夜の帳が落ち、どこからか虫の声が聞こえてきている。灯りを落とした窓の外には、仄かな光が思い思いの曲線を描いていた。蛍のような虫がセフィーロにもいるのかもしれない、と海は思いながらカーテンを下ろした。
「……チゼータの受難には、そんな背景があったんですね」
一人掛けのソファーに腰掛けた海は、肘置きに肘をつき、両手を顔の前で組み合わせていた。どこか独り言のような口ぶりから、深く考えに沈んでいることがうかがえた。
「光さん……ランティスさんも、大丈夫でしょうか。連絡が取れたのは良かったですが」
「ええ」
海も、風の向かいのソファーに腰を下ろした。中央に置かれた小さなテーブルには紅茶が入っていたが、なみなみと紅茶が残ったまま冷えてしまっていた。夜になってから、フェリオと共に魔物退治から戻って来た風に、落ちついて座る間ももどかしく、午後のクレフの話を伝えたのだ。海にとって、自分だけで抱え込むには重すぎる話だった。そして、今の海と同じ目線で話せるのは、やはり光と風しかいなかった。
「大丈夫よ。ランティスの精獣がいれば、戻って来ることはできるし」
「そうですわね。お二人とも、無茶をされないといいんですが」
それでも大丈夫よ、と言おうとして、海も黙った。クレフは二人に、セフィーロに戻るよう伝えたらしい。このまま『扉』を放置しても、事態は収束すると付け加えて。となれば、二人がチゼータにとどまり続ける理由はもうないはずだった。
「チゼータは、もう二度と住めないのかしら」
「タトラさんは、そうおっしゃっていましたね。……でも、今のお話では、738年前セフィーロに『扉』が開いたこともあったのでしょう? それでも今、セフィーロはこれほど美しく再生しています。元通りにはならないかもしれませんが、時間はかかってもいつか再生できると思いますわ」
「そうね。私もそう思うわ」
海と風は、カーテンの隙間から夜空を見上げた。夜空にも不気味に真っ赤に燃えるチゼータが見えた。燃えるものはもうないはずなのに、星の大地そのものが燃えているのかもしれない。いつも空に浮かんでいる真紅のチゼータは、どこに行っても逃げられない恐怖を呼び起こす。
もしも、「第三段階」に進むことがあれば、事態はチゼータだけにおさまらなくなるのだ。クレフはあの世をブラックホールに例えていたが、あの世が膨張し、一気にこの世界を呑み込むなどとは、想像するだけでぞっとした。738年前、その前の第二段階の状態でさえ、当時の『柱』も導師も逃れられなかったのだ。とすれば、当時10歳にすぎなかったクレフが生き延びたことの方が不思議だと海は思った。
当時の『柱』のことを思えば、海の心は沈んだ。
「光と同じ立場の人がいたなんてね。あの時光は、最後の『柱』として、『柱』制度を無くすことを選択したわ。でもそうじゃなかったら、同じ道を辿ってたかもしれない。そう思ったら、他人事じゃないわ」
「……ええ。それに、気にかかるのはなぜ今『扉』が開いたかということですわ。クレフさんのお話だと、『扉』は、魔法騎士が『柱』を倒せなかった時に現れる、と語り継がれていたのでしょう? 今は『柱』制度はありません。それなのになぜ『扉』が開いたのか」
「クレフもそれは分からないと言ってたわ」
「この緊迫感、まるで、三年前の『あの時』に戻ったようですわね」
風は、深く物思いにふけっているようだった。そして、独り言のように続けた。
「もし『扉』が魔法騎士が『柱』を倒せなかった時に限らず、世界の滅亡の危機に反応して現れるものだとしたら……? でもそれもおかしいですわね。チゼータ受難までのこの世界は、平和そのものだったはずなのに」
そして、
「……海さん」
突然顔を上げて、海を見た。
見返して海は驚いた。風は、彼女には珍しく、深く思い詰めた、追い詰められたような顔をしていた。涙をたたえたような瞳が光って見える。
「私たちは、セフィーロと東京、という二つの世界を持っています。でも、このままでいいと、海さんは思われますか?」
「……風」
「私は、フェリオのことが好きです」風は一息に言い切った。「王子として多忙なフェリオの傍にずっといて、助けてあげられたらどんなにいいかとこの三年間、いつも思ってきました。フェリオは私に気を使って何も言いませんが、セフィーロにずっといて欲しいと思ってくれているのを感じます。フェリオの気持ちを嬉しいと思うのに、私はどうしてもセフィーロには永住できない。東京が自分の世界だと思ってしまうんです。……フェリオがはっきりと言わないのに甘えて、どちらも選択しないまま引き延ばしている私は、ずるいでしょうか」
風にまっすぐに見つめられて、海にはすぐに返事ができなかった。風がフェリオと恋仲だということはもちろん海も知ってはいたが、二人が公の場で接近しているのを見たことはなかったし、風はフェリオの名前を出すことも、避けているように見えたからだ。今のように気持ちをストレートに言うのは、初めてだった。
本当の気持ちを言ってほしいと、風のまなざしが言っている。海は膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「……私だって同じよ、風。同じように悩んで、誰かに答えを欲しいと思ってたわ。でも、私は逆の結論を出そうとしてた。東京には、もう戻らないって。セフィーロでずっと暮らすとまで、思い詰めてたの。自分を育ててくれた親や友達や、故郷を捨てられる自分が、すごく冷たいんじゃないかって思ってた」
「……海さん、あなたは……」
「私、クレフが好きよ。だから、クレフと一緒にいたい。……クレフの『特別』なひとになれなくてもいいの」
クレフがセフィーロに留まってほしいと思っていることを暗に知り、飛び立ちそうに嬉しかった。でも同時に、クレフの想いがどうであれ、「導師」という立場上、クレフが海を「特別」に扱ってくれることはないと悟ってしまった。
風は、ずっと前から分かっていたのだろう。驚いた顔も見せずに聞いてくれていた。
「でも今は私、ごちゃごちゃなの。考えすぎて爆発しそうな自分を、もてあましてるくらい……」
午後にクレフと最後に話した時は、クレフがセフィーロにいつでもいて、会えると思えば、東京に戻っても大丈夫と思った。でもやっぱり、寂しくて耐えられなくなるのかもしれない。わずかでも、クレフの心が自分にあると希望を持ってしまえば、求める気持ちはどんどん大きくなるばかりだ。一時間後の自分がどう感じているのか、自分でも分からないほどだった。
「……分かりますわ」
風は黙って海の言葉を聞いた後、ぽつりとそう言った。それからしばらく、二人は無言だった。
胸の奥につかえていた気持ちを吐きだして、少し心が軽くなった気がした。海はようやく、テーブルの上で冷えていた紅茶を取って一口飲んだ。冷たかったが、今の頭を冷やすには逆にちょうどよかった。同じように紅茶を口にした風が、顔を上げた。
「……海さん、気づかれていましたか? 誕生時から『柱』制度があるセフィーロで、魔法騎士が何度も召喚されてきただろうことは安易に想像がつきます。でもその一方で、セフィーロには、過去の魔法騎士が残した足跡は、何も残っていません。『柱』になったという巫女を除いては」
「……そうね」今まで、そんなことを考えたことはなかった。海は一拍空けて頷いた。「……今までの魔法騎士はみんな、『柱』を倒す、という目的を達したら元の世界に戻って、二度とセフィーロに来ることはなかったのかもしれないわね」
「ええ」風は頷いた。「私もそう思います。平和なセフィーロに、異世界の人間が出入りすることは、今まで一度もなかった。今になって、私にはその理由が分かる気がしますわ」
海は頷いた。『柱』制度が崩壊し、初めの一年ほどは、時々セフィーロを訪れることで十分満足していた。徐々に再生していくセフィーロを見るのが楽しかったし、二度と会えないと思っていた人々に会えるのが嬉しかった。でも、単純に楽しめたのは、最初だけだったと思う。風は、まるで罪を打ち明けるような沈んだ声で続けた。
「セフィーロに長期間いるほど、色んな矛盾が生まれて来るのです。私にしても、フェリオのことが単純に『好き』ではいられなくなっているのです。ただ一緒にいるだけではなくて、結ばれたいといつの間にか思うようになっていました。今はもう、東京で他の男性と出会って結婚して、子供を産む私の姿は想像できませんわ」
「……風」
そこまで深く思い詰めているとは思わず、海は言葉を切った。でも確かに、東京で誰かと結婚する将来を選ぶなら、その後フェリオに会い続けるのは許されないと思う。だからといって、フェリオと結ばれるなら、今までのように時々セフィーロにやってくるだけ、というスタイルは不自然になる。
「……私達は、セフィーロに戻って来るべきではなかったのかもしれません」
風は辛そうにそう言ったが、心からそう思っているわけではないのは、表情からも口調からも明らかだった。
セフィーロの人々の存在が自分の中で大きくなり、特別な誰かが生まれるにつれて、「異邦人」であるという事実が厳然と立ちはだかる。「ずっと、このままでいいのだろうか」という疑問は、「ずっと、このままではいられない」という焦燥感に少しずつ変わりつつあった。今までの『柱』の中でも最高とされた巫女でさえ、自分の心を納得させるような結論は出せなかった。できなかったからこそ、あのような悲劇を招いてしまった。光に会いたい、と海は不意に思った。彼女がランティスに恋していることを知っている。光なら、どんな「結論」を出すのか、語り合ってみたかった。
「……海さん。どうして、クレフさんのことを?」
そう切り出した風の表情がいつになく深刻なもので、海は真意を探るように見返した。
「クレフさんは、ランティスさんやフェリオとは、決定的に違うところがある気がするんです。あのかたには、秘密が多すぎます。……今のお話も、多くの事実が伏せられたままだと私は思いましたわ。クレフさんは私たちの恩人ですし、素晴らしい方だと思います。でも、その心の『深み』はうかがい知ることができません。私は時々、クレフさんが生きている『世界』のことを考えると恐ろしくなりますわ」
「……そうね」
否定はしなかった。一緒にいて笑っていても、クレフの考えていることは、他の人とは全く違うのかもしれなかった。風は真剣な顔をしていたが、思いがけず眉を下げて優しく微笑んだ。
「それでも?」
「ええ……それでも、よ」
海も思わず、苦笑してしまった。自分の手に負えないような心の持ち主だと分かっていても、それでも好きなのだから、しかたがない。
「確かに風の言いたいことはわかるわ。でも、私はこんな風に考えるの。クレフは、たった10歳で、先生だった導師ロザリオを亡くしたのよ。10歳って言ったら、私たちがこの世界に初めて召喚された時よりも子供なのよ。滅亡状態のセフィーロで、導いてくれる人を失って、どれほど淋しくて怖かったと思う? 導師だからって、その辛さは、私たちがその場に置かれた辛さと変わらないと思うわ」
さっき見た、クレフのあどけない横顔がちらりと胸を掠めた。
その時だけではなく、彼といると時々押さえきれない孤独感が、流れ込んでくることがある。まるで真冬にどれほどコートやマフラーを着込んでも、隙間から冷気が入り込んでくるように。数えきれない人と「さよなら」をしてきた記憶が、クレフの心に冷たく吹きつけているのは、間違いないと思う。たぶん、750年近く生きながらも、彼はそんな自分の気持ちと、折り合いをつけるのが苦手なのだ。しかたないと割り切って、悲しみを減らすことができないのだ。悲しみはいつまでも悲しみのままで、昨日生まれたかのようにクレフの前に立ち現れるのだろう。
海は、自分の顔を掌で覆った。
「私、自分が悲しい思いをしても我慢できるわ。傷ついても耐えられる。でも、クレフがたった一人でいる背中を考えるだけで、心がぎゅっと絞られる気がするの」
「海さん」
風の声は穏やかだった。海が顔を上げると、風はあたたかく微笑んでいた。
「海さんの心はきっととっくに、クレフさんには届いているでしょう。クレフさんにとっても、もうとっくに海さんは『特別』なのではないかと、私は思いますわよ」
「え? どうして」
「海さんのことを話される時、クレフさんはいつも、優しい顔をされていますから」
「そう……なの?」
そんなことは初耳だった。風は海を励ますように一度頷いたが、すぐに表情を引き締め、窓の外に視線をやった。
「クレフさんは今、セフィーロ上の空へ続く門……空門の前にいらっしゃいます。お一人のようです」
「分かる……の?」
「ええ。人の気配が分かるようになったのは、ごく最近ですけれど。クレフさんの気配は普段は感じづらいですが、今ははっきりとわかります」
「どうして、そんなところに……」
空門は、セフィーロ城の人が立ち入れる区域の、最上階にある。ランティスのように、空を飛ぶ精獣を持つ者たちが、一般の人々と出会わないようにセフィーロ城の出入りに使っているところだ。精獣によっては猛々しく、他の人を傷つける危険があるからだが、グリフォンとフューラしか持たないクレフはまず立ち入らないはずだった。
風は目を閉じた。そして、静かに宣託を下すように言った。
「……クレフさんは、セフィーロを発たれるおつもりなのでしょう」
「え?」
頭を突然叩かれたような衝撃が走り、海はまじまじと風を見返した。
「オートザムは『導師』がチゼータ受難の原因だと結論づけています。そしてクレフさんは『扉』が原因だとおっしゃっています。情報源は同じ、一冊の古文書なのです。その事実が結びつけるのは、『扉』の出現と、『導師』の存在は切っても切り離せないということですわ」
海は頷くこともできず、うつむいた。それは、海も薄々感じてはいたが、おそろしくてクレフには尋ねられなかったことだったのだ。
「でも、だからってクレフがどうして、セフィーロを離れなきゃいけないの……?」
心の底で、まだ否定したがっている自分を感じながらも、海は尋ねた。風の明晰さを初めて、怖いと思った。風は言葉を選んでいるのだろう、ゆっくりと口を開いた。
「私はさっき、多くの事実が隠されているようだと申し上げました。その理由が、『扉』と『導師』の関わりが伏せられていると思ったからです。海さん、覚えていらっしゃいますか? クレフさんは、チゼータ受難の時……今にして思えば『扉』が開いた時に、禁を犯して『禁術』を使ってセフィーロの傷ついた動植物を守られました。その時、こうおっしゃっていたんです。『それが自然の掟に準じた死であれば、誰に起きたことであれ、従うのがこの世の理。でも、今回は違うから、どうしても見逃すことができない』と。……クレフさんは、『扉』は自然現象ではないとおっしゃっていたに等しいんです。クレフさんは、なぜ『扉』が出現したのか、その原因に、おおよそでも辿りつかれているはずだと思います」
「確かに……そう、言ってたわ」
あの時は、特に何も思わず聞き流してしまった言葉だった。いったいいつから、クレフは『扉』のことに気づいていたのだろう。さかのぼって思い出してみて、はっとした。衝撃波がセフィーロを襲った直後、アスコットに過去に同じ事はなかったのかと聞かれた時のクレフの様子は、明らかにおかしかった。
―― まさか。あの時に、もう……?
だとしたら、『扉』が開いた直後のことだ。
動揺する海を前に、風は言葉を続けた。
「クレフさんは、チゼータ受難以降、お城を空けることが多くて皆はとまどっていたと聞きました。今までは、何があろうと陣頭で指揮を取ってきたのに、私は珍しいと思っていました」
「それは……チゼータから衝撃波が来た時、セフィーロの人達がみんなで力を合わせたからよ。クレフは、皆が成長したと喜んでたわ」
あの時、皆を見上げていた表情が頭をよぎる。クレフは本当にうれしそうだった。でもそれが、「いつかセフィーロを去る」ことを前提にして、自分がいなくとも大丈夫だと知ったからだとしたら……海は、カシャンと音を立ててティーカップをソーサーに戻した。
「今も、クレフさんはおそらく意図的に、城を不在にし続けています。まるで、残りのもので国を支えられるのか確かめるように。お城を二棟増やしたのも、おそらくはオートザムが避難してくることを見越してのことでしょう。私にはクレフさんは、急がれているように見えました」
「クレフは……どうするつもりだと風は思ってるの?」
「これは私の予測にすぎませんが」と風は前置きして続けた。「『扉』は導師の間で語り継がれている……おそらく私達に話されたよりもずっと詳しいことを、クレフさんは知っているはずです。だから、誰も見たことのない『第三段階』とは何かをご存じなのでしょう。そして、出現した『扉』が、今まで第二段階で食い止められてきた裏には、『導師』がいると思えてならないのです」
「それって……」
「クレフさんは今の時代の『導師』として、ご自分の手で『扉』を破壊されるつもりなのではないかと。おそらく、今までの『導師』がそうしてきたように」
「そんな……だって、誰にも被害はないって、クレフは」
「クレフさんの『誰にも』には、ご自分は含まれません」
言い返せなくなり、海は絶句した。確かに、いつだってそうだった。自分の身を顧みず危険にさらして、平気な顔をしていた。自分の命など、いつ捨ててもかまわないものだと心の底から思っている――
「前の導師は、死んだ……のよね」
「第二段階」で導師ロザリオは死んだとクレフは言っていたはずだ。風の推論が正しいなら、ロザリオは『扉』を破壊して、第二段階で『扉』を閉じると同時に――
「馬鹿……」
世界を滅亡に導く『扉』。それを止めるということが、簡単であるはずがなかった。危険であればあるほど、それを周囲には漏らさないのがクレフという人間だ。彼がいなくなれば、どれほどの人が悲しむのか、あの人は本当にわかっていないのだ。目下の魔導師たちの報告を受けながら、清々しい表情をしていたクレフを思い出す。海の頬を、悲しみとも切なさともつかない涙が伝った。
海は立ち上がった。
「空門ね」
「ええ」
もうたくさんだ、と海は思った。「みんなが幸せなら、個人の幸せが犠牲になってもいい」――そんな考えの元に、人が犠牲になるのを見るのはもう十分だ。個人を礎にしなければ成り立たないような国の制度なら、なくなってしまえばいい。だからこそ『柱』制度はなくなったのではないのか。それなのに、人々の心に息づいた制度はなくならず、今海の最愛の人を追いこもうとしている。止めなければ、と思った。その結果、『扉』が止められなくても、かまわない。その時は、皆で考えればいいのだ。
「行ってください、海さん。あなたなら、クレフさんを止められます」
「ありがとう、風」
冷静な判断をくだせる風のことだ。海がクレフを止めれば、世界は崩壊の道に一段と近づくことは予想しているはずだ。それでも背中を押してくれる風に、海は心から感謝した。そしてキッと上を見上げ、部屋を飛び出した。
* last update:2013/8/3