夕日が、ゆっくりと山脈の向こうに沈むところだった。いつものこの時間帯にしては明るい、とプレセアは思ったが、すぐに理由に気づいた。上空に丸く印を押したように赤いチゼータの姿が、くっきりと見えた。燃え続けるチゼータのために夜空は明るくなり、セフィーロでも見える星の数が減っていた。
「どうしたん?」
 背後から聞かれて、「いいえ」と首を振る。そして、カーテンを引いた。

「王子と風、もう夕方なのに遅いわねと思ってたのよ」
「魔物退治に今日も行ったんやろ? まあ、あの二人やったら大丈夫やで」
「そう思うけど」
 カルディナは、上半身はいつもの踊り子の姿だったが、タトラのものと似た、白くふわりとした生地の長いズボンを穿いている。その恰好でソファーの上にくるりと胡坐を掻き、お菓子をつまんでいる姿は何だか可愛らしかった。
「ウミに教えてもらって焼いてみたの。クッキーって言うらしいんだけど、おいしい?」
「めちゃくちゃうまい」
 一時間前にやってきて、何を話すでもなくずっと部屋にとどまっているカルディナを、プレセアはちらりと見やった。そして、向かいの椅子に腰を下ろした。

「なにか、私に話すことがあるんじゃないの?」
 目を見つめながら話しかけると、う、とカルディナが詰った。ティーカップを差しだしてやりながら、プレセアは続けた。
「ラファーガのこと?」
 カルディナはぐい、と紅茶を一口飲むと、悪戯がばれた子供のような目をしてプレセアを見返した。
「……なんでわかるん」
「なんとなくね。わかっちゃうのよね」
 恋人であるラファーガとの関係を、カルディナはいつもあっけらかんとして話していた。意外と抱く時の手つきが優しい、などと言いだしてプレセアが赤面したことも数知れずである。だから、カルディナのこんな反応は珍しかった。

 カルディナは思いきったように切り出した。
「……ケッコン、しようって言われたんや」
「……ケッコン、って異世界の……」
「そう。あの人、どっからそんな言葉、聞いてきたんやろ」
 「ケッコン」とは、恋人になった男と女が一生、一緒に暮らそうと約束することだそうだ。セフィーロにはそんな風習は特になく、ロマンチックだと特にセフィーロの女性には受けが良かった。カルディナはその時、どちらかというと否定派で、「そんなん、規則にすることちゃうわ」と言っていたはずなのだが――
「あの人、そういう堅苦しいん好きやから」
「そうじゃないでしょ」プレセアは優しく否定した。「落ち込んでたあなたに、ラファーガなりのやり方で、愛情を示そうとしたんじゃないの?」
 カルディナは、ぐっと言葉に詰まった。

 カルディナが、踊り子としてセフィーロにやって来たのは、5年前だという。3年前のセフィーロ侵攻の際も、チゼータに戻ることはなかった。その間一度もチゼータに戻らなかったのは、「いつでも帰れる」と思っていたからだろう。いつでも同じ街並みが、同じ香りが、同じ人々が、笑顔で迎えてくれる――そんな「当然」は、一瞬で打ち砕かれた。

 絶対のものは何もないのかもしれない。支えを失ったカルディナを見て、自分に何がしてやれるのかラファーガは懸命に考えたのだろう。ずっと一緒にいる「約束」をすることで、新しい支えを与えようとした彼の思いが、プレセアにははっきりと分かった。ラファーガは見た目通り武骨で、感情表現が苦手な男だが、優しいひとなのだとプレセアはつくづくと思った。明るくて人の気持ちの機微に長けるカルディナとは、いい一対だと思う。
「……おめでとう、カルディナ」
「ありがとう」
 カルディナの返事は、恥ずかしそうに返された。


 カルディナが、言いだし辛そうにしていた理由には、もうひとつ思い当ることがあった。
―― 私が、もっと恋愛上手だったらいいんだけど。
 プレセアは心の中で苦笑する。プレセアが難しい恋をしていることを知っているから尚更、カルディナは言いだしかねたのだろう。
「あーあ、いいなぁ」
 プレセアにしては珍しい、のんびりした声が、勝手に喉から漏れた。カルディナは思わず、と言うように噴き出した。
「やっぱり、導師クレフが良いん?」
 プレセアは返事の代わりに、眉を下げた。
「でも、どうしようもないとは思うの。導師は、常に『セフィーロ』全体のことを考えておられるわ。ご自分のことも含めて、一人ひとりの感情には疎い方だから」
 だから、「恋愛感情」などという、究極的に個人の感情には無関心なのだろう、とプレセアは思っていた。しかしカルディナは、思いがけず首を振った。
「うちは、そんなことないと思うで」

 その真剣な目に、プレセアもカルディナに向き直った。
「どうして、そう思うの?」
「エメロード姫とザガートの恋仲に、導師はいち早く気づいてたんやろ。二人は細心の注意を払ってそれを隠してたやろし、そもそも互いに気持ちを伝えあうこともなかったやろに。少なくともうちは、平和な頃二人に会ったけど、なんも気づかんかった。そういうの、疎い方ではないと思ってたんやけど」
「それは……」
 確かに、クレフが気づいていたと後から聞いたことはあった。しかし自分は、そのまま特に何も考えることなく、流してしまったのではなかったか。カルディナは、彼女にしては沈んだゆっくりとした声で続けた。
「ご自分のことは知らんけど、周りの人の気持ちの機微には、人一倍敏い御方やと思うで、うちは」
「それじゃ……」
 プレセアは、そこまで言って言葉を見失い、黙った。カルディナに一瞬で分かってしまう、自分の恋。もしかして、クレフはとうの昔に気づいているのかもしれない――そう彼女は言いたいのだろうか。

「……まさか」
 しばらく考えた後、漏れたのは否定の声だった。カルディナはため息をついた。
「あんたは、全てにおいて導師クレフが優れた人やと思って、尊敬してるんやろ。それやのに何で、その点だけは他の人より劣ってると思いこんでるんや? それを自然に思ってるところが不自然やと、うちは前から思ってたで」
 プレセアは、カルディナが遠まわしに言おうとしていることに、突然気づいた。ハッと頬が赤くなるのを感じた。

 私は、クレフが非の打ちどころがない人だと言いながらも、同時に人の気持ちには鈍い人だとも自然に思い続けてきた。それは単純に、「私がそう思いたかった」だけなのかもしれない。もしも、人の気持ちにも鋭い人であれば、私のこの恋に気づかないはずはない。気づいていて何も言わないのだとしたら――その理由は、考えるだけで耐えられなかった。

 黙ってしまったプレセアに、カルディナが歩み寄る気配があった。そっと頬に小さな温かい手が添えられた。見上げると、カルディナは真剣な顔をしていた。
「本気で、好きなんか?」
 プレセアは、こくりと頷いた。
「じゃあ、伝えたらええやん」カルディナの声は優しかった。「伝えんかったら、きっとあんたのことや、後悔するんやろ? 『いつでも伝えられる』ってことはないんやで。絶対やと思ってたもんも、無くなるんは一瞬や」
 カルディナの言葉には重みがあった。そう言った彼女の目には、隠しきれない悲しみがあった。こんなことをカルディナに言わせてしまったことを申し訳なく思った。

 毎朝、クレフに会いに行く。そして、頼まれるままにいくつかの用事をこなし、午後には光の溢れる中庭で、人々が集まって来るままに談笑する――そんな毎日が、ずっと続くと思っていた。私の目は曇りやすい、とプレセアは思う。自分に甘いからどうしても、「こうあればいい」という方向に思いこもうとする。その代償として、その「当たり前の日々」がどれほど得難いものかということにも、鈍くなってしまっていた。

「でも、お伝えしたら、導師クレフは困るんじゃないかしら……」
「困らせたらええやん。それこそ、女冥利につきるで」
 平気な顔でカルディナは言った。そして、自分の胸をバンと叩いた。
「もしなんかあったら、うちがこの立派な胸でどーんと受け止めたる」
 プレセアはカルディナの顔を見上げた。数日前まで、ショックでベッドから起き上がれないほど体調を崩していたはずだ。今も心の傷は全く癒えていないはずなのに、プレセアを励まそうとしてくれる。
「……ありがとう、カルディナ。あなたが友達で良かった」
 彼女のためにも、前に進まなければ。プレセアは自分の全身が緊張するのを感じた。


***


―― お傍に、いられなくなるのかもしれない。
 誰もいない、夕暮れの廊下を歩きながら、プレセアはそう思わずにはいられなかった。もしもクレフが、自分の気持ちに気づいていて、わざと答えないのであれば、プレセアの思いに応えることができないから、というのが理由として最もありそうに思えた。答えを求めてしまえば、クレフも返さざるを得なくなる。「拒絶」されてもなお、自分はクレフの傍に、何事もなかったようにいられるのだろうか―― その自信が、プレセアにはなかった。

 気持ちを伝えるのは恐ろしい。拒絶される可能性が高いのなら尚更のことだ。プレセアは歩きながら、体の力が抜けて行くような緊張を感じた。歩き慣れたクレフの自室までの道のりが、いつになく遠いものに思えた。

 その時、中庭で賑やかな声がして、プレセアはふとそちらを見やった。その中に、聞き慣れた声が混ざっていたように思ったからだ。
「フューラ……」
 こんな気持ちでいる時でも、フューラを見ると微笑んでしまう。丸々と太った人懐こい精獣は、大きな胸びれを振って地上にいる子供たちに差し伸べている。何人もの子供たちが、周りに集まっていた。子供たちの視線の先を辿った時、フューラの背中にいるクレフを見つけてプレセアはどきりとした。

 プレセアは声をかけることなく、その景色を見守っていた。こんな非常事態なのに、子供たちの表情に全く憂いはなく、チゼータ受難以前と何も変わっていないように思えた。本来子供たちは、城の中心部にあるこの中庭への立ち入りは禁じられている。でも、ここにしかない珍しい動植物を見に、子供たちはしょっちゅうここに忍び込んできた。そろそろ帰らなければと思っていた時に導師クレフが現れて、隠れていなければいけないのも忘れて飛びだしたのだろう。

 フューラに触れ、頬を紅潮させながらクレフに話しかける子供たちを、プレセアは懐かしく見守っていた。かつては、私もこの中の一人だったのだ。ほんの子供のころに導師クレフに会い、優しく話しかけてもらって感動して、この人のようになりたいと憧れた。その憧れのままに創師に弟子入りし、技術を磨いた娘時代をまざまざと思い出した。クレフの傍にいられる立場を手に入れて、どれだけ嬉しかったことか。私の今までの人生は、この人の隣に辿りつくためにあったのだと思っても、不本意ではなかった。

 この人は、この「セフィーロ」にとって、どうしても失えない人なのだとプレセアは改めて痛感した。大勢の人々がプレセアのように、クレフに憧れて魔導師に、召喚師に、剣闘師になってきた。それは、千人を下らないと言う弟子の数からも明らかだ。これからもこの人を目指して、セフィーロを支える『力』になっていく者はぞくぞくと現れるだろう。それに、非常事態にあっても、子供たちが笑っていられる環境をつくれるのは、この人だけだ。最高位とされる力なのか、その温かい空気なのか、それだけではないだろう。その理由は私の『心』が知っている。長い長い間、この人に焦がれ続けた私の『心』が。

 やがてクレフは、下を指差した。どうやら、そろそろ居住区に帰れと言っているらしい。もう周囲が薄暗くなっているのに気づいて、杖をその方向に向かって差した。それと同時に、丸い灯りが次々と灯り、子供たちの帰り道を照らし出した。さりげなく灯りの色や大きさが変えてあるのが、クレフらしいと思う。子供たちが途中で飽きて道を逸れないようにという気遣いなのだろう。子供たちは歓声を上げ、灯りを辿って道を下り始めた。

「ばいばい、導師さま!」
 子供たちの大声に、笑ってクレフが手を上げる横顔が見えた。クレフはしばらく子供たちの背中を見守っていたが、やがてフューラを促し、プレセアのいる方に向かってきた。スッ、と杖を振り上げると同時に、フューラの全身が青白い光に包まれる。杖の先端が輝き、精獣の姿は音もなく宝玉の中に吸い込まれた。タッ、と身軽に地面に降り立ったクレフの視線が、プレセアに向けられる。その時になってプレセアはようやく、クレフがずっと前からプレセアの存在を知っていたことに気づいた。
「ずっと見ているとは、おまえらしくもない」
 どきりとして身を引いたプレセアを見上げたクレフの目は、笑っていた。
「ちょうど良かった。おまえに会いに行こうと思っていたのだ」
「え?」
 そんなことを急に言われるとは思わず、驚いた声を上げてしまった。
「何か用事があったか?」
「いえ、いえいえ! ありません!!」
 慌てて両手を振って否定すると、その手の勢いに若干クレフは引いたようだったが、
「おまえの淹れた茶が飲みたくなってな」
 そう続けると、にっこりと笑った。


* last update:2013/8/3