※ 番外編「双極」から続いています。
動物が、好きだった。
物心ついた時から、人付き合いが苦手だったからだ。人間嫌いではなかったが、自然と距離を取ってしまう。何気なく自分が放った言葉で、相手の表情が固まるのを見て怖くなった。傷つけてしまったのだと思い、相手の傷の深さが想像もつかず、どう謝ればいいのかも分からないまま、後悔だけが積もっていった。傷つけたり傷つけられたりするのは当然だ、気にしすぎだと笑われたこともあった。でも、皆がどうやってこの気持ちに折り合いをつけて日々暮らしているのか、わからなかった。
動物なら、言葉を発しなくても傍にいるだけで気持ちを通わせられる。だから、人間よりも獣や鳥や虫の傍にいる時のほうが癒された。だから将来は、厩舎で馬の世話をするのでもいいから、動物と接する仕事がしたかった。
いつからだろう? そんなさりげない、将来の夢を語らなくなったのは。そして、いつからか誰にも尋ねられなくなった。未来への道は、他の誰よりも決まっていて逸れるのは許されなかった。唯一、理解者でありつづけた双子の姉は、人生は思うままにはならないのだということを、その身をもって示すことになった。
双子の姉弟として過ごした優しい日々は、あの夜を境に引き裂かれてしまったのだ。
***
鼓膜を突然、甲高い悲鳴が打った。皇昴流は闇の中で目を見開いたまま、しばらく金縛りにあったように動けなかった。冷たい汗が頬を流れ、どくん、どくんと心臓が激しく鳴っている。いつでも闇討ちに備え、敵の気配に飛び起きられるよう訓練された肉体には、あってはならないことだった。
―― 誰だ……?
それきり、何の物音も聞こえない。誰かが気づいた気配すらなかった。しかし生々しい声が、まだ耳元に残っていた。大人の男性のようだったが、この屋敷内の誰の声とも違っていた。誰かがこの屋敷内に侵入した? そして屋敷の不寝番をしている者に見つかり捕まったか。だとすると、この静けさは妙だった。
だからといって聞き違いだったと安心はできない――というのが皇家の皇家たる所以だ。陰陽師にとって、敵は生身の人間だけではないのだから。この世の声ならぬ声を聞き、在ってはならぬ存在を見、滅するのが仕事だ。昴流は、そろりと闇の中で身を起こした。途端に濃厚な血の匂いがよぎり、彼は反射的に枕元に置いた錫杖を握った。
こういう場面でどうすべきなのか、現当主である祖母からは強く言い含められている。次期当主たる者が、危険な場に先んじて出て行くなどあってはならない。配下の者を呼び、原因を確かめさせるべきなのだろう。でも、と昴流は心中で首を横に振った。上に立つ者らしくないといわれる所以だったが、この深夜に誰かを呼びつけ、仕事を言いつけるのは申し訳ないと思ってしまう。戦乱の世で、陰陽師たちも疲れている。不寝番の者たちも、本心では何も起こりませんように、と願っているに違いないのだ。だったら自分が行けばいいと考えを持っていってしまう。次代らしい、と周りの者からは時々苦笑されたが、祖母からは、いつかそれが命取りになると厳しく窘められていた。
―― ごめん、おばあちゃん。
昴流は錫杖を手に、音も無く立ち上がった。今回は、遠慮だけが原因なのではなかった。手練の陰陽師揃いの屋敷内で、気づいているのはおそらく、自分だけ。他の誰もが気づかない時点でただ事ではない。それに、本能が今までにはない危険を告げていた。
昴流は、闇の中で軽く唇を噛んだ。視線は、月光で明るい障子越しの庭に向けていた。
真夜中の庭園は、闇と月の光によって、黒と白に塗り分けられていた。縁側に立った昴流の影が、長く庭に伸びている。枯山水は水の流れのように陰影の渦巻を創る。暑くも寒くもない、春の夜だった。さっと風が吹いたと思うと、白い花びらが頬にひらりと落ちる。桜だ、と思ったが、色を無くしたように花弁は真っ白に見えた。ただ、淡い花の香りだけが残った。
―― いったい、誰が……
声を出すのも躊躇われるような、静かな景色だった。花びらが石で出来た流れの上に落ち、ぽちゃん、と音を立てそうだった。まるで音のない夢だ。いや、これは現実で、悲鳴を聞いたと思ったのが夢の中の出来事だったのか。わずかに混乱した時だった。
はっ、と昴流は息をのんだ。今の今まで誰もいなかったはずの庭の中に、闇がわだかまっていた。目を凝らすと、確かに人の輪郭が見て取れた。逆光になってよく見えないが、白い着物の肩がわずかに照らし出されていた。一体、何者だ? どくんとまた、鼓動が胸を打つ。枯山水の中央にいるが、周囲の石は全く乱れていない。というよりも、この庭の中央に、全く音を立てずに現れるなど不可能だ。また、血の匂いが漂う。昴流は、錫杖を手の中で握った。身体は勝手に、戦いの準備を整えている。しかし本心を言うなら、戦いたくはなかった。
昴流は気配を殺すのをやめ、すっと人影のほうへと歩み寄った。衣擦れの音に、人影の主がこちらを見るのが分かった。
「どなたですか」
背筋をすっと伸ばして、昴流は問うた。相手の身体が、ゆらりと揺れる。傷ついているのかもしれない、そう思ったとき、かすれた声が発された。
「……昴流」
え、と思う間もなかった。相手はよろめき、そのまま庭に突っ伏すように音もなく倒れた。その白い背中のところどころに、点々と黒いものが散っている。血だ――そう思うと同時に、昴流は裸足のまま庭に飛び出していた。かしゃん、と錫杖が縁側に落ちた。叫びが勝手に口をついて出た。
「北都ちゃん!」
胸が真っ白に凍るような気持ちで、昴流は双子の姉の細い身体を抱き起こした。いつものように夕食を共にし、また明日と自室に別れたはずだった。あれから数時間しか経っていないのに、一体彼女に何があったというのだ。
力なく首を逸らした北都の頬はげっそりとやつれていた。まるで過酷な状況に長期間置かれていたかのようだった。少なくとも、たった数時間でこれほど憔悴するのはあまりに不自然だ。巫女の装束のところどころが裂け、滲んだ血はまだ乾いていなかった。そして、全身に点々と滲んだ血痕の中には、彼女以外の血も混ざっているようだった。間違いない、北都は誰かと戦い、これほどの重傷を負わされたのだ。カッと頭の芯の部分が熱くなるのを感じた。昴流の怒りを感じ取ったのか、北都がわずかに唸り、身を震わせた。
「北都ちゃん!」
耳元で何度か呼びかけると、彼女はゆっくりと目を見開いた。定まらない視線を周囲に向けていたが、不意に視線が昴流で止まる。まるで、知らない相手を見るように、まじまじと見つめてくる視線に、なぜか昴流はぞっとした。
「昴流。昴流なのね。私……『帰ってきた』の?」
「『帰ってきた』……?」
昴流は眉をひそめた。言われた言葉の意味が、まったくわからなかった。
いつも快活に振舞っているため分かりづらいが、彼女はいつも心の底では冷静だ。特に、周囲の人に対する洞察力は、弟である昴流も到底かなわないと思っているくらいだった。昴流が傍目は穏やかだが内心は激情家だとしたら、彼女は真逆だった。その北都が、傍目からもはっきり分かるほどに動揺している。触れ合っているところから、彼女の震えが伝わってきた。ふっ、とその身体から突然、緊張が抜ける。
「北都ちゃん……?」
呼びかけてみたが、彼女は固く目を閉じ、身体からはぐったりと力が抜けていた。
つんときな臭い香りが鼻をついた。血のにおいの中に、何かが激しく燃えたような焦げ臭さも混ざっている。思わず昴流は周囲を見渡したが、火災などどこにも起こっていないのは明らかだった。この数時間、北都は一体どこに――それに、昴流をたたき起こしたあの悲鳴は、北都のものではなかった。当然、何があったのかは気になるが、北都の治療が先だ。幸い、周りに敵の気配は感じない。
細身だが昴流の力は強い。身長はほとんど変わらない姉の身体を軽々と抱き上げると、闇に背中を向けた。その刹那、頭上で風が鳴った。はっ、とするよりも先に身体が勝手に動いた。昴流は振り返らないまま、体を低めて背後に飛び下がった。髪を掠めて剣のようなものが通り過ぎる。昴流は北都をしっかりと抱えたまま、体勢を整えた。そして、闇の中に現れた影を見やった。相手が何者か、そして武器を確認しなければならない。
「なんだ、あれは……?」
その途端に、心臓が一度大きく打った。月光を背負ったその大きな影は、昴流の身長を遥かに超え――5メートルはあるように見えた。ずしん、と足が踏み下ろされ、振動が昴流の身体にびりびりと伝わった。人間ではありえない。でも、こんな獣はいない。「異形の者」はその腕を大きく振り上げた。ぎらり、と腕の辺りで金属が光る。振り上げた先に月光が当たり、昴流は目を疑った。剣を持っているのではない。その者の右腕そのものが、巨大な剣のような形をしていた。
「――っ!」
昴流は辛くも次の攻撃をかわした。人間でも、獣でも、ましてや霊魂でもない。あんな巨大で正体も分からない化物と、戦う訓練など受けていない。相手の影が覆いかぶさり、昴流は無意識のうちに背後に下がった。踵が縁側につかえ、昴流ははっとした。とっさに振り返ると、視線の端で何かが光った。さっき、自分が取り落とした錫杖だろう。腕の延長のように扱ってきた、相棒だった。昴流はひとつ、息をついた。
「……」
幼い頃から、どうしても受け入れがたかったのが陰陽師としての修練だった。人を傷つけるのが恐ろしく、人を避けるまでに至った自分にとって、人を攻撃する術を学ぶのはあまりにも本心からかけ離れていた。修練を始めると同時に渡されたこの錫杖も、部屋にもって入るのを嫌い、部屋の外に立てかけていたくらいだ。そこまで忌み嫌った武器を見て、これほど冷静さを取り戻すとは皮肉だった。
昴流は、北都をそっと縁側に降ろした。気を失っていてもなお、彼女の表情には苦痛が刻まれている。昴流は錫杖を手に取った。昴流が相手を傷つけるのを好こうが嫌おうが、それがどうしたというのだ。相手が既知の敵だろうが未知だろうが、戦わなければいけないという状況には何の変わりもないのだった。相手が怪物なら尚更、昴流がこの場で倒さなければならない。ここで負けるわけにはいかない――皇家で最も強いのは、他ならない彼自身なのだから。
昴流は、敵に向き直った。
後退をやめた昴流を前に、化物もその動きを止めた。膠着状態は、一瞬。直後、双方が同時に地を蹴った。
―― 思い出せ……
幼い頃から受けてきた、陰陽師としての過酷な修行が胸をよぎった。「生きている者はおろか、死者すら滅することが出来る」と教わった。そんな力はいらないと、そのときは思ったものだったが、そんな気持ちは頭から吹き飛んでいた。殺さねば、殺される。頭の中からは恐怖心が吹き払われ、驚くほどに冴えていた。自分の命にどれくらいの価値があるのか昴流にはまだ分からないが、姉や一族の者を殺させるのだけは嫌だった。教わったままに、昴流はまっすぐに錫杖を突き出した。
化物の胸を貫いた時、当然腕に来るだろうと思っていた衝撃は、何もなかった。代わりに、轟音のような叫びが化物から発せられる。強い風が巻き起こり、昴流は目を庇いながら背後に飛びのいた。そして再び前を見やり、昴流は唖然とした。
「……何もない?」
あれほど強い風が起こったはずなのに、周囲には葉ひとつ落ちていなかったし、そもそも庭石もほとんど踏み荒らされていなかった。そこには、昴流の足跡だけが残されていた。それに、あんな叫びを聞いたというのに家の者が誰も起きてこないのも変だった。
そもそも、敵の気配がないことは、あの化物が現れる前に確認していたではないか。それなのに、あれは突然、何の前触れも無く現れた――まるで、北都が現れた時のように。
「昴流……」
背後からの声に、昴流はぎくりとして振り返った。縁側で、北都が身を起こしていた。頭がはっきりしないのか、こめかみを右手で押さえている。
「今……何か、そこにいたの?」
北都の息が荒いのが、離れていた昴流にも分かった。化物と戦っていたなどと、今の動揺した北都にはいえなかった。
「……分からない。それより、ひどい怪我だ、人を呼ばないと」
「待って」
北都は掌を昴流の前にかざした。
「待って。それより、ここに来て」
訳が分からないままに、昴流は北都の元に歩み寄った。北都は、隣に座った昴流に身を寄せた。顔を伏せていたが、彼女が動揺を必死に抑えようとしているのは分かった。いつも昴流が落ち込むたびに、支えてくれるのは北都の役目だった。こんなときに、どうしたらいいのか分からない。昴流は、北都の背中をぽんぽんと撫でるように叩いた。
「いったい、何があったんだ? それに、そのけがは……」
当然怪我は心配だが、それよりも彼女の精神状態のほうが今は心配だった。北都は、しばらく逡巡した後にぽつりと呟いた。
「昴流は……異世界、を信じる?」
昴流は驚いて、顔を伏せたままの北都を見下ろした。
「それは、黄泉のこと?」
「違うわ。生者たちが住む世界のことよ。でも、違う次元で、わたしたちとは異なる秩序のもとで人々が暮らしているの」
昴流は黙って首を横に振った。北都が何を言おうとしているのか分からなかった。
「信じられない。信じられないことだけど……私は今のいままで、異世界にいたの……そこで、戦ってた」
北都の言葉に、昴流は思わず彼女をまじまじと見返したまま、言葉がでなかった。しかし、頭の中ではめまぐるしく考えていた。異世界など、にわかに信じられることではない。しかし、北都の全身に刻まれた傷と返り血は絵空事でも夢でもなく、本物だ。そして、立っていられないほど憔悴していた彼女が、遠い場所で戦っていて戻ってきたとは思いにくい。しかし、戦いがここであったなら、こんなになるまで誰も気づかないはずがない。誰かの悲鳴を聞いて庭に出た時、ふと感じた違和感を思い出した。
「信じられないわよね」
北都は力なく言ったが、昴流はそれを打ち消すように首を横に振った。
「北都ちゃんの言うことなら、僕はどんなことでも信じるよ」
「……ありがとう、昴流」
ようやく、いつもの口調が戻ってきて、昴流はほっとする。北都は息を荒げながらも微笑んだ。
「昴流だったら、こんなドジは踏まなかったかな。陰陽師としての才能が、昴流の百分の一でもあったら良かったわ」
北都は力なく微笑んだ。そして、北都が語った話の内容は、昴流には意味は分かっても、すぐには理解しがたいものだった。
「――じゃあ。北都ちゃんがここに戻ってくるには、その世界の『柱』を倒さなければいけなかった、っていうことなのか?」
「あんなことしたくなかった……でも、気がついたら、私はあのひとを……あのひとは、もうずっと、死にたかったんだって言った。でも。そんなはずはないわ。あの人は、ある人を誰よりも何よりも大切に思った、ただそれだけだったのに」
そう言って顔を上げた北都の目には涙が滲んでいた。昴流の脳裏に、彼の目を覚まさせた誰かの悲鳴がよみがえり、背中につめたい汗が流れた。
「……私は『ひとごろし』だわ」
「北都ちゃん」
「ごめんね、昴流」
北都は真っ直ぐに座りなおし、昴流の目を見つめてきた。もう震えてはいなかった。
「……私は、『約束』したの。あの国を護るって」
どうしてだか、なぜだか分からない。でもその時、昴流は事情がまだ分からないながらも、絶望的な想いがこみ上げるのを感じていた。そして、その瞬間から、長い二人の別離が始まったのだ。
***
あれから、何年もの時が流れた。昴流は皇家の当主となり、北都は「セフィーロ」と呼ばれる異世界で、彼女が滅ぼしてしまった先代の『柱』の後を継いだ。北都は定期的に皇家に戻ってきたが、数時間滞在するだけで慌しく帰っていった。互いを大切に思う気持ちに代わりはないが、北都がわざと距離を開けようとしていることは知っていた。そして、その理由も。
昴流は縁側に佇み、庭園を見るとはなしに見つめていた。あの時、傷ついた北都を助けた場所だった。同じ場所に月が浮かび、庭の風情も同じで、乱れていた枯山水が綺麗に整えられている以外は何も変わりがなかった。
「こんばんは、信貴羅(しぎら)」
にっこり微笑んで振り返り、ちょうど歩み寄ってきていた信貴羅を見やった。彼はたくましい腕を組み、口をへの字に曲げていた。
「気配を消してたのに、なんで分かるんだ?」
「なんとなくだよ」
「つまんねぇな」
信貴羅は放り投げるようにそう口にすると、昴流の隣にどすっと腰を下ろした。そして、持っていた酒瓶と杯を縁側に置いた。そのうちのひとつを、昴流に差し出す。
「い、いいよ僕は。飲めないし」
「あの牛飲女の弟とは思えねぇ言い草だな」
「北都ちゃん怒るよ、その言い方は」
「本当なんだから仕様がねぇ」
お構いなしに注がれた酒を仕方なく受け取り、昴流は腰を下ろした。全く酒を受け付けないわけではなかったが、酒の香りが鼻を掠めるだけでふわりと酔ってくる。
「おい、飲まねぇのかよ」
「僕は香りだけでいいよ」
「なんっだ、そりゃ」
そう言い交わす間にも、信貴羅は自分の杯に二杯目を注いでいた。
しばらく互いに黙って外の景色に視線を向けていたが、やがて信貴羅が口を開いた。
「帰っちまったのかよ? 北都は」
「うん。ついさっきね」
「いつも慌しいな」
「……しかたないよ」
信貴羅が何か言いたそうに昴流を見たが、すぐに夜空に視線を戻した。
「未だに信じられねえよ。異世界に行っちまってるなんて……本当はどこか遠くにいるだけって落ちはねぇよかよ?」
「それはないよ。北都ちゃんの気配をどこにも感じないから」
「陰陽師の身としちゃ、黄泉の国へ行ってるって言われたほうがまだ納得できるけどな」
「黄泉でもないよ。……やっぱり、北都ちゃんの気配はそこにもない」
昴流をじっと見てくる信貴羅の視線を感じた。
「……ある意味、北都よりもお前のほうがよっぽどオカシイぜ。今日だって、お前はわずかな間とはいえ、黄泉から死者を呼び戻して見せたよな。そんな力、文献でも聞いたことねぇよ。お前、死んでもケロッとして戻って来そうだよな」
「それは死んだことがないから分からないよ」
「冗談を素で返すな! ていうか、前から気になってたんだが、お前にとって黄泉ってなんなんだ? まさか隣村くらいの意識ってことはねぇだろ?」
「隣村じゃないよ」
「だろ? さすがにもっと遠……」
「もっと近いよ」
昴流は信貴羅を遮った。普段話をしていて誰かを遮るなどまずないし、ましてや自分の感じている世界について語ったことなど一度もなかった。北都が去り際に残していった悲しい余韻のせいかもしれない。昴流は言葉を継いだ。自分が普段感じている「あの世界」を、どう言ったら伝わるだろうと考えていた。
「現世と黄泉は、一つの扉をはさんで、背中合わせに向き合ってるようなものだと思うんだ。でも、北都ちゃんが『セフィーロ』と呼ぶ異世界は、僕にも、その存在さえ掴めない。本当に、全く別の次元にあるんだと思う」
「……お前の目には、世界はどんな風に映ってんだよ……」
信貴羅はなんともいえない感情が入り混じった顔をして、黙った。
「どうせお前には分からないよって顔してんな。どうせ俺は普通の陰陽師だよ」
「そんなことないよ。僕だって普通の人間だ」
思わず昴流は笑った。
「僕にも、分からないことはいっぱいあるよ。たとえば、どうして信貴羅は今ここに来たんだろうって」
「あ?」
「……どうして、今晩は僕が眠らずにここにいるつもりだって分かったんだ?」
信貴羅は少し目を見開き、首を傾けて考えてから、首を横に振った。
「……なんとなく、だな」
今日の夕方、昴流と北都の前に現れた「化物」のことが、頭から離れなかった。姿かたちこそ違っていたが、気配が全くないまま唐突に現れたのが、なんともいえないその雰囲気が、数年前に見た「化物」と酷似していた。昴流が感じ取れない存在は、ただ一つだけ「異世界」に存在する者だ。となれば、「化物」がどこから来たものなのか、答えはほぼ出ていた。ただし、なぜ今になってまた現れたのかが分からない。
「……何か起こりそうだ」
「まかしとけ。何が襲って来ようが、孤児だった俺を育ててくれたこの家に、恩は返すぜ」
「……信貴羅」
「おまえは、北都のことだけ心配してりゃいいさ」
昴流は答える代わりに微笑んだ。
誰よりも、何よりも「世界」を、さらに言えば「世界の存続」を願わなければならない、というセフィーロの『柱』のルールを、昴流は思い出していた。昴流も今、当主として家を護らなければならない立場にいる。個人よりも、家の存続を選ばなければならない時も来るのかもしれない。その時、昴流は自分がどうするのか、まだ分からない。個のために全が犠牲になるのも、全のために個が犠牲になるのも、正しいとは思えなかった。
北都は、この家に帰ってくるたびに、楽しそうにセフィーロの人々の話をする。当初こそ、『柱』を殺してしまった罪悪感から後を継ぐのを選んだ彼女だが、その理由は少しずつ変わっているようだった。さっき、北都が涙を流しながらもどって行った先の異郷の人々が、彼女に優しければいいと昴流は願った。
「……でも、いいのかよ? このままで」
信貴羅の視線を感じた。昴流は小さく首を横に振った。
「……いつか必ず、迎えに行く」
自分勝手だな。
そう、昴流は思わずにはいられなかった。北都はとっくに、セフィーロで一生を終える覚悟を決めているように見えるのに。それなのに、昴流はそうは思わない。自分本位な願いのままに、いつかセフィーロの多くの人を、傷つけてしまうのかもしれない。
しばらくして、
「……独りで背負うなよ、昴流」
ぽつりと返した声が聞こえた。
* last update:2013/12/2