そこで、責められるとは思っていなかった。
「鍵をかけていないのか?」
 解錠せずにそのまま自室へのドアを空けた時に、すかさず言われた。見上げてきたクレフの視線が鋭く、プレセアは縮こまった。
「い、いえ、かけています!」
「かかっていないではないか」
 クレフは何を言っているのだという口ぶりで、開いたドアの先の部屋を指差した。プレセアは、右肩の宝玉に掌をかざした。すると宝玉が赤く輝き、一本の鍵がそこから現れた。プレセアが「沈黙の森」に庵を結んだ時に贈られた、クレフ特製の鍵だった。この鍵がかけられた扉は、セフィーロの何人たりとも、鍵がなければ開けられないようになっている。クレフはプレセアから鍵を受け取り、注意深く見下ろした。鍵に異常がないか、確かめているようだった。

 部屋の奥は武器庫になっている。プレセアはその扉を掌で示した。
「武器庫は、必ずいつも鍵をかけるようにしています。万一にも、黙って持ちだされると大変ですから」
「馬鹿者」
 言い訳のように言うと、今度はダイレクトに怒られた。ちゃんと鍵をかけているのに、どうして怒られるのか分からず、プレセアはまごついた。この導師の前に立つと、彼に憧れていた小さな少女のころにどうしても戻ってしまう。

 クレフは、まるで自分の部屋のように慣れた足取りで武器庫に向かうと、手にした鍵を使って解錠した。そして鍵を、プレセアに向かって後ろ手に投げて寄こした。受け取ろうとした時、プレセアの肩の宝玉が輝いた。その眩しさに顔をしかめている間に、鍵は音もなく宝玉の中に吸い込まれた。
「武器庫などどうでもよいのだ。私は創師であるおまえに危害が加えられないよう、この鍵を創ったのだ」
「……え?」
「言わなければわからないのか?」
 クレフは声を大きくしたが、怒っているというよりも、呆れているようだった。
「も、申し訳ありません」
 謝りながらも、心の中にぽっと灯りがともったように思った。

 確かに、最高位の創師ともなれば、その身を狙われることもある。襲ってくる側からすれば、自分の力を最も活かせる武器を何としても手に入れたい。しかしよからぬ心を持った者だと判断すれば、プレセアは毅然として武器を創るのを拒絶する。その時に、女だと思って軽く見て、力で脅して目的を果たそうとする者も数少ないが存在した。プレセアが創師であると同時に優れた戦士なのは、そのような止むにやまれぬ理由があったからでもある。特にそのことをクレフに言ったことはなかったから、気づいているとは思わなかった。鍵をくれたのも、プレセアの身を守ると言うよりも武器を守るという意味で捉えていたのだ。自分の身を、気遣ってくれていたのか。嬉しいと同時に、「導師クレフは周囲の人の気持ちの機微に敏い」と言ったカルディナの言葉が改めて思いだされ、プレセアはドキリとした。


***


―― ねだってみたらいいやん。
 紅茶の準備をしていると、ふとカルディナの声が頭をよぎった。甘えるのがうまそうな彼女なら一体どうやってねだるのか、聞いてみたら良かったわ、と思いかけて苦笑する。それを聞いたところで、プレセアには実践できそうもない。こんなことを言ったら相手がどう思うだろうとか、迷惑だろうかとかいつも先回りして思い悩む自分が嫌になる。気遣いができるという言い方もできるのだろうが、結局は自分が傷つくのが怖いだけなのかもしれなかった。

 クレフは、セフィーロのどこででも採れる、代表的な茶葉を使った紅茶がお気に入りだ。ミルクや砂糖などは淹れず、いつもストレートで飲んでいる。プレセアはふと思い立って、風からもらった異世界の酒を一滴、琥珀色の紅茶の中に落とした。「ウイスキー」という酒で、紅茶に少しだけ加えると、香りが良くなって味に深みが出るという。そして、カルディナに好評だったクッキーを添えて、トレイにおいて運んだ。

「導師クレフ?」
 部屋に戻ったが、彼の姿はなかった。トレイをテーブルの上に置いてあちこち見まわした時、武器庫の扉が開いたままになっているのに気づいた。そっと中を覗きこむと、クレフが身の丈ほどもある剣を片手に取り、見下ろしているところだった。クレフが剣に触れているところを見るのは初めてで、いつも杖を持っている姿からすると違和感がある。クレフは慣れた手つきで、目にも止まらぬ速度で剣を何度か一閃させた。その剣筋が曲線を描いて見えて、プレセアは驚いた。生半可な熟練では、こんな風に滑らかに剣を扱う事はできないはずだ。

 クレフは剣を元の位置に戻し、ようやくプレセアがいるのに気づいたようだった。
「こ、紅茶が入りましたが……」
「ああ、ありがとう」
 手を洗わねばな、と言っているクレフを見て、そうじゃなくてとプレセアは思いなおした。
「剣を扱われるところを、初めて見ました」
「この姿では、剣を扱うと言っても限度があるがな」
 クレフは肩をすくめたが、機嫌が悪そうには見えなかった。


 クレフと向かいあって座りながら、プレセアは何ともいえない違和感に包まれていた。いつもと何が違う、ということもない。クレフは穏やかな表情で紅茶の味を褒め、クッキーも気に入ったようだった。いつもの、プレセアの一番好きな時間が流れている、はずだった。しかし、敢えて言うなら、「自然すぎる」ことが逆に「不自然」なのだ。クレフは一言も、チゼータ受難のことや、ここ最近増え続けている魔物のことを口にはしなかった。まるでセフィーロが平和な時に戻ったかのようだった。まるで、古き良き時代のやり取りをフィルムにして、それを流して見ているような―― そこまで考えて、プレセアはまじまじとクレフを見返した。

「どうした? 何か話でもあるのか?」
 一人掛けのソファーに深く腰掛けたクレフは、リラックスした表情を見せている。そう聞かれて、カルディナとの会話を思い出した。途端に、緊張感が全身に戻ってきた。

 気持ちを伝えなければ、いつかきっと後悔する。今の穏やかな時間は永遠ではないどころか、ある日突然、失われるかもしれないのだから。しかし気持ちを伝えてしまえば、プレセアはきっと、もうクレフの傍にはいられない。

 伝えるのか、伝えないのか。
―― どうするのよ?
 今結論を出さなければ、二度と同じところに戻って来れない気がした。焦燥感が動悸となり、どんどんと内側から胸を叩く。
「クレフ」
 プレセアは、ソーサーをテーブルに置き、クレフに向き直った。どうした、とも聞かず、クレフは真っ直ぐに見返してくる。二人の視線が、正面から交錯した。

「――……」
 プレセアは、ぎゅっと目を閉じた。そして、続けた。
「なんでも、ありませんわ」
 ごめんなさい、と肩を押してくれたカルディナを思い浮かべた。私には、どうしても言えない。自分が傷つきたくないからじゃない。傍についている私の存在に、クレフが少しでも安らいでくれるのなら、私はクレフの傍にいたい。クレフが望んでくれるなら、この、今の名前のつけられない関係を、大事に守りつづけたい。

「いいえ」プレセアは微笑を浮かべ、クレフを見やった。「ひとつ、ねだってもいいですか」
「私にか?」クレフは目を丸くしたが、やがて面白そうな表情になった。「なんだ?」

「全部。全部終わったら――またこんな風に、私が淹れた紅茶で、午後のひとときを過ごしてくださいますか?」

「全部」という言葉に、思いを込めたつもりだった。
 いつになるか分からない。でもクレフが、自らの肩に負った荷をひとつひとつ下ろして、全ての責務から本当に自由になれたなら――『導師』という役割からも離れられたら、その時に、隣にまだいることができたら。
 分かるでしょう? プレセアはクレフを見つめた。あなたには、私の今の気持ちは伝わっているはず。

 クレフは、ティーカップの中の琥珀に視線を落したまま、しばらく無言だった。その頬には、不思議な笑みが浮かんでいた。そして、独りごとのように言った。
「ああ―― そうだな。本当に、そうなったら、いいだろうな」
 ため息を言葉にしたならこんな風だろう、と思うような声音だった。心の底から、彼がそう思っているのが分かった。どこともなく向けられた視線は、その風景を想像したのだろうか、優しげだった。しかし彼は、その目を閉ざした。

――「そうなったら、いい」……?
 しかしプレセアは凍りついた。その場の風景が突然止まったように思えた。
「クレフ……?」
 どういう意味ですか? 聞き返したいが、喉の奥が張りついたように声が出ない。二人で向き合った時から、その場に流れていた「違和感」。それが一気に最高潮にふくらんだ。

 「そうなったらいい」それは裏を返せば、「そうはならないと分かっている」ということなのか。カルディナのことが胸をよぎって行く。「絶対だと思っていても、失う時は一瞬だ」と彼女の唇が囁いた。

「プレセア」
 クレフの目は、真摯に彼女を射た。穏やかな、しかし逃げられない力を持って。プレセアは首を横に振った。まるで、いやいやをする子供のようだと自分でも思ったが、どうすることもできなかった。
「嫌です」
「覚えておいてくれ。私はいつも、おまえたちのことを想っていると」
 どうして、クレフがプレセアの元を訪れようとしていたのか、プレセアはようやく気づいた。
「止めてください。私は――」
「おまえは私の信頼する『創師』だ」
 はっ、とプレセアは顔を上げた。心の中に、冷たい風が吹くようだった。そうだ、とプレセアは自分に言い聞かせる。今までも、導師と創師という関係だったではないか。これが全てなのだと、プレセアはその時、静かに諦めた。
「――はい」
 もう震えずに、次の言葉を聞くことができた。
「セフィーロを頼むぞ」

 クレフが立ち上がる気配を感じた。しかしプレセアは、彼を見送るために立ちあがれなかった。目の前で起きていることも、その意味も、つかめなかった。ただ、頭が真っ白だった。しかしそんなプレセアを置いて、時間は無表情に流れてゆく。法衣の裾が、俯いた視界の先を掠めた。

 立ち上がらなければ。そして彼に、伝えなければ。でも、伝えると言っても何を?
「プレセア」
 扉が開く音がした。
「愛してくれて、ありがとう」
 その言葉がプレセアの心に届くまで、時間がかかった。はっ、と顔を上げた彼女の前で、無慈悲な音を立てて扉が閉まった。

 もう、何の音も聞こえない。
 プレセアは立ち上がろうとしたが、足がもつれて床に倒れ込んだ。慌てて立ち上がろうとして、全身の力が抜けた。立ち上がってどうするというの。もう、彼を止めることができないというのに。地面に溶け込んでしまいたくなるほどの脱力感が全身を襲った。
プレセアはそのまま地面に突っ伏し、子供のように泣き崩れた。


* last update:2013/8/3