クレフの小さな手が器用に分厚いページを繰るのを、全員が息を詰めて見守っていた。正面に座っていた海からはクレフの表情がはっきり分かったが、彼の表情には何の反応もなかった。1ページにも見入ることなく、ざっと全体のページを確かめると、クレフは本をぱたんと閉じた。目を通していた時間は、1分もなかっただろう。
「……内容は、分からなかったんですか?」
 しびれを切らしたザズが尋ねた。クレフは、視線を本に落としたまま軽く首を横に振って否定した。
「逆だ。読むまでもない」
「どういうことなの?」
 海が尋ねると、クレフはその場にいる一人ひとりの顔を見やった。彼は、見慣れない貌をしていた。感情らしい感情が、浮かんでいないのだ。心の中で全く別のことを考えていて、上の空にように見えた。

「……これは、今から738年前に起こった戦争について書かれた本だ」
 そのままの表情で、クレフはぽつりと言った。
「738年……!」海は目を見張った。「じゃあ、クレフが10歳のころ?」
「そうなるな」クレフは他人ごとのように言った。「この本に書かれていることを、私は目の前で見た」
 となると、内容が分からないどころではなかったわけだ。クレフは小さく、口の中で唸った。そして本の最後のページをもう一度めくった。海も上半身を伸ばして覗きこんだが、本の書かれた年代や署名が残っているはずのそのページは真っ白だった。
「しかし、ここには全てが書かれているわけではない……これを書き残したのは誰だ?」
 当然、その言葉に返事ができる者がいるはずもなかった。しかしクレフは、何も書かれていないはずの白紙に視線を落したまま、動かない。その表情から、彼が深く心を動かされているのが分かった。

「……導師クレフ」
 静かな声に、クレフははっと顔を上げた。イーグルが、混じりけのない強い瞳でクレフを見ていた。三年ぶりに見る彼の色素の薄い瞳は、穏やかでありつつも相手が逃げるのを許さない圧力がある。
「話していただけますか」
 イーグルの瞳と、クレフの青い瞳がぶつかった。二人とも、強い心の持ち主だ。どちらも退かないのではないか、と思った時、クレフが不意に口を開いた。
「大きな戦争があった。そのために、国を問わず大勢の者が死んだ。セフィーロでも、当時の『柱』と『導師』の両方が犠牲となった」
「両方とも……?」
 海は耳を疑った。その役割の二人がいないということが、どれくらい致命的なことか考えるまでもない。『柱』が国の全てを創り支える「静」なら、導師は直接人々に働きかけて動かす「動」の存在だ。クレフは頷いて、続けた。
「当時の『柱』は『巫女』と呼ばれ、本名が公にされることは最後までなかった。『導師』の名は、ロザリオという」
「ロザリオ……」
 イーグルが声を上げた。クレフとザズが同時に彼を見た。
 
「知ってんのか、イーグル? ……なわけないよな」
 ザズが首を傾げたが、イーグルは返さず、クレフを見つめている。クレフは目を伏せた。
「導師ロザリオは、私の師だ」
 タータとタトラが顔を見合わせた。海も軽いショックを受けていた。
 738年前に実在したと言う、クレフの師。考えてみれば、クレフにしても生まれながら導師だった訳ではないだろうし、師がいて当然なのだが、どんな人物なのか想像もつかなかった。「ロザリオ」という名前からは、性別さえ分からない。海はクレフが言葉を継ぐのを待ったが、彼は黙ったままだった。イーグルは何か言いたそうに、口を開いた。でもすぐに閉じた。その態度が、海には妙に引っかかった。
「……イーグル?」
「いいえ、何でもありませんよ。ウミ」
 イーグルは静かに首を横に振った。

 一方、タータとタトラは顔を見合わせていた。
「私たちは、そんな戦争があったなどとは聞かされていない。導師が仰るのなら事実に違いないが、一体原因はなんだったのです?」
 タータは身を乗り出した。クレフはそんなタータとイーグルを交互に見た。そして、最後に視線が海に向けられた時、なぜか嫌な予感がした。
「魔法騎士であるお前には、全てを説明する必要はなさそうだな」
 クレフは、口元に微笑みを浮かべた。しかし海には、その笑顔がとても力なく見えた。
「『巫女』は、ヒカルと同じなのだ。先の『柱』が祈れなくなった時に、異世界から『魔法騎士』として召喚された。そして先の『柱』亡き後、試練を受けて次の『柱』となったのだ」
「魔法騎士……私たち以外にも、いたのね」
 海はそれ以上、とっさに言葉が出なかった。738年前といえば、西暦1300年代だ。日本はまだ室町時代だが、日本人であるとは限らない。
「彼女は、歴代の『柱』の中でも最も強い『心』の持ち主だったと言われている。たった一人、魔法騎士として召喚され、一人で先の『柱』を崩御させた。もう、元の世界へ戻る彼女を誰も止められないはずだった。しかし、彼女は罪悪感を持った。『柱』を殺した自分を、許せなかったのだ。その償いに、彼女は崩壊しかけたセフィーロの『柱』になると決意した」
「……そんな」
 海は、身体が強張るのを感じた。少しずつ薄らいできていたあの強烈な体験が、クレフの一言一言で蘇って来るようだった。エメロード姫を貫いた手の感覚を思い出し、吐き気さえおぼえた。

 きっと、その『巫女』と呼ばれた人も、同じ苦しみを味わったのだろう。海たちは三人いたからこそ悩みを共有し、共に乗り越えることができたが、その人はたった一人で、あの気持ちと戦って乗り越えたのか。それだけで、十分心が強い人なのだろうと思った。そして、その人は逃げずに罪悪感と向き合った。そうでなければ、『柱』の過酷さを誰よりも知っていながら、『柱』の重責を背負おうなどとは思わなかっただろう。

「その人は、元いた世界に家族も友達もいたでしょうに」
 海は目を伏せた。海にとっても、全く他人事でないどころか、今まさに同じことで悩んでいるのだ。クレフは頷いた。
「セフィーロの『柱』になった彼女がただ一つ望んだのは、三か月に一度元の世界に戻り、大切なひとに会う事。本来ならふたつの世界を自由に行き来できる身だが、自分を律していたのだろう。セフィーロを何よりも誰よりも愛するために」
「……強いひとだったのね」
 海はそう言ったが、どこかしっくりこなかった。「愛するために」セフィーロにとどまり、「愛しすぎないために」めったに元の世界に戻らない。人の心はそんな簡単に、コントロールできないのではないか。エメロード姫が、ザガートを愛する気持ちを留めておけなかったように。

 クレフは、睫毛を伏せたまますぐには答えなかった。彼の言葉が、不意に胸に蘇った。
――「どちらもおまえにとってはかけがえのない世界だろう。ひとつを選ぶなど無理だ。そうではないか?」
 東京を捨て、セフィーロを選ぶと言い切った海に、クレフは確かにそう言った。その時、「知っているかのように言う」と海はかすかな反発心を覚えて言い返したものだったが――
「……いいえ」海は首を振った。「できなかったのね……」

「光が強いほど、影もまた、強いのだ」クレフは静かに言った。「彼女の御世では人々は最も幸せだったかもしれない。しかしその後味わった災厄も、かつてないものだった」
 クレフは、椅子に立てかけていた杖を握った。すると同時に、杖の先端の宝玉が青く輝いた。6人が円陣の形に座った中央に現れた映像に、海は声を上げた。

「地球……?」
 向かって右側に映し出された四つの星は、かつてクレフが出現させたことがあるセフィーロ・オートザム・ファーレン・チゼータの立体図だった。4つの星の周囲を守るように、銀河系に似た渦が覆っている。その渦に向かって、別の球体が接近していた。美しい青に輝き、小さな衛星を持つその星は、海が何度も写真や映像で見てきた「地球」に違いなかった。
「そうだ。お前たちの星だな」
 クレフは頷いた。
「動いてる……?」
 ザズが怪訝そうに呟いた。彼の言う通り、「地球」はゆっくりと、セフィーロらを抱いた銀河系に近づこうとしていた。二つの世界が擦れ合った部分が黒く、霞を帯びているように見え、海は慄然とした。二つの銀河系が、衝突している――
「この世界に……地球が、ぶつかろうとしてるの……?」
「そうだ。それこそが、738年前に起きた『天災』の正体だ」クレフは言った。「この世界と、お前たちがやってきた『異世界』。この二つは『柱』を通じてしか繋がりを持たないはずだった。しかし、異世界の質量がいつしか、この世界に引き寄せられた。そして、衝突が避けられない事態となったのだ。

「二つの世界が……衝突?」
 ザズが顔色を変えて聞き返した。
「それは、チゼータを襲った災害とは……」
「全く異なる原理のものだ」
 クレフは即座にタトラの言葉を否定した。
「でもクレフ。二つの世界は、元々モコナが創造したものだったんでしょ? ぶつかるなんて、どうしてそんなことが……」
「創造主が同じという時点で、二つの世界に繋がりはあったのだ。原因は当時、不明とされた。しかし私は、『巫女』の本当の心……故郷である『異世界』に戻り、愛する者と共に暮らしたいという『願い』が、『異世界』を自らに引き寄せるという結果をもたらしたのではないかと思っている」
「世界を引き寄せる……? そんなことがありえるの……?」
「故郷に帰りたい」という願い事態は、故郷を離れた者なら誰でも持つだろう自然な感情だ。いくらセフィーロが意志の国だと言っても、そのようなことが本当にあり得るのか、スケールが大きすぎてピンと来なかった。クレフは、ため息をついた。
「それほど、彼女の力は強すぎたのだ。おそらく創造主……モコナに迫るほどに。モコナとて、思いもよらなかっただろうな。国を維持するために創りだした『柱』が、二つの世界を滅ぼす原因になるなど」

 クレフは視線を皆に戻した。その表情には、隠しきれない憂いがあった。
「気づいた時には、もう誰にも止められない状態だった。『柱』が取り得る方法は二つあった。この世界を覆う結界を強化し、異世界を滅ぼすのか。それとも異世界に張られた結界を強化してこの世界を滅ぼすのか。両方は選べず、放っておけば全て滅びる。『巫女』は……」
「……『故郷』の存続を、願ってしまったのですね」
 そう言ったタトラの瞳は、不思議な光を湛えていた。泣いているのかもしれないと思った。故郷を失ったばかりのタトラとタータには、生まれ育った国を思う気持ちは身に染みるように分かるのだろう。

「……そうだ」クレフは目を閉じた。「『巫女』は言っていた。守りたいのは、故郷にいるたった一人の人間なのだと。たった一人と、この世界の全てを天秤に掛けて一人を選ぶ、自分が間違っているのは分かっていると。頭では分かっているのに、自分の『心』をどうすることもできないのだと。泣いていた」
 クレフの声は、不思議な熱を帯びた。耳を澄ませていた海には、一人の少女が苦悩し、泣く小さな背中が目の前に見えるように思った。その姿は、海の中では光によく似ていた。
 クレフは、感情的になった自分を落ちつかせるように、息をついた。再び話しだした時には、その声は平静に戻っていた。
「その後、オートザム、ファーレン、チゼータの三国が、崩壊を始めたセフィーロへ侵攻した」
「滅びようとしている状況で、互いに争い合ったのか」
 タータは、辛そうに唇を噛んだ。

「そうではないのだ」クレフは首を横に振って否定した。「この世界と異世界の衝突を防ぐ唯一の可能性は、それをもたらしていると思われる『柱』の死しかない、と囁かれていた。『柱』は自ら死ねず、セフィーロの者は『柱』に危害を加えることはできない。となれば、この世界を救うためには、他国の者が『柱』を殺すほかないと考えたのだ」
「……そんな。殺したとしても、それで世界が救われるか分からなかったんでしょう?」
「そうだ。全てが分かっている状態で判断できることなど、まずないからな」
「それは、そうだけど……」
 世界の秩序を創り、史上最高の『柱』と讃えられた女性が、一転して世界から命を狙われる存在になるなんて。その時、海の心に浮かんだのは光の姿だった。光がもし『柱』になることを選んでいたら、遠い未来同じような結末を迎えたかもしれないのだ。海はぶるっと震えた。

「魔法騎士は、どうしたのです?」その時、イーグルが口を挟んだ。「『柱』が祈れなくなった時、魔法騎士が召喚されるんでしょう?」
 思わず、その場の全員が視線を伏せた。かつて、魔法騎士として『柱』を殺した者が、その後『柱』として自分を殺してもらうために新たな魔法騎士を召喚する。因果応報といえばそれまでだが、あまりにも皮肉に思えた。
 クレフは、暗い表情のまま頷いた。
「『巫女』を上回る『心』の持ち主を召喚することなど、無理ではないかと誰もが思った。しかし、魔法騎士はその時、召喚されたのだ。しかも、現れたのはまた、たった一人だけだった」
「その人は『巫女』を……殺したの?」
「いいや」クレフはきっぱりと否定した。「その者は、『柱』を殺すのを自らの意志で拒絶した」
「そんなこと、したら」海の声は無意識のうちに上ずった。

 そんなことをしたら、セフィーロが滅びてしまう。そうなれば『柱』も、住人たちも無事ではすまない。魔法騎士も、自分の来た国に戻れなくなる。
―― それでもいい、と思ったの?
 罪はないと分かっている『柱』を殺して皆が助かる道を選ぶのか、『柱』を殺さず皆の命を危険にさらすのか。海たちもかつて同じ立場に立たされたが、あの時はもう、戦うしか方法がないところまで事態は差し迫っていた。もし、立ち止って考える時間を与えられていたら――? その時、どういう決断ができるのか、海には想像もつかなかった。何とか他の方法を探そうとして、結果的に皆を危険に陥れてしまいそうな気がした。

 738年前、海たちがいるこの場所で、皆「現実」としてその苦しみを舐めたのだ。皆の命が危険にさらされ、どうすればいいのか分からない極限状態の中で、一人ひとりが自分がどうするべきか選んだのだろう。クレフも、その時「何か」を選んだのだろうか。
「……前から気になっていたんですが、召喚された魔法騎士が『柱』に勝てないこともあったのではないですか?」
 タトラが遠慮がちに口を挟んだ。クレフはちらり、と膝の上の閉じられた本を見下ろした。
「……『その時「扉」が現れる』。導師の間で語り継がれてきた、伝説だ」
「……『扉』?」
 イーグルと海とザズは、それぞれ不思議そうな顔をした。しかし対照的に、タータとタトラは表情をこわばらせた。



* last update:2013/8/3