何を迷うことがあるんだ。イーグルは迷いを振り払おうとした。

 ランティスと光は、イーグルにとって何者にも代えがたい人だ。「親友」ではなく、「仲間」とも違い、「戦友」でも「ライバル」でも「恋人」でも言い尽くせない。ほんとうにたいせつな人との関係には、型にはめられるような名前はないのだと思う。二人のことを思うと、心臓が掴まれたように痛んだ。

 確かに崖に転落し行方不明になったが、あの二人なら十分、生存の可能性はある。しかし、楽観できない状況であることも確かだ。FTOなら一日かからずにチゼータに辿りつける。そうすれば、二人の命を救えるかもしれないのだ。もしも今、二人を見捨ててチゼータに行って、その後二人が死んでいたとしたら、一生後悔することになる。

 それに引き換え、オートザムはかつて自分が一度、ランティスとの命と引き換えに見捨てた国だ。自由に息もできず、マスクなしには外にも出られない、大気が毒に冒された瀕死の国。人々が心を失いつつある国。そして、生まれながらの指導者であり、実力者でありながら傲慢な「あの男」が率いる国。
 世間の目などどうでもいい。三年前の自分なら、どちらを選ぶかは火を見るより明らかだった。

 それなのに……イーグルは今、自分が迷っているのを自覚せずにはいられなかった。
自分の眼は曇ってしまったのか? 判断力が錆びついたとでも? イーグルは心中で問いかけ、首を横に振った。むしろ逆なのだ、と思った。
 目も見えず、身動きもできず寝たきりだった三年間、セフィーロの人々がどれほど自国を愛しているかひしひしと感じていた。一度は滅びかけた国が息を吹き返したのを喜び、空の青さも、吹き抜ける風の透明さも、小さな芽生えも平等に、慈しんでいた。そして目覚めた今、国土を失っても国民のために精一杯生きようとするタータとタトラをこの目で見た。オートザムからセフィーロを守ろうとしたフェリオやラファーガの隣で戦った。そして、「うらやましい」と思ったのだ。どうでもよかったはずの母国、オートザムの存在をかつてなく近く感じた。失われて、本当にいいのか。その時、初めて自分自身に問うたのだ。

「……イーグル」
 フェリオが、心配そうに見守る視線を感じた。視線を向けると、フェリオは頷いた。
「どちらに行くのも、おまえ次第だ。イーグルが決めたことなら、俺たちは尊重する」
「……僕は、この三年間で、変わってしまったようです」
 イーグルは微かに微笑んだ。そして言葉を継ごうとした時、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。
「誰だ?」
 フェリオの声に、
「ヴォーグ・モーガンだ」
 太い声が返した。フェリオとアスコットが反射的に身構える。イーグルとザズは顔を見合わせた。ザズは、当惑した表情をしている。無理もない、母国に帰れば二人は同じ組織で働く軍人なのだから。

 イーグルは、少し前にヴォーグが第五塔から出て行く気配を、感じていたことを思い出した。それにしても、いつからドアの向こうにいたのか、と気になった。心が完全にチゼータに囚われていたためか、ここに来る気配を全く感じ取れなかった。
「……大丈夫です。彼が第五塔から出られたのは、セフィーロに対して悪意はないからでしょう」
 イーグルは全員を振りかえった。
「彼を部屋に入れてもかまいませんか?」
「ええ」
 短く、しかししっかりした声で返したのは、今まで黙っていたタトラだった。イーグルは頷き、
「どうぞ」
 とヴォーグを部屋に招き入れた。


 入って来たのは、身の丈が2メートルに迫る、逞しい体格の大男だった。年のころは、もう五十代にはなるだろう。しかしその体からは全く衰えが感じられず、鋼のように鍛えられているのが、纏った服の上からでも分かった。鷹のように大きな鋭い、灰色の目をしていた。彼はイーグルに視線をやり、感慨深げな顔をした。
「イーグル・ヴィジョン総司令官。しばらくお会いしないうちに、父上に似てこられましたな」
「いきなり御挨拶ですね」イーグルはにっこりと微笑んだ。「あの男と僕を一緒にしないでください」
「いったい、何の用なんだ」
 フェリオが、険しい声でヴォーグに問うた。敵意を見せればただでは済ませない、という気迫がその全身から立ち上っている。
「失礼ながら、話はドアの外で聞かせていただいた」
 ヴォーグはその視線をフェリオに向けた。フェリオが一瞬、ぐっと体に力を込めるのが見ていたイーグルには分かった。ヴォーグの気配に圧されそうになったのだろう。実際、三年前のヴォーグは、肉体的にも、精神的にも軍で一・二を争うほどに屈強な男だった。
「それで?」
 イーグルはヴォーグを見返した。ヴォーグは一瞬置いて切り出した。
「私が、オートザムの使者に立ちましょう」
「……俺たちが、おまえを信じると思うのか?」
 風が不安そうに、そう言ったフェリオを見つめている。当然だろう、とイーグルは思った。ヴォーグがオートザムでフェリオ達を裏切れば、フェリオ達はオートザムで孤立無援になる。ジェオはいるはずだが、全く連絡をつけられない状態だ。最悪、戻るための足も確保できず、オートザムと運命を共にする可能性も少なくないのだ。

 ヴォーグは、フェリオに視線を戻した。
「信じて欲しいとは思わない。しかし、我らとて道理を知る人間だ。もはや独力でオートザムが滅亡から逃れることは不可能で、他国の援助を受けるほかないのは分かる」
「……他国に頭を下げ助けを乞うことが、オートザムにできるのですか?」
 不意にタトラが、鋭い声で問いかけた。
「オートザムには科学力、セフィーロには魔法、ファーレンには豊かな農耕文化、チゼータには歴史があります。オートザムは科学力こそ全てを凌駕すると信じ、その思想は外交面で随所に表れていると感じてきました」
 その声は、ヴォーグだけではなく、イーグルとザズの心にも刺さらずにはいられなかった。ヴォーグはその言葉は予測していたのだろう。動揺は見せなかった。

 ヴォーグはしばらく微動だにしなかったが、不意に身体ががくりとくず折れたように見えた。反射的にザズが手を差し伸ばしたが、彼が床に膝をついたのを見て、はっとして動きを止めた。
「自分たちの力で自国も救えぬのに、何が科学か。救う手段が一つでも残っているのなら、なりふりは構っていられない。自国を失う辛さを、あなた方も知っているはずだ」
「……それを言い出すのは、卑怯ですよ」
 タトラが、わずかに浮かべた笑顔を歪め、その場に土下座したヴォーグを見下ろした。彼には、まだ幼い息子がいるのだ、と不意にイーグルは思い出した。全く表情には出さないが、今彼の頭の中を、息子の姿がよぎっているのは間違いなかった。
「大統領は、決して自分の考えを変えませんよ」
「……だからこそ。あなたを今オートザムに発たせたくはない理由になるのです」
 はっ、とした。ヴォーグの考えていることが、その言葉を発した時の眼の色で明確に分かったからだ。オートザムを守るには他国に頭を下げるほかなく、同じ考えを持つ国民は少なくはないだろう。それでも、大統領は己の意志を変えない。となれば、国民が立ち上がり、大統領を失脚させるほか生き延びる手はなくなるのだ。ヴォーグは必要とあれば、自分がその役を買ってでるつもりなのだろう。そして、クーデターを起こした本人は、一時的に支持を集めても、汚れ役でもある以上、遅かれ早かれ非難の的となる。その時に、実力は卓越している大統領の血を引き、かねてより人望も厚く、汚れ役に手を染めていないイーグルが戻ってくれば、国の新しい指導者となり得るのだ。

「いつかオートザムに戻り、あの国を救ってください。イーグル・ヴィジョン総司令官」
 ヴォーグは、黙りこんだイーグルの肩に手を置いた。

――「全ての者が幸せになれる結末などないのだ、イーグル」
 もうずっと思い出すこともなかった父の声を、イーグルはふと聞いた気がした。
――「全てを選ぶことはできない。全ての選択肢の中からただ一つを選択できる者が『願い』を叶える」
 そう。選べる未来は、たった一つしかない。常に選ばれてきたあの男は、自分が捨てられる、という未来もあると想像したことがあるのだろうか。


***


 どの国が長らえ、どの国が滅びるのか。誰が救われ、誰が貶められるのか。イーグルが目を閉じた時、闇になった視界の中で、じっと見つめて来る誰かの視線を感じた。反射的に目を開けると、マスターナの視線をぶつかった。
「……何者だ?」
 何かを感じ取ったのだろう、ヴォーグが問うた。
「彼が、大統領にセフィーロへの侵攻を進言した『預言者』のようです」
「なに……」
 イーグルの言葉に、ヴォーグが驚きの声を発した。ザズが知っていたくらいだから彼が事情を知らないはずはないが、さすがに顔までは知らなかったのだろう。セフィーロの人々はもちろん、チゼータも、オートザムも、マスターナに厳しい目を向けた。
「あなたに何の利益があって、セフィーロを売るような行動をしたのですか。あなたの『願い』は何なのです」
「……未来の『行き筋』を、変えることや」
 マスターナは、静かにそう答えた。非難を浴びても全く揺らがない意志を感じ、イーグルは彼をまっすぐに見返した。この男は得体が知れないが、少なくとも狂ってはいない。ある理念のもとに動いているように見えた。

「あなたの目には、どんな未来が見えているんですか?」
「……チゼータ、オートザム。……セフィーロ、ファーレン」
 眉をひそめた一同を前に、マスターナは淡々と続けた。
「国が滅びる、順番や。このまま行けば、この世界の国々はすべて滅亡する。それが、俺が知る未来や」
「な……にを、言ってるんや」
 タータの声が震えている。マスターナは、彼女を見やり、ゆっくりと首を横に振った。一度も外したことが無いと言う預言者の言葉。世迷言と切り捨てるにはあまりに重かった。

 マスターナは、自分が一同に与えた衝撃に気づかないように、同じ口調で語り続けた。
「預言の通りに、世界は動いてる。俺はそれを何とか、変えたかったんや。どんなことでもいい、一石を投じることができたら、未来は大きく変えることができるかもしれん。……あんな最後を、迎えんでも済むかもしれんと思ったんや。でも、無駄かもしれんな」
 その言葉にわずかに、自嘲の色が混ざった。
「チゼータは滅亡し、導師クレフはセフィーロを去り、自分を愛する人を『裏切った』」
「クレフは裏切ってなんかいないわ」
 静かに否定したのは、プレセアだった。決して大きな声ではないがその言葉は重く、静まり返った部屋によく通った。しかしマスターナは、何も答えなかった。

 イーグルは、マスターナに視線を据えた。
「あなたの預言では、僕はこれから、どうすることになっているんですか?」
「チゼータへ行く」
 よどみなく、マスターナは答えた。
「……僕が行かなければ、未来を変えることになりますか?」
「なるな」
 イーグルは言葉を止めた。マスターナが、ほろ苦く笑った。
「でも、行くんやろ。それが滅亡への道筋を辿る行為かもしれんと分かっていても」
 イーグルは、頷いた。頷くと同時に、様々な迷いが吹き散らされていくのを感じた。マスターナは目を閉じた。
「でも、行くんはあんた一人やないけどな」
「え?」
「すぐに分かるわ」
 イーグルは、フェリオに向き直った。フェリオは頷いた。
「さっき言った通りだ。オートザムは、俺とラファーガに任せてくれ。ランティスとヒカルを頼む」
 イーグルは次にヴォーグを見た。彼も、ゆっくりと頷いてみせた。セフィーロも、オートザムも滅びさせたくない―― 一瞬心に強く突きあげてきた思いに押され、イーグルはひとつ、喘いだ。


 その時だった。話を聞いていたタトラが、マスターナを見た。
「……マスターナ。あなたは『預言者』だと自分のことを呼んでいますね」
「ああ」
「自ら未来を見る『予言者』ではなく、他人から預かった言葉を伝える『預言者』……そういうことですね」
 え、とタータが言葉を発し、マスターナを見た。彼は、大きく目を見開いたまま、固まっていた。彼が驚いた態度を見せるのは、初めてのことだった。
「未来を変えようとしているのはあなたではなく、あなたの背後にいる『誰か』なのではないですか? 一体、何者なのです」
「何者って……」
 「預言者」であるマスターナが、問い詰められている。それは、さっきまでとは逆の光景に見えた。
「すまんな。名前も聞いたことはないんや。何者かも知らん」
 その言葉は、タトラの問いに答えたに等しかった。視線を落としたマスターナの頬は、どこか淋しそうな微笑みを湛えていた。
「知ってるんは、別嬪さんや、ていうことくらいや。あの娘を俺は、自由にしてやりたい」


* last update:2013/8/3