やわらかな朝の光が、白いシーツの上に眩しく差しこんでいた。風は、ゆっくりとベッドの上で上半身を起こした。何も身につけていないのに気づいて、慌ててシーツを胸元まで引き上げる。そして、部屋を見まわした。
「フェリオ……いない」
 自分の声が、広い部屋の中に響き、その場の静けさを際立たせた。部屋の中は、綺麗に片付いていた。そして、フェリオが夜の間に準備していた荷物は、全て持ち去られていた。

 あのひとは、もう行ってしまった!

 そう思った瞬間、風は泣くこともできずに全身を強張らせた。この掌には、フェリオを抱き締めた感触がまだはっきりと残っているのに、もう手の届かない宙(そら)の上にいるのだろう。身体のあちこちが軋むように痛み、風はその痛みを愛おしむように抱き締めた。

―― 愛している。俺には、お前がどうしても必要なんだ。セフィーロでもトウキョウでも、どこだっていいさ。オートザムから戻ってきたら、もう離れない。

 気が遠くなりそうだった逢瀬で、別人のように掠れたフェリオの声が耳元に残っていた。今までずっと、別世界から来た風の立場を尊重して何も言わなかった彼の生身の声を、初めて聞いた気がした。求められている―― そう思った時、涙が出た。自分が溶けてなくなったようで、相手のことしか考えられなかった。しゃべる余裕もなく、必死で何度かうなずいた。伝わっただろうか、と薄目を開けた時、フェリオに強く抱きしめられた。

 それなのに、フェリオは去ってしまった。ぽたりと、涙がシーツの上に落ちた。それを見てしまうと、涙はもう止まらずに、次から次へと転がり落ちた。
 フェリオがセフィーロ代表としてオートザムに旅立ったのは、彼の立場からして当然のことだ。風がセフィーロに残ったのも、被害を最小限に食い止めるためには仕方がないことだった。これ以上の最善の手はないと頭では分かっているのに、だからといって「悲しい」という気持ちは少しも軽くならないのだった。風は、その場に座り込んで子供のように泣きじゃくった。
「……光さん……海さん」
 風は二人の親友を思い浮かべた。二人の名前は、風にとってどんな魔法よりも大きな「力」を持つ言葉だった。光は、チゼータでランティスと共にいて、生きるために必死に戦っているはずだ。そして、海はクレフを追いかけてチゼータに去ったという確信があった。それぞれ選んだ道は違っても、自分の選択を信じているに違いない。
 風は、ぎゅっと目尻を抑え、涙をぬぐった。光と海の知る風は、こんなに成す術なく泣き崩れるほど弱くはないはずだ。たとえそれが風の本当の姿ではなく、ただのやせ我慢であったとしても、二人が信じてくれるなら、そうありたかった。
 
―― 泣いているだけでは、何も変わらない……
 セフィーロにとどまった自分だからこそ、何かできることがあるはずだ。風は手早く服を身につけると、廊下に出た。光も海も、フェリオもいないセフィーロ城はやけにがらんとして、足音が大きく響いた。足は自然と、クレフの部屋に向いていた。 

 クレフの部屋はいつも固く閉ざされ、クレフ以外は開けることができない。それは、セフィーロ城に住む者なら誰でも知っている常識だった。クレフがセフィーロに少しでも戻ってくるつもりがあるのなら、ドアは今までどおり閉ざされているだろう。しかし逆に戻ってこないつもりなら、ドアは開け放たれているはずだ。クレフの性格からして、自分がいなくなるのなら、すべての知識を残された者たちに引き継いでいきたいと思うはずだからだ。そして……おそらく、その中にはこの災厄の謎を解くヒントもあるはず。
 
 風は、クレフの部屋の前までたどり着くと、ため息をついた。そして、半分開いたままになっていたドアを見つめた。
「……失礼しますわ」
 彼女は一例するとそっとドアを開け、無人の部屋に足を踏み入れた。
 

***


 風は後ろ手にドアを閉めると、部屋の中をぐるりと見まわした。壁は透き通っていて、青空や緑が見えている。ふわりと青い鳥が旋回し、壁に飛び込むのを見て風は息を飲んだ。水面に落ちた小石のような紋様を壁に広げ、鳥は何事もなかったかのように部屋の中に入ると、テーブルの上に舞い降りた。部屋の中だと言うのに緑が青々と育ち、見たことが無い植物や鉱物が壁沿いに並べられている。魔法の力とは分かっているが、一体どんな仕組みなのか好奇心が掻き立てられる。逆の壁側には天井まで本棚が並び、本がびっしりと並べられていた。こんな事態でなければ、ゆっくりと一冊一冊目を通してみたい。
 
 初夏を感じさせるそよ風が、部屋の中に吹き込んだ。その時、パラパラと軽い音がして、風はテーブルの上に視線を戻した。鳥が群青色の尾羽を揺らしている隣に、一冊の本が開かれたまま置かれていた。何気なく歩み寄って、風ははっと気付いた。
「……あれは、『写本』?」
 直接風が手に取ったことはないが、飛行艇の中でタトラが大事そうに持っていたから記憶にとどめていた。チゼータの王家が、クレフに解読を依頼していた本。クレフが苦もなく解読し、『扉』をめぐる歴史を海たちに語ったと聞いている。

 一目見て、クレフらしくないと思った。写本とは言え預かり物を放置する彼とも思えなかった。風は歩み寄り、何気なくめくられていたページに目をやった―― 次の瞬間、鋭い悲鳴を上げた。
「どういうことなの……?」
 そんな馬鹿な、と思った。なぜ、こんなものがこの世界に存在するのだ? ありえない。震える手で表紙を見た時、風の目は見覚えのある紋様を捉えた。
「星? いえ、これは……五芒星」
 風も詳しくはないが、世界に関わらず、宗教的な意味で使われているはずだ。いや、これは日本に限定して考えるべきだろう。風は改めてページをめくった。
「……やっぱり。全て日本語で書かれている……」

 混乱していたのは長い時間に思えたが、それでも10秒にも満たなかっただろう。
 この世界の過去について著されたこの本が、日本語で記されている理由はもちろん気になるが、それよりも今は、なぜクレフが解読できたかのほうが不思議だった。クレフばかりではない、オートザムでも解読できたというのだから謎が深まる。

 不確定要素は数多いが、少なくとも738年よりも前に、この本が著されたのは確実だ。そして内容からして、この本の著者は当時起きた危機の真実を知ることができた、数限りない人物の一人だったことも間違いない。
「まさか。魔法騎士から『柱』になった『巫女』ご本人が……」
 『巫女』と呼ばれていたこと、そして表紙に記された五芒星は、日本の宗教的な意味で一致する。巫女が、限られた人物に伝えるために日本語で史実を書き遺した。そしてクレフに日本語を教えた――
「……違う」
 風はすぐに首を振った。海の話によれば、この本に視線を落としたクレフは「この本を書き残したのは誰だ」と言ったきり絶句してしまったらしい。この本は写本ではあるが、元の字体をそのまま印刷したものだ。巫女がクレフに日本語を教えたのが事実なら、巫女の筆跡をクレフが知らないとは考えにくい。
 
 では一体、誰が?
 風はそこで頭を思考を止めた。これ以上いくら考えたところで、推測の域を出ない。それよりも、本の中身を確かめることのほうが先決だろう。
 風はテーブルの前にあった椅子を引き寄せて腰掛け、一枚目のページに視線を落とした。墨で書かれたのだろう筆跡がそのまま残っていた。女性にしては力強く、流麗な文字で書かれている。風はどくんと胸が高鳴るのを感じた。

* last update:2013/8/27