入り組んだ迷宮のような古びた通路から、様々な香や食べ物が入り混じった香りが漂ってくる。夕暮れの光が差し込み、歴史ある街はあちこちに灯りをともす。そして、明るい昼から、妖しい魅力を湛えた夜の姿に生まれ変わる。その変わり身の早さは、艶やかな女性がぱっと美しい着物を翻すかのようだった。

――「美しい夢が見られましょう」
 あの街で、そう言って微笑みかけた女性は、一体誰だっただろうか。光は、覚醒前のぼんやりとした意識の中で考えた。真紅の唇の口角が、左右対称に上がっていた。肌の色は艶やかなモカ。幼いころ、母親に夜な夜な読んでもらった「アラビアンナイト」から光が想像したヒロインの姿が、そのまま目の前に現れたかのようだった。

―― そうだ。あれはチゼータの王妃だ。
 初めて会った時、最後に彼女からそう言われたのだった。
 まるで母親のような視線を向けられて、光はドキリと胸が高鳴ったものだった。光にとって母親は、遠い昔に失った優しい思い出だったから。チゼータを思う時と同時に、母親が思い浮かぶのはそのせいからかもしれない。街並みも、行き交う人々も、またたく星も、全てがどこか滲んで見えて、やさしい街。それが光にとってのチゼータだった。光はゆっくりと覚醒しながら、淡く微笑んだ。


***


「ん……」
「起きたか、ヒカル」
 目を開けたとたん、光は全身を強張らせた。目の前に広がっているのは、ぶすぶすと炎が真っ赤にくすぶり続ける荒れ果てた大地だった。チゼータに何が起こったのか、一瞬で思い出させるに十分な光景だった。あの優しい街は、もう滅びたのだ。
「どうした」
 肩にがっしりした感触を感じて顔を上げると、ランティスが光の肩を抱き、背後の岩に体が直接当たらないように守ってくれていた。光は別に構わないと言ったのだが、寝ている間中ずっと、そうしていてくれたらしい。心配そうな目で、光を見下ろしている。
「ううん」光へ目を閉じた。もう一度目を開け、同じ荒野を視界に納めた時は、現実をそのまま受け入れることができた。「なんでもないよ、ランティス。ありがとう」

 チゼータに二人で残されてから何日経ったのか、時間の感覚がもうなくなっていた。碌に食べも飲みもしていないため、体力は限界を迎えようとしている。服もあちこちが焦げ付き、立ち上がるとくらりと軽い貧血があった。光は足を踏みしめた。
「おまえは強いな」
 すっくと立ち、荒野を見つめていると、ランティスにそう言われた。
「どうして! ランティスの方が大変だよ。いつも周りに気をつけてくれてるの、ランティスだもん」
「でも、おまえの目は、どんなことがあっても強いままだ」
「……そんなこと、ないよ」
 優しい思い出に心を奪われる度に、我に返った時の揺り戻しは大きい。今のように母親の夢を見ていたような直後は、現実の厳しさに迷い、怯えることだってある。でもそんな時は、貧血でくらりとした時のように、踏みとどまるだけだ。ランティスや、海や風がいてくれるから。チゼータの復活を望んでいる人たちがいるから。そして、彼ら彼女らの『心』に応えられないような自分に、がっかりしたくないからだ。

 結局、私の願いなんだ。光はそう思った。チゼータを助けたいのも、そして皆にもう一度笑ってもらいたいのも、誰のためでもなく自分自身のためだ。そう思うと、腹に一番ストンと落ちた。命をかけてもかまわない、という覚悟が生まれた。
「――あと一日あれば、辿りつけるね」
 光は中空を見やった。隣に並んだランティスも、同じ方角を見た。中空に浮かんだ漆黒の『扉』からは、未だに黒い波が生み出され続けている。
「大きくなっているな」
「うん」
 単純に、距離が近づいたから、というには、そのサイズは異常に大きくなっていると言ってよかった。近づくだけで、瘴気のようなものが吹きだしているのが分かる。全身が粟立つような嫌な感覚だった。

 『扉』をどうやって破壊するのか、そもそも破壊できるのか、近づいてみるまで分からなかった。自分の持てる力を振り絞って、攻撃してみるほか手段はなさそうだった。
 光は、『扉』に向かって歩き出した。途端に暴風が吹きつけたが、チゼータの街で拾った、全身を覆うサイズの布で砂塵から体を守った。ランティスもマントで体を覆っている。つい先日まで星全体を覆っていた炎は消えかかっていたが、大地は靴の裏が焼けるように熱かった。布の裾が大地に触れたら、小さな炎が起こるほどだった。火傷をしていないのは、光は炎属性のためで、ランティスはずっと防御魔法を遣い続けていた。

 「セフィーロは大丈夫かな……」
 思わず、ぽろりと言葉が口をついて出た。ランティスは無言のまま、光の頭にぽん、と手を置いた。ランティスも心配に違いないし、今どうなっているか分かりようがないのも光と同じなのだ。あれ以来、クレフと通信が通じたことは一度もなかった。
 クレフと話した4日前に、ランティスと光で長い間話しあって決めたことだった。セフィーロが危機的な状態には違いないが、かの地には目を覚ましたイーグルがいる。調停役に、これ以上ないほどの人選だろう。彼なら本格的な戦いになるのを制止できるとランティスは言い切った。光もイーグルのことを信じていたが、その一方で気持ちは焦った。

「クレフにも、怒られるかな。チゼータから離れろって言われたのに」
 この全てが荒れ果てた地で、セフィーロとクレフのイメージは、まるで別世界のように遠く感じた。ランティスは首を振った。
「例え師の命令でも、全て従わねばならないとは思わない」
 その言い方がなんだか苛立っているように聞こえて、光は前を行くランティスを見やる。
「あの人は、このまま誰も犠牲になることなく事態は収束すると言った。でも、俺には到底そうは思えない」
「……クレフは、いつだってウソはつかないよ」
「嘘だと思っていないから性質が悪いのだ。あの人の『誰も犠牲にならない』の中には、自分は含まれていない。……あの人は、独りで戦うつもりでいるように俺には思えるんだ」
「……独りでって……何と?」
「分からない。でもあの時話していて思ったことだが、導師はセフィーロにはもう、いないかもしれない」
「え? ……どうして、そう思うんだ?」
 光は思わず足を止めて、ランティスを見やった。セフィーロが危機にあるこの時に、あのクレフがいないというのは信じ難かった。セフィーロの危機よりも深刻な「何か」があるというのか。
「……ザガートの魔法であれば、オートザムの戦艦とも互角に戦えたと俺は思っている。意志の世界であるセフィーロなら尚更、魔法の力は最大限に発揮されるからな。導師はザガートよりも魔法力は上なのに、セフィーロには戦艦と戦える力はないと言いきっていた」
「……ランティス。クレフのことが心配なんだね」
 そう言うと、ランティスは複雑な顔をした。普段、無表情で口数が少ないランティスだが、クレフのことになると口数が増え、感情も分かりやすくなるのに気がついていた。怒って見えるのも、無茶ばかりするクレフを心配しているからなのだろう。
「そんなことはない。……」
 そう言ったが、ランティスはそこで言葉を止めてしまった。

 ランティスは、クレフが自分の身を危険にさらすつもりではないかと心配して、自分で『扉』を破壊しようとしている。ランティスにとってクレフは、手が届かないような絶対的な力を持ちながらも脆い、見ていてもどかしくなるような存在なのかもしれない。
 一方で、光が『扉』を目指すのは、もっと直観的な理由だった。あの『扉』が何かはわからないが、今の黒い波など比ではない恐ろしい「何か」であるような気がするのだ。あれを、あのままにしておいてはならない。近づくたびに強くなる瘴気が、光にそれを教えているようだった。

「導師クレフには、やることがあるのだろう。それは、俺たちも同じだ。俺たちにしかできことは何なのか、選ばなければならない。結果は誰にも分からないが、悔いを残さないために」
「……うん」
 セフィーロにいる者たちにはセフィーロを守ると言う義務がある。チゼータに今いる自分たちは、『扉』が一体何であるのかこの目で確かめ、破壊することを選んだ。そしてクレフは、今どこにいるのだろう。

 光は、思っていたことをふと口に出した。
「そういえばクレフって、私達の世界の言葉が分かるのかな?」
「なぜだ? そんな話は聞いたことがない」
「私の名前……『光』の意味を、クレフは知ってた。私は言った記憶がないのに」
 光が言わなくても、風や海が教えたのかもしれない。ささいなことだが、妙に気になっていた。『扉』を破壊し、セフィーロに戻ったらクレフに聞いてみよう、と思った。

 その時だった。小さな石が転げる音を、光は耳にとらえた。振り返ってみると、30メートルほど離れた崖の斜面を、小石が落ちて行くのが見えた。何とはなしに、それを見送った光は、目を疑った。
「誰かいる!」
 え、とランティスが息を飲み、光が指差した方を見た。
「……そんな馬鹿な」
 ランティスが驚くのも、当然のことだった。魔法を使えなければ、この灼熱の大地で生きて行くことはできないし、チゼータの人々は皆魔法を使えないはずだ。崖の上で、影が蠢くのを光ははっきりと見た。崖にかけられているのは、よく見れば人の指だった。その「影」が二人の視線に身を翻した。長い黒髪が、ちらりと見えた。
「追いかけよう!」
 何か考える前に、光は飛び出していた。逃げ遅れたチゼータの住民ということもありえる……というより、それ以外だったら、一体何者だというのだ?

「……ねぇ、ランティス」
 光は、不意に寒気を覚えながら、傍らで走るランティスを見た。
「女の人、だったよね」
「おそらくは」
「……見覚え、なかった?」
「……」
 ランティスは無言のまま岩場に飛び移り、光に手を差しのべた。光が手を取ると、その手を握って軽々と岩の上まで光を引っ張り上げる。
「ありがとう」
「……俺も今、同じ事を考えていた」
 見えたのは、細い指と黒い髪、ちらりとのぞいた白い首筋と、華奢な肩だけだった。たったそれだけの情報では、確信はない。でも、ただ、全体の姿かたちが、誰かに似ている――そう思ったのだ。

「顔を見ればはっきりすることだ」
「……うん」
 光は、ランティスの言葉に頷いた。




* last update:2013/8/3