エメラルドグリーンに輝く波が連なる先には、真っ青な空を背景に、入道雲がぐんぐんと立ち上がっていた。日差しは強いが、吹き抜ける風は汗を感じないほどに涼しい。優しい揺りかごのような大気の中で、うっとりと目を閉じているような大陸――当時のセフィーロには、「神が棲む」と言われていた。

「たった一人の心がこの世界の全てを創っているなんて、この地に立つと尚更信じられんな」
 濡羽色の髪を後ろでひとつに束ねた男が、周囲を取り巻く木々を見やり、感嘆のため息を漏らした。ゆったりとした筒袖の着物を身にまとい、鮮やかな青の帯で腰を締めている。ぞろぞろと歩いていく一群の人々の格好はさまざまだった。金髪で、かっちりと身体に沿った服を身に着けた男や、褐色の肌を露にした原色の服をまとった女も見える。セフィーロに視察に訪れた、ファーレン・オートザム・チゼータの者たちだった。はじめに声を発したファーレンの男が、先頭を行く白いドレス姿の女性に声をかけた。
「全くもって美しい国ですね、導師ロザリオ。国は美しく、民は幸せに暮らしている。我々も学ぶことは数多い」
「いいや。各々の国に、学ぶべき良さがある」
 ロザリオは肩越しに振り返った。長い銀髪といい、踵まである白のドレスといい、まるで彼女自身が淡い光を纏っているようだった。
「これからもセフィーロは安泰ですね。あなたの10歳になるご子息も、見るたび成長に驚かされます。次の導師との呼び声が高いそうですね」
 オートザムの使者の言葉に、ロザリオは一瞬、言葉を止めた。
「……先のことは、誰にも分からんよ」
 そう言うと、ロザリオは身を翻した。

 人々のざわめきを背後に聞きながら、ロザリオは物思いに沈んでいた。ここにいる誰もが尊敬に足る人物だと思うし、それぞれの国に良さがあると思うのは本心だ。この世に憂いはなく、皆が幸せに暮らしている。それなのに自分だけが、この平和に安心して寄りかかれずにいる。
――永く、生きすぎたのかもしれないな。
 周りの人々がみな死に、子が孫をなし世代が次々入れ替わっても、ロザリオは一人生き続けてきた。その中で何度も見てきた戦争を、思い起こさずにはいられない。「自分たちだけは特別だ」。「いくら過去に戦いの歴史があっても、自分たちの時代で同じ過ちは繰り返さない」。みな当然のようにそう思っている。そしてその思い込みは、いつも裏切られてきた。親しかった人々はいとも簡単に引き裂かれ、互いを憎むようにさえなっていく。登場人物だけが異なる同じストーリーを、何度も目の前で見せられているような気持ちになる。


 それでも、誰よりも争いを見てきたからこそ、誰よりも平和を求めてきた。いずれ安寧の時は終わると半ば確信を持ちながらも、今度こそ本物の平安の中にいるのではと思いたい自分もいる。その証拠に、今のセフィーロは自分が知るどの時代よりも美しく、光に満ちているではないか―― ロザリオは、木漏れ日が差し込む明るい森の中を見渡した。
 結局は、ロザリオにも先のことは分からない。この世界の『神』である、たった一人の『柱』の存在を、包み込まれるように感じている。こんな風に『彼女』のことを安らかに想う時が来るとは、はじめて出会った時は想像もできなかった。



「……あれは、御子ではないか?」
 背後の声に、ロザリオははっと我に返った。森が突然切れて見晴らしがよくなり、目の前には川を挟んで崖がそびえ立っていた。その崖の天辺に、クレフの姿が小さく見えた。叫べばようやく声が届くくらいの距離だった。クレフは危なっかしいそぶりで、崖の上から下を覗き込んでいた。銀色の前髪が、崖下からの風にあおられて揺れている。見上げているロザリオたちの姿は、別のことに気を取られていて気づいていないらしい。身長を越えるほどの長い杖を持っていた。


 あっ、と人々の中から同時に声があがった。
 クレフが、いきなり崖からひらりと飛び降りたのだ。崖は15メートルほどあり、とても生身の人間が落ちて助かる高さではない。
「危ない!」
 飛び出そうとした人々を、ロザリオは腕で制した。クレフは空中で地面をきっと睨み、額に戴いた青い宝玉に触れた。同時に、宝玉から青い稲妻にも似た輝きが放たれ、周囲が青く染まった。
「……なんだ、あれは? 馬なのか」
 ふたたび目を開けた人々は頭上の光景に目を見張った。クレフは、忽然として現れた馬の背に横向けに座っていた。体毛は真っ白で鬣は銀、そして瞳の色は、今放たれた稲妻と同じく、深い青だった。翼もないのにゆっくりと空中を降りてゆく姿は、どう見ても普通の馬ではない。
「……導師ロザリオ、あれは……?」
「魔法で生み出した使い魔の一種だ。『精獣』という」
 淡々と説明しながらも、ロザリオは内心驚いていた。ロザリオでさえ、精獣を呼び出す時には一瞬の精神統一を必要とする。普通の魔導師であれば、1分とはかからないが時間がかかるのが普通だ。それなのにクレフはいかにも無造作に、魔法を詠唱することもなく精獣を呼び出して見せた。最近のクレフの熱心な修行の成果が現れているのだろうが、それにしても才能がなければできる業ではない。


 クレフは、崖から突き出した一本の枯枝のところでぴたりと止まった。手を伸ばして抱き取ったのは、鳩ほどの大きさの鳥だった。怪我を負っているのか病気なのか、ぴくりとも動かない。クレフは、馬の背に座ったまま、鳥を両腕で包み込んでそっと見下ろしている。
「死んでいるのか……?」
 誰かがそう呟いた。クレフはやがて、両腕を空に差し上げた。すると、動かなかった鳥は急に、両翼を大きく広げる。おぉ、と声が上がる中、鳥は軽々と飛び立った。そして、礼を言うようにクレフの頭上を旋回して、遠く飛び去っていった。


「驚いたな。あれは……まさか、死んだ者を」
「死者を生きかえらせることは誰にもできぬ」
 ロザリオは茂みを分けて崖下に姿を現した。気づいたクレフが、
「かあさま!」
 と一瞬うれしそうな顔になった後、見る間に当惑顔に変わった。ロザリオはクレフに二つのことを禁じていた。自然に死に向かうものを助けることと、他人の前で力を使うことだ。他者の間で広まれば、誰もが死にかけたとき、助けて欲しいと願うに違いない。でも全員を助けることなどできない以上、摩擦が起こるのはわかりきっていた。


「クレフ……」
 ロザリオが一歩進み出た時、崖上にもう一人の影が差した。
「ロザリオ! ごめんね、私がクレフに頼んだの。様子を見てほしいって」
 ロザリオを呼び捨てにするのは、世界広しと言っても一人しかいない。巫女と呼ばれる、セフィーロの『柱』だった。
「な、なんだ。あれは、『柱』の力なのか?」
「なるほど。あの方はセフィーロの秩序そのものだからな。これくらいは当然なのか」
 人々が顔を見合わせる。ロザリオは否定せず、ふわりと宙に舞い上がった。そして、空中でクレフとすれ違う。
「ごめんなさい」
 しゅんと目を伏せたクレフに、ロザリオはちらりと視線をやった。
「治癒能力のことは誰にも言うな」
 そして、崖の淵に座り空中で足をぶらぶらさせていた巫女の隣に降り立った。


「クレフを責めないでね、ロザリオ」
 ロザリオを見上げ、巫女は開口一番そう言った。巫女が頼んだ、というのは嘘だと分かっていた。彼女なら、あの鳥の手当てはしても魔法は使わないだろう。自然に死に向かっているなら、無理にそれをとどめたりはしないはずだ。一方でクレフは、ロザリオが禁じる理由を頭では分かっているものの、目の前で死んでいく生き物を目にすると、どうしても手を出さずにはいられないのだった。
「怪我を治せる治療魔法を持つ者は他にもいるが、病気までも治してしまうクレフの力は特異だ。あれは、広く知れ渡るべきではない」
「そうね。でも、心配はいらないのかも」
 ロザリオはあっさりと首を横に振り、続けた。
「クレフのあの能力は、もう長くはないわ。……治癒能力を失えば、クレフは悲しむでしょうけど。でも、しかたがないわ」
 ロザリオは思わず、巫女の横顔をみやった。髪が首筋にかかるくらいの髪型のせいか、少女のように見える。
「……視えた、のか?」
「ええ」
 巫女には、先を視る力がある。と言っても、自分が知りたい未来がそのまま分かる、というような万能の力ではないらしい。夢を見るようにふらりと、未来の一部分を垣間見ているようだ。映画のようにストーリーが明確に見えることもあれば、一枚の写真のように見えることもある。その意味も、分かったり分からなかったりと不安定らしかった。具体的に何を見たのか巫女はあまり語らないが、ロザリオも突っ込んで聞くのは控えていた。


「……あらゆる疾病を治す、特異な治癒能力は、人間が持ちうる中で最も清浄な力と言われている」
 ぽつりとロザリオがもらした言葉に、巫女は微笑んだ。
「クレフにはふさわしいわ。全ての生き物に分け隔てなく優しくて、暴力を嫌う子だもの」
「その力を持つ者は、100年に1人現れるかどうか。ただし、全て子供だ。大人になる過程でその力は例外なく失われたと聞いている」
 原因は、ロザリオもはっきりとは知らない。成長する時に避けられない「心の穢れ」が原因だといわれているが、本人たちが黙して語らないためだ。
 その背景を踏まえれば、クレフが力を失うのは自然な流れなのだろうが、なんともいえず、嫌な予感がした。



 崖下に集まった人々が、巫女にそれぞれに敬礼を送っている。巫女はにっこり微笑してそれに応えた。導師ほどではないが永い寿命を生き、セフィーロの中では神と呼べるほどの『柱』の存在に、他国の者たちも敬意をもって接していた。
 その傍に、精獣に跨ったクレフがふわりと舞い降り、あっと言う間に取り囲まれた。
「……あの精獣に『スバル』と名前をつけたのはあなただとクレフから聞いたが、由来は何なのだ?」
 白銀の神馬を見下ろしながら、ロザリオは問うた。そして、返された言葉は予想だにしないものだった。
「私の双子の弟の名前よ。昴流っていうの。もともとは、星の名前」
 ロザリオは少し意外に思いながら、隣に並んだ巫女を見下ろした。巫女が定期的に会いに行っている大切な者が、双子の弟だということは知っていた。しかし巫女は、弟はおろか自分の名前さえも口にしたことがなかった。一生、この世界の『柱』として生きることを宿命づけられた彼女にとって、「名前」は望郷の思いを高めるものでしかないのだろうと思っていた。


「……どんな方なのか、聞いても?」
「昴流のこと?」
 巫女の頬に笑みを浮かんだ。何かを思い出したような彼女の笑みはあどけなく、やはり子供のようだった。
「私と同じ顔形よ。ぱっと見て見分けがつかないくらい。でも、中身は正反対。昴流は優しくて、動物が好きで、人前に出るのが苦手で。子供の頃は特にしゃべらなくて、大人しい子だって言われてた」
「それに比べてあなたは、活発で歯に衣着せぬ子供だったのだろう?」
 巫女は噴出した。朗らかな笑い声を響かせた後、巫女は座ったまま背後に両手をつき、青い空を見上げた。
「それなのに、『陰陽師』……この世界で言う魔導師に近いかもしれないわね、その家の長男に生まれたから、跡継ぎになるのを期待された。動物にかかわる仕事がしたかったのに、それも家のために諦めて。かわいそうだったわ。昴流はみんなに愛されてたから、同情した人も多かったはずよ。私は、代われるものなら代わってあげたかった。……でも、できなかった」
「なぜ?」
「昴流が、一番強い陰陽師だから」
 巫女は言い切った。
「私が来た世界は、戦乱の時代を迎えてるの。昴流でなければ、護れない平和がある。昴流もそのことを、よく分かってる。だから当主になることを自分の意思で『選んだ』。普段は穏やかだけど、自分が戦うしかないと覚悟を決めた時、まとう空気が別人になるもの」
「……貴女が、『柱』になることを『選んだ』のと同じだな」
 似ている、と思った。巫女自身が、このセフィーロでは史上最高の『柱』だといわれているのだから。そして、本当は望んでいない未来に進むしかなかった境遇も。しかし、それを導師ロザリオの立場から、口にすることはできなかった。


 巫女がふっと吐息を漏らした。
「……クレフを見てると、昴流を思い出すの」
「似ているのか?」
「動物が好きで、優しいところは良く似てるわ。ただ……クレフはあれほどの力を持っているのに、誰も傷つけたことがないわ。大好きな動物たちに囲まれて、望みのとおりに幸せに生きてる。まるで、昴流が生きられなかった人生を、代わりに生きてるみたいね。……せめて名前だけでも、昴流をクレフに近づけてあげたかった、のかな」
「……巫女」
「できるなら、クレフにはずっとそのままでいて欲しい。……でも。辛い思いをさせることになるわね」
 不意に、巫女がぽつりと言った。
「なぜだ?」
「この世界は、もうすぐ滅びるから」


 鳥が一声高く鳴いて、上空を切り取るように鋭く飛んだ。見上げた時、世界が少し暗くなったような気がした。それも、彼女は「視た」のか。こればかりは、聞き流すわけにはいかない。ロザリオは巫女に向き直った。
「この世界が滅びる……あなたの身に、何か起こるということか」
「……私にも、分からないことがあるわ。自分と昴流に関することは、『視る』ことができないの。多分、あなたの言うとおりなのでしょう。でも、何が起こるのかは分からない」
「……巫女」
 二人の間を、柔らかな風が吹き抜けてゆく。『柱』は世界そのもの。世界が滅びるということは、『柱』の死を意味する。それなのに巫女は、まったく恐怖を顔にはあらわしていなかった。もしかすると本当に、恐ろしさを感じていないのかもしれない。巫女はむしろ、ロザリオを労わるような視線を向けていた。


「分かっているわ。私はあなたと遠い昔に『約束』した。私があなたに『お願い』をするのと引き換えに、私はこの世界を守ると。私は『約束』を守りたい」
 ロザリオは、巫女の隣に腰を下ろした。決してそう昔ではない、『柱』と初めて会った日のことを遠く思い出す。
「……もう、忘れてしまっていたよ。クレフと暮らすうちに、それが当たり前になっていたから」
「私も、忘れてしまってたわ。セフィーロを守ることが、いつの間にか当たり前になってた」
 二人は、顔を見合わせて微笑った。

「ねえ、ロザリオ」
 ぽろりと巫女が言った言葉の意味を、ロザリオはすぐに思い知らされることになる。
「世界の境界がなくなって、みんなが幸せに、自由に生きられる世界がくればいいのに、ね」


* last update:2013/12/15