「その頃」のことを、クレフは全体像としてよく思い出せずにいる。例えば、誰かの目鼻立ちはしっかり覚えていても、顔全体の印象が思い出せないのと似ていた。景色の全体は記憶にないのに、崩れた家の壁や砂塵、転がる岩やこびりついた血の跡など、断片ばかりが目に焼きついたまま離れない。あれから、738年の時が流れたというのに。

 738年前、師も『柱』もこの世を去った。戦いこそ終わったが、戦争は人の命をセフィーロや周辺国から根こそぎ奪い取って行った。世界が人や動植物の命でできているというのなら、かろうじて土地だけ残ったこの世界は、もうとっくに、滅びているのかもしれなかった。

――「お前に罪はない」
 ロザリオが残していった言葉が蘇る。もう彼女はいないのに、その言葉は、全てを失った幼いクレフの足を前に進ませる力を持っていた。クレフは天を仰いだ。真っ青な空だけは、平和だったころのセフィーロとまったく同じだった。しかし鳥のさえずりで満ちていた空に鳥の影はなく、人々や獣が憩っていた森は焼き払われ、湖は干上がっていた。クレフの目の前に広がっていたのは、ただただ、荒れ果てた茶色い平地だけだった。自分以外の生き物はもう、セフィーロにはいないのだろうかとクレフはいぶかった。いや、それどころではない。オートザムやチゼータ、ファーレンにも今、生き残っている者はいるのか?

 もし自分に罪はないのなら――クレフは自分に呟いた―― 一体この戦いは一体誰が敵だったのだ? 一番悪いのは誰で、一体どうすればこんな結末にならずに済んだのだ? 望郷の念を断ち切れなかった『柱』を憎むことは、クレフにはできなかった。彼女を庇い続けたロザリオのことも、魔法騎士の立場にいながら『柱』を護った彼のことも、悪いとは思えなかった。セフィーロに軍隊を差し向けた他国にしても、異世界とこの世界の衝突を防ぐために、やむなく『柱』を殺そうとした。決して、望んだわけではなかった。敵だと思った方が簡単で、攻撃しても心が痛まずに済むのに、そうできなかった。

―― そうか。
 やがて、クレフは理解した。全てが起こる前に立ちもどり、やり直すことができたとして。同じ決断を下さなければいけない場面に立たされても、何度でも自分たちは同じ道を選ぶ。巫女は先代の『柱』を殺すしかなく、崩壊するセフィーロを守るために新たな『柱』になるしかなく、それでも故郷を忘れることはできなかっただろう。その際に他の者が取った行動だって同じだ。そして、自分が取った行動も――。何度やりなおせるとしても、他の手段はなかったのだろう。
 この戦いを避けることは、誰にもできなかった。起こるべくして、起こったことだったのだ。そう結論を出した時、心の中に吹きすさんでいたあらゆる感情は動きを止め、完全な静寂となった。嬉しくも悲しくもなく、怒りもなければ悔しくもない。周りの風景と同じように当時のクレフの心の中も「無音」だった。



 埃にまみれて、ロザリオと暮らしていた庵に戻ったのは、それから三日後のことだった。その三日間の間、生きている者には全く会わなかった。庵は、見るも無残に崩れていた。壁は半分以上壊され、家具や食器が割れて散乱していた。ロザリオが大切にしていた本は大抵が盗まれ、残りは戦火に焼けていた。

 クレフが本格的に教えを受けたのは、わずか五年ほどの間にすぎない。しかしその間に、全ての本の内容は頭に叩き込まれていたから、本が焼失しても内容を失ったわけではない。しかし五年間は、知識を叩きこむだけの時間ではあっても、それを実践するにはあまりに短かった。例えば、クレフが使えるのは初級の魔法だけで、導師として使いこなさなければならない中級以上の魔法は一度も使ったことがない。特に攻撃魔法はきちんと学んだこともなかった。特別といわれた治癒能力も、この戦いの中で失っている。しかし師をなくした今、知識と記憶を頼りに、自分で魔法を再現してみるほかなかった。

 今は想像もつかないが、いつかこのセフィーロに再び花が戻り、水が流れ、多くの人々が談笑するようになれば――今度は自分は導師として、誰かを守れるような魔法を伝えて行きたい。しかしそんな思いは、目の前の荒野を前にすれば絵空事にすぎなかった。

 後になって思えば、そんなことをしても無駄だったのだが、10歳だったクレフは庵にとどまり、修復を試みた。泥水をくみ上げ、砂でざらざらした床に流し、残った床を磨き上げた。壊れた壁の煉瓦を積み上げ、焼けのこった本の泥を丁寧に払って乾かした。その間にも、厳しい日ざしはクレフの背中に容赦なく照りつけてきた。食べるものは皆無に等しく、泥水を飲むほかなかった。全く体に力が入らず、何度もよろめいたが、それでも何度も立ち上がり、淡々と修復を続けた。音は、クレフが立てるもの以外なにもない。風は吹かず、水さえも流れていなかった。生き物の気配はもちろんなく、クレフはもう何日間も、全く声を発していなかった。

 その間、何度も何度も最後の瞬間がフラッシュバックした。後悔が理性を追い越そうとする時、クレフはただただ、目の前の作業に集中した。そうしなければ、自分を保つことができないことを、幼心ながらに分かっていたのかもしれない。

 それから何度か、無音の夜を迎えた。そしてある夜、クレフは終戦後初めて魔法を使って、小さな炎を熾した。魔法を使うのは恐ろしかった――が、手になじんだ道具のように、魔法は穏やかにクレフの手の中に戻ってきた。パチパチと、乾いた小さな音が聞こえた。クレフの耳は、久し振りの音をむさぼるように聞いた。漆黒の完璧な闇の中に、小さな小さな炎が踊る。その赤を、朱色を、白を、クレフは無言のまま眺めていた。じんわりと皮膚に伝わる炎のあたたかさを感じ、今まで自分が冷え切っていたのに気づいた。この広大なセフィーロの中の炎は、このひとつだけだろう。

 不意に、かすかな音を聞いた。クレフは自分でもおかしくなるほど取り乱し、周りを必死に見まわした。近づいてきたのは、クレフの指先くらいしかない、小さな羽虫だった。クレフは息を詰めて、その羽虫の頼りない音を聞いた。その虫は、炎に惹かれてやってきたのだろう。不意に炎の中に飛び込もうとするのを、クレフは慌てて両手で包むように捕まえた。そっ、と両手を開くと、人差し指のところに羽虫が止まっていた。戸惑ったように周囲を見て、ちょっと触覚を両手でこすり合わせると、またふわりと宙に飛びあがった。
「……あ」
 飛んでゆく。闇の中に、いなくなってしまう。

 その途端、どうしてだろう、涙が急にとめどなく頬を流れ落ちた。次から次へとせぐりあげてくる涙をどうすることもできず、クレフは泣きじゃくった。もう、優しく背中を撫でてくれる人も、ただ傍にいてくれる人もいない。ひとりになってしまったのだと、やっとその時、気づいたのだ。


***


 ビシッ、と金属製の音が静寂の中に響き渡り、クレフは閉ざしていた両目を開けた。日没直後で、周囲には薄闇が沈んでいる。目の前の鏡には、青ざめた自分の顔が映っていた。クレフが手を置いていた鏡には、斜めにひびが入っていた。その顔を、クレフはまじまじと見やった。あれから740年近い年月が流れ、自分は多くの教え子に囲まれ、宝玉や法衣を身につけるようになり『導師』と呼ばれるようになった。しかしその容姿は、10歳の時のままだ。748歳の自分に、10歳のころの、埃だらけの服を着た自分のまなざしが重なる。

―― 忘れるな。
 クレフは、鏡についた掌に力を込めた。ひびに指先が触れて血がにじんだが、どうでもよかった。忘れるな。あの時に自分がしたことを忘れるな。何度も何度も、自分に言い聞かせた。意図的にそうしたわけではないが、あの時からクレフの体は成長を止めた。

 イーグルに、なぜ子供の姿なのかと聞かれたことを思い出した。複数ある理由の中からひとつ選ぶとすれば、それは自分への戒めのため。その時から変わっていない自分の姿を見るたびに、時が経っても変わらない自分の「罪」を思い出すため。あの時クレフはイーグルに、燃費がいいからとか、子供をおびえさせないためとか返した記憶がある。それは確かに理由の一つだが、全てではない。そういう意味で、本当のことを語っていないと言えるのかもしれない。
―― 本当に、それだけですか?
 何度もイーグルに、そんな顔をされたことを思い出して、クレフはひっそりと苦笑した。

「―― 確かに私は嘘はついていない。しかし、言っていないことは多いな」背後に向かって、語りかける。「そう思うか? イーグル」
「意図的に言わないのは嘘のひとつ、という考えもありますね」
 にっこりと笑い、イーグルが自室に入ってくるのを、クレフは鏡越しに見守った。その足取りは、わずか半日の間にかなりしっかりとしてきているのに改めて驚いた。筋力が衰えないように治療を続けてはいたものの、ここまで効果があるとは、正直夢にも思っていなかった。

―― なんだ?
 イーグルの姿を鏡の中に見止めたた時、かすかな違和感をおぼえた。ゆっくり近づいてくる足取り、その灰色がかった鳶色の瞳、その表情に見覚えがあるような気がしたのだ。ここ数年と言うレベルではない。もっと昔、自分がまだ幼かったころに――
―― まさか。
 そんなことがあるはずがない。クレフは自分の突拍子もない直感を打ち消した。イーグルとは三年前が初対面だし、そもそも彼はまだ20歳をいくつか越えたほどの年齢でしかない。

 クレフは、イーグルに向き直った。




* last update:2013/12/19