで来ていた。
「な、なんでもない」
海が首を振ると、「本当に大丈夫か」とあきれたように念を押された。クレフの手のぬくもりを、自分の手の中に感じる。この人はここにいるのだ、と穏やかに信じさせてくれる体温。
「だ、大丈夫よ」
こういうやり取りの度に、クレフと出会ったばかりの14歳の少女に戻ったような気持ちになってしまう。なぜか気まり悪くなり、海はクレフの手を離した。クレフは思いがけずにっこりと笑うと、視線を前に戻した。
セフィーロ城の中庭に入ったとたん、誰かの大声が耳に入った。
「おい、イーグル! まだ歩ける状態じゃないって言われてただろ! ったくもう」
海とクレフは顔を見合わせた。今、イーグルと言ったのか。目を覚まし、クレフからは「絶対安静」と言い渡されてから、まだ3日間しか経っていない。クレフは無言で、声がした方に足早に歩き出した。海よりも格段に背が低いのに、小走りにならないと追いつけない。
「イーグル、何をやっているのだ!」
一足先に、クレフが叱りつける声が聞こえた。海がようやく中庭に入って行くと、地面に座り込んだイーグルの姿と、その前に仁王立ちになったクレフの背中が見えた。ザズがイーグルにゆっくりと歩みよっている。
「歩いてみようと思って」
イーグルはにっこりと笑って答えた。だが、さすがにその息は荒く顔色は悪い。三年間寝たきりだったのだから、目を覚まして2・3日で歩けるほうがむしろおかしいと思う。
クレフも同じことを思ったらしく、怒っているというよりもあきれ顔だった。
「呆れたものだ。正直、私はお前がそう簡単に回復するとは思っていなかった。回復したとしても……」
「四肢の回復にはいたらない。ベッドから下りられないって言いたいんでしょう?」
イーグルが後を引きとった。クレフは押されたようにひとつ、頷く。
「よ、よく分かっているではないか。とにかく、今動けるのは奇跡なのだぞ」
「奇跡を起こしたのは僕じゃなくて、あなたなんですけどね……」
「……なんのことだ?」
クレフは首を傾げた。
「導師クレフは意外と抜けているんですね」
に っこりきっぱりそう言われて、クレフは一瞬引きつった。何か言おうとして口を開いた――が、その口から洩れたのはため息だった。そして、へたりこんだままのイーグルを見下ろす。と言っても二人の視線はそれほど変わらない。
「仕方のないやつだな。自分で歩いて部屋まで戻れるか?」
「いいえ、残念ながら」
やれやれ、と後ろからやってきたザズが手を貸した。
「しゃべるだけでも体力いるんだろ? 無茶するなって。よっこいしょっと……」
クレフが出現させた椅子に、何とかイーグルを座らせると、ザズは額の汗をぬぐった。考えてみればこちらも、体力はまだ回復していないのだ。
「大丈夫ですか?」
そこへ、しっとりと落ち着いた女性の声が聞こえた。振り返ると、タトラが庭に下りて来るところだった。その肩には、薄絹のショールをまとっている。その後ろにはタータの姿があった。服はチゼータにいたころと同じだったが、ショールの色合いは淡く、おそらくセフィーロのものだろう。タータは、セフィーロに来たばかりのころはひどく憔悴していたが、今はその目に力を取り戻してきている。腕に、分厚い本を抱えていた。
「……それが、例の古文書か」
クレフの声に、皆の視線が本に集中した。
「これが、オートザムがセフィーロを攻める元凶になるなんて」
本を抱えたタータの声は沈んでいた。
オートザムにもたらされ、オートザムがセフィーロを再侵攻する理由となったという、一冊の古文書。それが、チゼータが導師クレフに解読を頼もうとしていた古文書と同じだと聞いた時は、どういう偶然かと海も驚いた。しかし、オートザムに古文書を持ちこんだのも、チゼータにいたころからその本を気にしていたのも、「預言者」マスターナだと言う。とすれば、彼がそうなるように意図的に導いたと考えても不自然ではない。
クレフは本を手に取ると、ため息をついた。
「全く、あのマスターナという男には騙されたな。ただの軽薄な男だと思っていたが、演技だったとは」
「演技じゃない。軽薄なのは本当だ」
にべもなくタータが言った。タトラがくすくすと笑いだす。
「まあ、タータったら。けっこうマスターナのことがお気に入りなのよね」
「滅多なことを言うなや姉様!」
タータが大声を出し、タトラが笑い声を大きくする。以前の空気が少しずつ戻ってきつつあった。クレフが杖を掲げ、その場に人数分の椅子を出現させた。
「表紙の文字からして、全く読めないんだけど……」
海はクレフが腰掛けた椅子の後ろに立ち、本を見下ろした。表紙には、不思議な模様が描かれている。なんだか、星の形に似ていた。確か、五芒星、というものだった気がする。クレフは表紙に視線を落とし、しばらく無言でいた。不自然に思えたほどの沈黙が続いた後、彼はちらりと海を見上げた。
「当然だ。これは文字ではなく、絵だ。さらに言えば、この世界を示す紋章のようなものだ」
「そうなのですか? 知りませんでした」
「古いものだからな」
タトラが感心したように息をつき、クレフが返した。
「チゼータの古い言葉で書かれていると聞いていたが……」
タータが顎に指を置き、考え込むように言った。ザズが口を挟む。
「俺は、この本はオートザムの古い言葉で書かれているって、FTOの中で聞いたけどな」
「本当か? オートザムとチゼータの間に、共通言語などあったか?」
「実際、オートザムの科学者たちは解読したらしいし」
ううん、とタータは唸った。そして一同の視線がクレフに集まるまでに、それほど時間はかからなかった。
「お前も座れ、ウミ」
クレフは背後の海にそう言うと、膝の上に置いた本に手をやった。
* last update:2013/8/3