水平線が、空のピンクと、海のブルーに染まり溶けあっていく。天頂の辺りには、すでに群青色の夜の色が忍び寄ってきている。セフィーロの人々はその景色にあまり見とれることなく談笑しているが、他国の客人たちは、映画を見ているような大自然に釘づけになっている。この景色を毎日当たり前のように見られるなんて、セフィーロの人びとは本当に幸せだと思う。風たちは月に1・2回はセフィーロを訪れているが、それでもこの景色の美しさは、何度見ても新鮮な驚きを与えてくれる。

 隣の椅子に座っているフェリオに、その美しさを伝えようとして振り返る。
「本当にうまいな、ウミのケーキは」
 フェリオは夕焼けに背を向けて、ケーキを口いっぱいに頬張っていた。
「フェリオ……」
「ん? どうかしたか?」
「……。なんでもありませんわ。本当に海さんは料理がお上手ですのね」
 なんだかおかしくなって、くすくすと笑いだしてしまう。

 紅茶を一口飲んだフェリオは、ようやく周囲を見わたした。
「本当に広くなったよな、セフィーロは。姉上の時代と比べても比較にならないくらいだ」
「全然、地形も前と違いますわね」
 フェリオはうなずいた。今のセフィーロは、中央に巨大な海があり、その更に中央に城がある。三年前、セフィーロの土地が次々と崩壊していた時、最後の避難場所としてクレフを中心に創り上げたものだ。ただしその城にはまだ大部分の住人が残っていて、クレフたち中心人物は全員住んでいる。
 彼ら彼女らが城を離れないのは、まだ決めることが多く集まる機会も多々あるため、一緒に暮らした方が何かと便利なためだ。一方で住人たちは三年前のセフィーロ崩壊の恐怖がまだ頭から離れず、城が一番安全だと考えているそうだ。

 城を抱え込んだ海の周囲には、巨大な森が広がっている。森の奥には山脈が連なり、空中には島が浮かび、島からは火山や衛星のようなものまで見えるらしい。地平線がほぼ一直線に見えることからも、セフィーロの大きさが推し量れるというものだ。実際、今のセフィーロは四つの国のなかで桁外れの、広大な土地を持っていた。
「まさか。城を出ておひとりで探検などされてないですわね?」
「おぉ? よく分かったな。もう、ずいぶん見て回ったぞ」
 心配して言ったつもりなのに逆に嬉しそうに言われ、風は少しの間言葉を失った。海だったら盛大に突っ込みを入れるところだ。

「危なくないんですの? 魔物はいないんですか」
「いや、けっこういる。場所によっては姉上が祈れなくなったころと、そう変わらないな」
 あっさりとフェリオは首を横に振った。
「……この国の人々が、まだ恐怖心を持っているということですね」
「ああ。でも、しかたないさ。まだ、国が滅びかけてから三年しか経ってないんだ。それに『柱』制度も崩壊して、全部イチから始めるところなんだ、怖くて当たり前だろ? 魔物も含めて、今のセフィーロだ。一時は無くなると覚悟を決めたこの国が、今こうやって在るだけでも俺は『幸せ』だと思う」

「……フェリオ。ごめんなさい、あなたの言う通りですわ」
 フェリオが言うことが正しいと思った。月に2度程度訪れる風の身にはセフィーロは平和そのもので、「もう三年も経ったのか」と思える。しかしフェリオや、この国に定住している人々から見れば、「まだ三年」という意識なのだろう。それに、自分の命が危険にさらされるかもしれないのに、「しかたない」と一言で割り切ってしまえるフェリオは、やはり器がぐんと広い、と思う。

 フェリオは、意外そうな顔をした。
「なんで謝るんだ? 謝るようなこと言ってないだろ?」
 風はかすかに首を横に振って、フェリオを見やった。
「おけがは?」
「だいじょうぶだ。心配するな」
 ようやく、フェリオは自分が心配されていると気づいたらしい。にっこりと笑いかけられると、怒るつもりだった気持ちがほぐれてしまい、風は何といったらいいのか分からなくなってしまう。フェリオは椅子の上に器用に胡坐を掻いて、平和な日没を見ていた。袖からむき出しの二の腕からは、よく見れば包帯が覗いている。肩を怪我しているらしい。

「姉上の時代みたいに、予定調和的なことはまず起こらないな。予想外のことばっかり起きるし。でも、それが面白いんだ。世界をこの目で見て知って、それを伝えて行くこと。それが今残された『王子』として、俺がこの国にできることだと思ってる」
「……『癒しの風』」
 そっとフェリオの肩に指先を触れて、魔法を唱える。これまで多くの人を癒してきた魔法は、唱える側にもあたたかな気持ちを運んできてくれる。この力は、相手のためにだけあるものではない、と思えるのはこんな時だ。誰かの傷を癒せる、役に立てていると思えることが、どれだけ風を勇気づけてくれることか。
「ありがとう」
 お返しのように首筋に添えられた大きな掌に、風は赤面した。

 フェリオは、着ている服こそ変わったが、初めて会ったときと変わらない心を持っている。ただ隣に座って話しているだけなのに、胸に爽やかな風が吹きこんだような気持ちになる。どんどんこの人のことが好きになりそうで、風は困ってしまう。あわてて会話を切り替えた。
「フェリオ。ずっと不思議だったことがあるんですが」
「なんだ?」
「あなたはどうして『王子』と呼ばれているんですか? 『柱』を王・女王として中心に据えるなら、あなたは『弟君』と呼ばれるべきでしょう。でもあなたは、エメロード姫の御子ではないのに『王子』と呼ばれています」

 フェリオは頭を掻いた。
「そういえば、言ってなかったか。姉上の前の『柱』は、俺の母上だったんだ。姉上が『姫』、俺が『王子』と呼ばれるのは、その名残だ」
「そうだったのですか?」
 思わず声が大きくなってしまう。そういえば、エメロード姫の前に『柱』がいるのは、考えてみれば当然のことではあるのだ。フェリオは特に気にしてもいない様子で笑った。
「まあ、知っての通り『柱』に血筋は関係ないから、偶然なんだけどな」
「では、ずっと永い間、間近で『柱』を見ておられたんですね」
「ああ。だから、姉上が亡くなった時、俺は『柱』は残酷な仕組みだと心から思った」
 フェリオは苦い笑みを浮かべた。

「次の『柱』候補は、姉上が亡くなった理由を知るべきだ。結果的にはそれが原因で、候補が『柱』になることを拒んだとしても―― そう主張したりもした。生意気なことを言ったもんだ。結果的に、そうなればセフィーロは滅びる。俺にはそれを受け入れる覚悟はなかったし、だからと言って別の方法を思いつきもしなかったくせに」
「フェリオ……」
「あの時の俺は、一部分のセフィーロを知っただけで、世界を分かった気になってた。でも、俺は何もわかっちゃいなかった、って今になると思うんだ。だから、『柱』制度に変わる仕組みがあるなんて夢にも思わなかった。オートザムやファーレン、チゼータは俺たちと全く違う制度で国を守っている。俺はいろんな国へ行って、もっと自由で広い考え方ができる男になりたいんだ」
「素敵ですわ」

 「柱」をめぐって、人一倍辛い思いをしてきたはずだ。もしかして風よりもよっぽど、苦しんできたのかもしれない。それなのに、その苦しさを全く表に出さず、前へ前へと行動に移すフェリオのことが好きだった。どんどん、好きになってもかまわないではないか。風は微笑んだ。
 フェリオは、光と共に近くにいたランティスを見やった。
「この国には、ランティスもラファーガもいる。もし俺がいない時に万一のことが起こっても、二人ならこの国を守ってくれるさ」
「ランティスは信用ならん」
 ランティスが答える前に、険しい男の声が割って入った。フェリオと風が振り返ると、そこには鎧姿のラファーガとカルディナがいた。

「かつてこの男は、エメロード姫付の親衛隊長でありながら、誰にも事情を告げず責務を捨ててこの国を出奔したのだ。そしてあの内乱時にも戻らなかった。それが裏切りでなくて、何だと言うのだ」
「ラファーガ、そんな……」
 立ち上がった光を、ランティスが制した。
「……否定はしない」
 二人の男の間に、弓をキリリと引いたような緊張感が張りつめる。その場の視線が、二人に集まった。
「ちょちょ、ラファーガ。もう済んだ話やんか」
 背後からカルディナがラファーガの腕を引っ張ったが、びくともしない。ラファーガは大股で、ランティスの傍に歩み寄った。ランティスが立ち上がる。

「『事情』なら、私が知っている」
 突然、大きくはないが明瞭な声が、その場によく通った。椅子に腰かけ、ティーカップを口に運んでいたクレフに周囲の視線が集まる。クレフの隣にいるプレセアは気づかわしげに、クレフとランティス、ラファーガを見守っている。クレフはティーカップをテーブルの上に置くと、組んだ膝の上に両手を組み、ランティスを見やった。
「ランティスに『柱』制度への疑念を最初に告げたのは私だ。ランティスは、『柱』制度に変わる仕組みを探すために、他国へと旅立った。エメロード姫と兄を救うために」
「導師クレフ、それは……」
「違わないはずだ」
 師弟の、二組の青い瞳が交錯する。先に視線を伏せたのはランティスだった。
「結局、俺は間に合わなかった。『柱』制度の崩壊を望んだが、その後の世界がどうなるのか、思い描くことはできなかった」

 無言のまま、厳しい視線をランティスに向けているラファーガに、クレフが視線を移す。
「ランティスは、私が最も信頼する教え子の一人だ。ラファーガ、私を信頼してくれるのなら、ランティスのことも信じてはくれまいか」
「あなたのことは無論、信頼しているが……」
 渋い表情のラファーガに、クレフは少し眉をひそめた。
「私は、お前のことを買っているのだ。そのお前に教え子が悪しざまに言われるのは、師である私も耳が痛い」
「そのようなつもりは……も、申し訳ありません」
 ラファーガが慌てて謝った。ランティスだけを攻撃したつもりが、クレフを不快にさせていたとは思わなかったに違いない。しかしその後、クレフが珍しくも吹きだしたのを見て、冗談だったと気づく。
「導師クレフ!」
「お前たちは、あの厳しい戦いを乗り越えた大切な仲間なのだ。互いを大切にするように、な」
「……分かりました。二度と、このようなこと口にはしません」
 ラファーガは一度クレフに向かって頭を下げると、そのまま踵を返した。カルディナがため息をつく。

「堪忍な。あの人、真面目やから。義務とか責任とか、めっちゃ気にすんねん。でも、あの人は約束は守る人や。二度と言わんっていうたら、ほんとに二度と言わんから」
「……わかっている。それに、ラファーガの言葉は正し……っ?」
 途中で、ランティスはいきなり言葉を切った。後ろから歩いてきたクレフが、その杖の先でランティスの頭を打ったからだ。軽く小突いた程度だろうが、ゴツン、とけっこう大きな音がした。目撃した海が、一瞬おどろいた顔をした後、慌てて俯いた。ウミ! とアスコットに言われているが、その肩がふるえている。どうやら、笑っているらしかった。そういえば、風が知る限り、クレフの杖で叩かれたのは初対面で彼を「子供」呼ばわりした海だけだ。

 剣士であるランティスが、普通のスピードの一撃を避けられないはずがない。しかし結果的にまともに当たったのは、まさか師に叩かれるとは予想していなかったからだろう。振り返ったランティスは、唖然……というよりもぽかんとしていた。
「お前がいけないのだぞ、ランティス。もう少し、自分の言葉で自分を語れるようになれ」
 要は無口すぎるから誤解されるのだと言いたいらしい。ただし、本気で怒っているのではないのは、クレフの目を見れば分かる。
「だ、だいじょうぶ? けっこう大きな音がしたけど……」
 光が首をかしげて、ランティスの後頭部に手をやる。ランティスは、所在なさそうに苦笑した。無表情だと、その巨体もあって怖い印象を持たれがちだが、微笑むとその青い目は驚くほど優しく見える。光が、がまんできなくなったように、あはは、と不意に笑いだした。その場の雰囲気が、一気に和らいだ。

「ランティスを小突けるのは導師クレフくらいだな……」
 フェリオは少しポイントがずれたところで感心している。クレフとランティスの二人が一緒にいる機会はそれほど多くないようだが、、改めて見ると二人の距離は、風たち魔法騎士とクレフの関係とは明らかに違っている。長い付き合いの中で、互いの気心はしれている者たちの気やすさが見え隠れしていた。

「それで……行く国はもう決めておいでですかな? セフィーロの王子」
 和やかになったタイミングで、さりげなくチャンアンが話題を戻した。
「いいえ。情報が手に入りやすいオートザム以外の国のほうがいいと思っていますが……」
 フェリオはちらり、とイーグルを見ながら言った。
「じゃあ、ファーレンに来ると良い」
 アスカが、有無を言わさない口調で断言した。
「いいのか?」
「いいも何も、ファーレンは客人を大切にする国柄じゃ。歓迎するぞ」
「それはありがたい」
「私も行きます」
 アスカとフェリオが驚いた顔で、風を振り返った。
「風……。でも、」
「あなたのことですから、危険なことにも首を突っ込んでしまうでしょう? 怪我をされたら、誰が治すのですか」
「……風しかいないな」
 ありがとう。そう微笑まれ、風はわずかに頬が赤くなるのを感じる。いつもセフィーロでは同じ城で暮らしているのに、二人で旅をするとなると、なんだか特別な気がしてくる。なんだか今、とても大胆なことを言ってしまったのではないか。

「それなら、チゼータにも誰か来たらどうだ?」
 二人で仲良く椅子を並べて座っていたタータと、姉のタトラが揃ってセフィーロの一同を見た。はい! と張り切って光が手を上げる。
「わたし、行ってみたいなぁ! アラビアンナイトの国!」
「あらびあんないと?」
 タータとタトラはそろって首をかしげている。
「一人じゃ危ないわ、ヒカル」
 クレフの後ろにいたプレセアが声をあげる。
「ヒカル」
 ランティスが後ろから光に声をかける。
「えっ、何? ランティス」
「……」
 ランティスは無言のまま、フェリオ、ラファーガ、クレフを順番に見た。ランティスの次の言葉を図りかねたとき、イーグルの楽しげな声が頭の中に響いた。

「ランティスは困っているんですよ。ヒカルと一緒に行きたいものの、今さっき、セフィーロを守るようフェリオに頼まれたばかりですし、ラファーガとも和解できた矢先です。黙っていたら分からないと導師クレフに言われたばかりですし、この状況をどう言葉で伝えるか、考えているんです。ですよね? ランティス」
「……イーグル」
「すみません、でも、待っていたら日が暮れてしまいそうですし。僕も寒くなってきました」
「かまわん、ヒカルとチゼータへ行け。いざとなればラファーガと私で守ればいい」
 やれやれそんなことか、と言いたそうな様子で、クレフが助け舟を出した。その後ろで、ジェオとザズがせっせと毛布をイーグルに掛けている。タトラが進み出た。

「よろしければ、あなたもご一緒に、と思っていたのですよ、導師クレフ。チゼータには古文書が数多くありますが、言葉が古くて読むことができません。あなたなら、読み解くことができるかもしれないと、本国でも希望をもっています」
 ふむ、とクレフは考えるそぶりを見せた。しかし、すぐに首を横に振った。
「興味深いが、私は今は、セフィーロを離れられん」
「そうですか……」
「何か、気になる古文書があるのか?」
「……ええ」
 タトラは、彼女には珍しく口ごもった。ふむ、とクレフが唸った。
「良ければ、写本を送ってくれるか? 判読できるか試してみよう」
「本当ですか? 有難うございます」
 タトラは優雅に頭を下げた。

「ね、海ちゃん。一緒に行かない?」
 光が、無邪気に海に声をかけた。アスコットが待っていたように進み出る。
「そうだよ、あの、よかったら……僕も一緒に」
「海ちゃん?」
 ぼうっとしている様子の海に、光が声をかけた。海は、すぐに我に返り、光とアスコットを見て照れ笑いした。
「なんでもないの。……ごめんね、あたし、今回はセフィーロに残るわ」
「……。なんかあった? 海ちゃん。具合悪いの?」
「いいえ! 何でもないの。何となく、残りたい気分なのよ」
「海ちゃん……」
「お土産、いっぱい持って帰りますわね」
 風は、にっこり笑って二人の会話を遮った。海は決して、行きたいのに行けないのではなく、自分の意志で「残りたい」のだと気づいたからだ。そして、ぼうっとしている間、海はクレフを見ていた。その理由を深く考えると、胸が苦しくなってきそうだった。



※エメロードとフェリオの母親が先代の『柱』だった、というエピソードは捏造です。でも考えてみれば、『柱』は世襲制じゃないはずなのに、なんでフェリオが「王子」と呼ばれているのかは普通に謎です。



* last update:2013/7/11