「『扉』?」
 海は首を傾げ、顔色が変わったタータとタトラを見やった。二人の姫は顔を見合わせたが、意を決したようにタータが口を開いた。
「私達は『扉』が何か知らない。でも、ヒカルが言っていたんだ。『あっちに、黒い扉のようなものがある。そこから、全てを溶かす、黒い液体が吹きだしてきていた』と。……導師クレフ。今おっしゃった『扉』とは、無関係だろうか?」
「……え?」
 突然光の名前が出てきて、海は頭が混乱した。今は、738年前に起きたという戦争の話をしているのではないのか。イーグルとザズも同じことを考えたのだろう、戸惑った顔をしている。遠い昔の話だと思って聞いていた物語が、いきなり現実として目の前に立ち現れたような気分だった。一同の視線が、答えを求めてクレフに集まった。

「738年前にセフィーロに出現した『扉』と、今チゼータに存在するという『扉』……私は、同じものと考えている。……もっと早く気づくべきだったな」クレフは自嘲の笑みを浮かべた。「大気のわずかな変動、動植物の異変。わずかに感じていたそれらの現象は、あの時と同じだった。私だけは気づかねばならなかったのに」
「『扉』とは一体、なんなのですか」
「……生きている者の住む世界と、死者の住む世界を繋ぐ『扉』のことだ」
 淡々と――海にはそう聞こえた――クレフはタータに答えた。しかしその言葉が海たちの胸に届くには、しばらくの時間を要した。
「ど……どういうことなんですか?」
 ザズが顔を引きつらせた。理解が追いついていない顔をしている。

 言葉にしてみればシンプルだが、海も頭をかかえたくなった。天国への扉――"heaven's door"という単語が、頭をよぎった。しかし海たちの世界で使われているその言葉はあくまで比喩のはずだ。宗教の世界でもあるまいし、本当にそんなものが存在するのか? そこまで考えて、海はハッとした。「天国への扉」ではなく、「あの世とこの世を『繋ぐ』扉」――
「この世からあの世への、一方通行じゃないのね?」
 クレフは少し驚いたように、海を見やった。海には、わずかな時間の間に、クレフが明らかに疲れているように見えた。クレフは、うなだれるように、頷いた。

 クレフは、彼にしては乱暴な手つきで、杖をさっと縦に振り下ろした。すると、6人の真ん中に浮かんでいた地球とこの世界の立体映像が、煙のように掻き消えた。皆の中央にあったものがなくなったせいで、距離が近くなったように感じた。

 「『扉』の段階は、三つに分けられ、どちらの段階にあるのかは『扉』の色や形状で容易に判断ができる。第一段階の扉は闇のような『黒』。そこから吐きだされている黒い波は、言わばあの世から流れ込んだ瘴気のようなものだ。触れれば、なんであれ消滅してしまう。心や体が弱ったものは、近づくことすらできないほどだ。
 そして第二段階になると、扉の色は光のような『白』に変わる。そうなれば、この世にいるものがあの世に引きずり込まれる。最後の第三段階になれば、『扉』は爆発的に膨張し、死者がこの世に逆流してくる。いや、正しくはあの世が、この世を呑み込むといったほうが正しい。第三段階を見た者はいないが、そこまで進めば、この世界は消滅するという」
「あの世が膨張して、この世を呑み込む……?」
 さすがにイーグルも理解しかねたのだろう、鸚鵡返しに問い返した。
「死者の数は永遠に増え続ける運命にある。そのため、死者の住む世界は、年々膨張しているのだ。それは、巨大なブラックホールのようなもの。周囲を呑み込み、今この瞬間にも広がり続けているという」
「『扉』とは、その入口ということですか」
 クレフは頷いた。

「……全てを溶かす、黒い波……チゼータに現れているのは、まさにそれじゃないか」
 タータの言葉の語尾が震えている。チゼータをわずかな間に滅ぼしたのが災害の全てではなく、第一段階にすぎないというのだ。海も、今さらのように寒気がしてきた。
「じゃあ、光は……」
 それきり言葉が出なかった。戦うべき相手がいるならとにかく、ブラックホールのようなのであれば、それはもう自然現象に近い。いくら光でも、対処しようがないように思えた。クレフがセフィーロに戻るように光とランティスに伝えたというのも、そう考えれば当然だと頷けた。

「では、この世界は、滅亡への道を突き進んでいるということなのですか……?」
 いつも冷静な物腰を崩さないタトラも、恐怖を露わにしている。
「しかし導師クレフ。さっきあなたは、魔法騎士が『柱』を殺せず、セフィーロが滅亡の危機に陥った時に『扉』が開く伝説がある、とおっしゃったでしょう。おそらく、すべてを『リセット』するために。今はそんな状況にないはずだ。『扉』が開いたとすれば、一体なぜ今でなければならないのです」
 イーグルが身を乗り出した。その口調は物静かだが、いつも微笑みを絶やさない男に似合わず、今は鋭くクレフを見つめている。ほんの小さな挙動も見逃すまいとしているように。クレフは、膝の上の本に視線を落としていた。まるで、この中に記されている無数の言葉を見とおそうとするように。

 クレフを見ていた時、海は急に閃いた。マスターナは全て知った上でこの本を持ち出したのだろうか。「マスターナの言葉を、真に受けてはいけない」。説明した時にタトラはそう言っていたが、
―― そんなの、無理よ……
 彼の言葉を思い出さずにはいられない。どんどん、彼の言葉に引きずられていく。クレフは、今起きている災害を『扉』が開いたからだと考えている。そしてマスターナは、この災害を引き起こしたのがクレフだと、古文書に書かれていることを通してオートザムに伝えたという。二人の言葉が導き出す答えは、海には恐ろしすぎた。

―― そんなはず、ないわ……!
 その可能性は、言葉に出すのもおそろしかった。しっかりしなければ、と海はクレフに視線を戻す。三年以上の間、海はクレフを見てきた。そして、彼のことを深く知っているはずではなかったか。クレフは、誰よりもセフィーロを愛し、そこに住む人々を愛し、750年もの長い間、セフィーロを守ってきた存在だ。こんな悲劇の元凶に関わっているはずがないではないか。そう思えば、今の30分にも満たないやり取りだけで、クレフのことを一瞬でも疑った自分を、海は恥ずかしく思った。

 海は、救いを求めるようにイーグル、ザズ、タータ、タトラの順に顔を見た。みな、同じ推論に辿りついてもおかしくないのに、誰も何も切り出さない。海には突然、クレフも他の4人も、見知らぬ人のように見えた。やはり自分は、マスターナの言葉に振り回されているようだ。私が、クレフを信じなくてどうするのだ。膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめた。

 海の視線を正面から受けたクレフは、顔を上げた。やはり、その表情から感情はわからなかった。
「……私にも、わからないのだ。今、なぜ『扉』が開いたのか。『扉』についての情報は、あまりにも少なすぎる」
「738年前に『扉』が開いた時はどうなったんですか?」
「あの時、セフィーロに現れた『扉』は第二段階まで進んだ。導師ロザリオも、数多くの戦士たちもその時に死んだ。そして、『柱』の気配もその最中に消えた。おそらく彼女も、『扉』からあの世へと渡ったのだろう。そしてそれと同時に、『異世界』の接近は止まり、それから長い時間をかけて元の位置に戻った。そして、新たな『柱』がセフィーロに誕生し、セフィーロはまた、リセットされた」

「どうして、第二段階で止まったんだ……? 食い止めることは、できないのか」
 ザズの問いに対する答えに、全てがかかっていると言ってもよかった。クレフは、緊張した表情で彼を見つめる人々を、蒼い瞳で見返した。
「『扉』が開いたのは、738年前が初めてではないのだ。過去何度も開いてきたが、第二段階までで、すべて『扉』は消滅している。この世の人間が『扉』を通してあの世に引きずり込まれたことはあったが、あの世の人間の復活はなかった。今回も、ランティスの言葉によればまだ第一段階。第二段階まで進んだとしても、『扉』に吸い込まれるのは、『扉』が現れた国土にいる者だけだからな。不幸中の幸いだが、早い段階でチゼータの住人は全員避難している。ランティスとヒカルさえ無事に戻ってこれば、人的な被害はないと考えている」

 明らかに、その場の全員がほっとした表情を見せた。しかし海は、どこか釈然としないままでいた。今まで、第三段階に進んだことが一度もなく、第二段階で自然消滅してきたというなら、そこまでの段階までしかない、と理解するのが普通だと思う。その次の段階があるということを、クレフはどうやって知ったのだろう?
「……『柱』を殺すのを拒絶した魔法騎士はどうなったんだ……? 元の世界に戻ったんですか」
 ザズの問いに、海は我に返った。
「そうよ。まさか、『扉』に吸い込まれちゃったとか……」
 クレフは首を横に振った。
「分からぬ。当時の私には、魔法騎士の気配を追う力はなかった。おそらくだが……『柱』がこの世界から消滅した時点で、異世界に戻ったのだろうと思っていた」
 その掌は、本の表紙を撫でていた。

「……僕には、あなたに聞かなければいけないことが、たくさんあります」
 イーグルは、正面からクレフをまっすぐに見つめた。クレフも見返した。二組の視線がぶつかり、静止する。他の者が割って入れないような緊張が、二人の間でピンと張りつめた。
「でも今は、ふたつだけにしましょう。なぜ、『扉』が再び現れたのか、本当にあなたはご存じないのですね?」
 クレフは、静かに頷いた。
「では、『扉』に対して、僕らができることはなにもないのですか」
 イーグルは間を空けずに尋ねた。クレフは、一見無表情に見えた。しかしその口角がわずかに上がるのを、海は目の端に捉えた。

―― どうして微笑うの?
 本心からの笑みではないことは間違いなかった。でも、それが悲しみなのか、彼には似合わない皮肉な笑みなのか、逆に怒りなのかさえ、海には分からなかった。
「その通りだ」クレフは、ゆっくりと頷いた。「安心しろ。世界はもうすぐ『正常』に戻る」
「え……」
「長話をしたな」
 どこか吹っ切ったようなさばさばした口調で言うと、クレフは本を手に立ちあがった。それと同時に、彼が座っていた椅子が一瞬で掻き消えた。そのまま一同に背中を見せたクレフを見て、全員が顔を見合わせた。

 海は反射的に立ち上がり、茂みの奥に姿を消したクレフの背中を追った。話していた時間はわずかなのに、身体が重たく感じた。あまりにも、重苦しい話題に消耗しているのを今さらのように感じる。「安心しろ」。クレフにそう言われたら、素直に安心できなかったことなど一度もないのに、奇妙な焦燥感が海を駆りたてていた。
 
 
 あじさいに似た丸い肉厚の葉を手で掻きわけて顔を出すと、思いがけず、すぐ近くにクレフの姿があった。驚いたように少し目を見開いて振り返った彼に、海はふと違和感を覚えた。その表情が、微妙にいつものクレフと違う―― なんだか、外見相応のあどけない子供のように見えた。
「どうかしたのか? ウミ」
 本人には自覚はないのだろう、見つめていると逆に、不思議そうに聞き返された。
「ううん、何でもない」
 海はクレフの隣に並んだ。聞きたいことはたくさんあったし、重い話を打ち明けたクレフの消耗が心配でもあった。でも、隣に立った時、彼がこれ以上突っ込んで話したくないと思っていることが、何となく分かってしまった。

「ねえ……クレフ。その『巫女』のこと、好きだったんでしょ?」
 わざと、軽い口調で話しかけると、クレフは「え」と声をもらした。彼には珍しい反応だった。よほど意外だったのだろう。
「好きも何も、私は当時10歳程度だ。ほんの子供だったのだぞ」
 すぐに不機嫌そうに否定したが、やはりどこか、ほんのわずかだが表情がいつもより幼い。クレフの言葉を聞いて、そうか、と思った。738年前であれば、クレフは確かに10歳。幼い頃のことに未だ頭が囚われているから、表情や雰囲気が無意識のうちに、戻ってしまっているのだろう。しかし、6人でいた時には、全くそんな風には見えなかった。クレフが海の前で、少しだけでも気を緩めてくれるなら嬉しい、とこんな時なのに思った。
「大体、どうしてそう思ったのだ?」
「話し方よ。『巫女』のことを話す時のクレフ、なんだかとても、懐かしそうだったから」
「そうか?」
「そうよ」
 クレフはしばらく黙っていたが、やがて視線を落したまま微笑んだ。
 
「そうだな。『好き』だったのは確かだ。姉のような存在だった。私は一人っ子だったしな」
「そうなんだ……私と同じ」
 クレフが、自分の生い立ちに関わる話をするのは極めて珍しい。というより、知っている限りは初めてだった。クレフはやけに感心している海を見やり、どこか拍子抜けしたような声音で言った。
「そんなことを聞きに、追ってきたのか?」
「ううん……何だか、ごめんなさい、って思って」
「何がだ?」
「私が、東京に戻らないって言った時、賛成してくれなかったでしょ。私の気持ちが分かるみたいだって、意地悪な返し方しちゃって……『巫女』のことがあったから、そう言ってくれたのね」
 口に出してみて、胸につかえていたのはそれだったのだと気づいた。クレフは、『巫女』と同じ苦しみを、海に味わわせたくないと思っただけだったのだ。それなのに、必要とされていないように思えて寂しくて、つい皮肉な言い方をしてしまった。

 クレフは、ついと数歩前に歩いた。しかし、急に話すことを思い出したように振り返って海を見た。
「……私は『導師』だからな。お前たちの『心』を最優先に考えて、ああ言った。でも、そうでなければ――」
「……クレフ」
 海は突然、クレフが伝えようとしていることがわかった。分かるよりも先に、目が急に熱くなった。嬉しいと同時に、なぜか悲しくてたまらなかった。目を抑えて、子供のようにしゃくりあげた海の腕に、クレフがそっと触れた。
「どこにも、行かないで」
 クレフの手が、わずかに強張るのを感じた。
「私どこにいても、あなたが『セフィーロ』にいるって思えたら、頑張れる。だから……」
「私はいつも『ここ』にいる。……だから、『心配はいらない』」
 クレフが、ぽん、と海の腕を掌で打った。温もりが腕から離れ、海はしばらくしてから、そっと顔を上げた。目の前にはクレフの姿はなく、ただ仄暗い闇がわだかまっていた。


* last update:2013/8/3