砂塵の舞う荒れ果てた台地に、時々赤い花のように残り火が咲いていた。地表の温度は、おそらく100度に迫っているだろう。そんな地獄のような場所で、黒髪の正体もわからない女を追いかける―― ランティスは、光の後を追って走りながら、まるで悪夢の中にいるような現実感のなさを感じていた。

 女の姿は、まるで幻影のようにちらりと岩陰や炎や、たちのぼる煙の合間に見えては、またちらりと消える。

 いったいあの女を、自分はいつ目にしたというのだろう? わからない。日常的に目にしているなら、すぐに気が付いているだろう。しかし10年も20年も会っていないような相手でもないと思う。なんとなく、その流れる髪や一瞬見えた肌の質感、あごのラインなどを、見たことがあるような気がする。しかも、光もおなじことを口にした。今にも思い出せそうで思い出せず、もどかしかった。

 もしかしたら、自分たちは体力も気力も限界に近づいている中、幻覚を見ているのではないか? 幽霊を追いかけているような不気味さがひたひたと心に浸みてくる。
「―― ヒカル」
 ランティスは光の隣に並び、子供のように小さな肩をつかんだ。
「俺が行く。おまえはここで待っていろ」
「でも、こわがって逃げてるのかもしれないし。女の人なら、私のほうがいい」
 ランティスはわずかに、苦い笑みを浮かべた。
「あれが何者にせよ、味方ではなさそうだ」
「どういうことだ?」
 光に尋ねられたが、うまく説明はできなかった。

 いうなれば、その者の後ろ姿が醸し出している、何とも言えない負の気配か。剣闘士として戦い続けた経験から、目の前の人間が敵なのか味方なのかは直観で判断できる。今追っている人物は、「危険」のシグナルを発している。もっともこれが幻影ではなく、現実だったらのことだが。

 そもそも、ランティスと光の足で、一般の人間にまだ追いつけていない、ということからして考えにくいのだ。この身のこなし、おそらく相手は只者ではあるまい。

「あ!」
 光が一声叫び、ランティスは我に返った。人の背丈ほどの岩の陰から、長い黒髪が覗いていた。長時間走り続けて力尽きたのか、もう逃げられないと観念して隠れているつもりなのかもしれない。光が一歩前に踏み出した。
「いきなり追いかけてごめん。でも、私たちは敵じゃない」
光 が胸に手をあててそう言うと、前に出ようとしたランティスを掌で制した。そして、人影のほうへゆっくりと歩み寄った。

 角度を変えて近づいてみると、一人の女が、背中を二人に向けてうずくまっているのが見えた。その顔は、髪に隠れていてまったく見えない。見事な黒髪が、肩から背中に波打ちながら流れ落ち、地面につきそうになっている。真っ白な布で全身を覆っていて、布の隙間からは裸の肩が覗いていた。

 光はゆっくりと歩み寄り、女のすぐ背後に立って、女の顔をのぞきこもうとした。
「あなたは誰? チゼータの人なのか? もうこの国の人たちは全員、セフィーロに避難したんだ。あなたも一緒に来ないか?」
「……セフィーロ」
 女が小さくつぶやいた声が、ランティスの耳にも入った。光が怪訝な顔をした理由は、ランティスには手に取るようにわかった。

―― この声には、聞き覚えがある。
 そう思っているに違いなかった。女にしては低く、艶のある声だった。
「……こちらに顔を向けてもらえるか」
「ランティス」
 光がたしなめたが、ランティスは強い眼光をゆるめなかった。
「ねえ」
 光が、女の肩に手を伸ばした時―― ランティスは突然、「思い出した」。と同時に、全身が総毛立った。そして、反射的に怒鳴っていた。
「退がれ、ヒカル!! その女は……!」
「……氷尖激射!」
 ランティスの声を、女が鋭くさえぎった。直後、無数の氷の刃が空中に現れた。その鋭い切っ先はすべて、光にまっすぐに向いていた。とっさのことに動けない光に、刃が殺到した。

「ヒカル!」
 考えている間はなかった。ランティスは光に向かって、一足飛びに跳んだ。空中で彼女の体を捕まえると、そのまま包み込むようにして前に突っ込んだ。何度か地面に転がり、止まる。
「ランティス!」
 目を開けた光が、ランティスの肩から血が迸ったのを見て顔色を変えた。
「問題ない」
 氷の刃の一本が肩をかすっていたが、大した怪我ではない。光に怪我がないのを確認し、素早く立ち上がった。今さっきまで光がいた場所に、刃がいくつも、いくつも突き刺さっていた。光の肩が一瞬震えた。ランティスが間に合っていなければ、光は串刺しになり確実に命を落としていただろう。

「相変わらず、身をかわすのがお上手だこと」
 布で身を隠した女の声には、今や明確な「悪意」がこもっていた。光の目が、揺らいでいる。相手が誰なのか、光もわかったのだろう。
「ど……どうして」
 目の前に立った女が、布を脱ぎ捨てた。

 目の前に起こっていることが、信じられなかった。ランティスは動揺を押し隠すように声を張り上げた。
「なぜだ。お前はもう三年前に死んだはず……どうしてここにいるのだ、アルシオーネ!」
 肩も露わな漆黒の鎧を身にまとい、額に真紅の宝玉を戴いた女は、その人形のように整った口角を上げた。

「お久しぶりですわ。剣闘士ランティス。導師クレフのもとでお会いして以来ですわね。そして三年ぶりね。……『魔法騎士のお嬢さん』」
 前半は淑女のように、後半は毒婦のように。アルシオーネは、光をきつい眼差しで睨みつけた。
「質問に答えろ、アルシオーネ。いったいなぜここにいるのだ」
 ランティスは光の前にさえぎるように立った。アルシオーネは肩をすくめた。
「わかりませんわ。私は確かに三年前に命を落としたはず―― でも、呼ばれたのです」
「誰に」
 アルシオーネは微笑んだまま、答えない。不意に、ランティスの心に、ある「選択肢」が浮かんだ。それは考えるだに荒唐無稽なことだった。まさか、とあっさり心から振り払う。

「あなたに恨みはありませんわ。危害を加える理由もない……そこをおどきなさい、ランティス」
 光がみじろぎする気配を、ランティスは背中に感じた。
「わ、たしは……」
 どんなことがあっても揺らがない、強い心の持ち主であるはずの光が、動揺している。その理由を、ランティスは痛いほど理解していた。
「聞け、アルシオーネ。ザガートの死は、避けられないことだったのだ。魔法騎士に罪はない!」
「いいえ」アルシオーネははっきりと否定した。「お嬢さん。あなたは、ザガート様を殺した」
「それは……」
「絶対に、許さないわ。そのために、地獄から舞い戻ってきたの」
 まさか、そんな馬鹿なことが。そう思ったが、現実としてアルシオーネは今、目の前にいる。師が口癖のように言っていた言葉が、胸によみがえる。「死んだ者は、決して生き返らない」と。しかしその真実は、目の前の事実によってあっさりと覆された。

 アルシオーネがこちらに杖の先を向けた。力が、その杖の先に集まっていくのがわかる。アルシオーネがこれほどの力を持っているとは、ランティスは不覚にも知らなかった。いや、「生前」よりもその力は上がっているのではないかとさえ思えた。

 隣に立つ光に、戦意は感じられない。人一倍優しい心を持ったこの少女は、アルシオーネの心の痛みに共鳴してしまっているのだ。ランティスにも、アルシオーネが「間違っている」とは一概に思えない。思えないが、このまま黙っていれば光は殺されてしまうのは、火を見るより明らかだ。
「ランティス!」
 光の制止を聞かず、ランティスは腰の剣の柄に手を置いた。

 前方に見える、漆黒の『扉』が、三人をあざ笑っているかのように大きく口を開いていた。




* last update:2013/8/3