カルディナが、エメロード姫が御座す城に呼ばれたのは、4年ほど前のことだった。姫の崩御のちょうど1年前になる。城にこもり、常にセフィーロのために祈っていたエメロード姫を楽しませるために、踊り娘として各地を回っていたカルディナに白羽の矢が立ったのだ。
「うっわぁ……」
 姫に会った一言目がそれだったのだから、傍にいたザガートに睨まれたのも無理はない。ひとに会って、これほどの衝撃を受けたことはなかったのだ。美しい、それだけではない、可愛いという言葉でも言い表せない。けぶるような金髪に、碧の瞳をもつ姫は、まるで花のようだった。

「エメロード姫は退屈しておられる。舞を」
 ザガートが感情のない声で言った。打って変わってカルディナは、ザガートにはいい印象をもたなかった。無表情で、まるで機械のような口調で「舞え」と言われても、テンションが下がる。少なくともカルディナは、命じられて踊るのは嫌いだった。踊りたいから踊る。踊りたくなければ踊らない。ただそれだけのことだった。

「ザガート」
 エメロード姫が控えめな声でザガートをたしなめる。ザガートは無言のままだ。沈黙が落ちた時、エメロード姫の背後からもう一人誰かが現れ、カルディナは心持ち身がまえた。エメロード姫よりわずかに身長が高い程度で、こちらも子供の姿だった。
「……異国の者か?」
 見た目通りの子供ではないと、その声音や言い方からわかった。決して、相手を圧迫しようとはしていない。物静かと言ってもいい。それなのにカルディナはたじろいだのを覚えている。あまりにその瞳が青く透き通っていたからかもしれない。しかし、その視線は混じり気なく強かった。

「……誰や? あんた」
「クレフという」
 あっさり名乗られて逆にカルディナは狼狽する。導師クレフといえば、エメロード姫と並ぶ国の中心人物だ。
「……うちは、カルディナ。出身はチゼータや」
 押されてたまるか、とカルディナは胸を張って答えた。本来敬語を使うべきなのだろうが、習ったこともないから分からない。
 改めて見ると、銀髪に青い目、白い肌。典型的なセフィーロの住人らしく、透明感のある輝くような色合いだ。金髪に碧の目で、同じように白い肌を持つエメロード姫とは、絵のような似合いの一対に見えた。エメロード姫は軽くクレフに会釈し、笑顔でカルディナに向き直った。

「わたしはエメロードと申します。異国のお話を聞かせてくださいませんか? カルディナ」
 カルディナが踊りたくない、と一瞬でも思ったのを察して、気を遣ってくれたのだと思う。ただ、話を聞いている時のエメロード姫は本当に楽しそうで、そのあと見せた舞いも、喜んでいてくれたように思えた。

 あの時、確かにエメロード姫とクレフを似合いだと思ったのだ。対して、ザガートはその冷淡さで、エメロード姫を圧迫しているようにさえ思えた――

「だーーっ!!」

 カルディナはそこまで思い出して、思わず大声を出した。馬鹿かうちは、と口のなかで呟いてみる。あれからわずか1年後に、ザガートがエメロード姫をさらったと聞いて、あの冷酷な男なら、さもあらんと思ったのだ。まさか、二人が想い合っていたなんて夢にも思わなかった。相思相愛とはいっても、おそらく互いに気持ちを直接伝えあうことはなかったのではないか。エメロード姫の特殊な立場から、恋すれば恋するほど背徳心に襲われる、辛い切ない恋愛だったことは容易に想像される。

 もしもそのことを前もって知っていたら、あんな戦いに手を貸すことはなかった。でも誰を責めるわけにもいかず、気づかずに軽い気持ちで手を貸した自分に責任があるのは間違いなかった。何度思い出してもやりきれず、そのたび叫び出したくなる。後悔などしたくはないが、この苦い思いを後悔ではないと流すことはできなかった。


***


「……どうしたの? カルディナ」
 いきなり背後から声をかけられ、カルディナは心中、飛びあがらんばかりに驚いて振り返った。
「アスコット! あんた、いつからそこにおったん?」
「今さっき。叫び声が聞こえたから。魔物じゃないよね?」
「……あー、ごめんごめん。何でもないんや」
 急に大声を上げたから、心配して見に来てくれたらしい。カルディナはひらひらと顔の前で手を振った。そして、回廊の柱の陰に立ち、こちらを見ているアスコットの姿が何だかいつもより小さく見えて、思わず二回彼を見直した。小さいどころか、カルディナを大きく凌ぐ長身なのに。背中を丸めているせいなのか、全体的に萎れて見える。

「なに?」
「いや。どこ行くん?」
「部屋へ帰ろうかと思って」
「うちも同じ方向やし、一緒に行くわ」
 座っていた窓枠からぴょんと飛び下り、白い石造りの回廊へと向かう。並んで歩き出すと、アスコットは少し嬉しそうだった。一人になりたくなかったのだろうと同情する。

 アスコットが落ち込んでいる理由は、カルディナには分かる。夕方、チゼータ行きに海を誘おうとしたのに、断られたのがショックだったのだろう。
―― まあ正直、厳しそうやけど。……今んとこは。
 下馬評と同じくカルディナも、海がアスコットを好きだとは思っていない。もし好きなら、アスコットがあれだけあからさまに恋愛オーラを出しているのに、全く反応しないということはないはずだ。それに、アスコットも、少なくとも今のところ、海が自分に恋愛感情を持っていないと分かっている。分かっていながら、健気にもがんばっている姿を見ると、なんとかうまく行ってほしいと思わずにはいられない。

「それにしても……」
 思わず、カルディナは独り言を言った。
「え、なに?」
「あ、いや、なんでもないんや。こっちの話」
 何か嫌な予感がする。そう続けるところだった。海は、誰にも恋愛感情を持っていない、そう思い込んでいたのだが。海が残ると言いだす直前に、クレフが他国へは行けないと話していた。その順番が妙に気になるのだ。そしてクレフがそう言っている時、海はずっとクレフを見ていた。その時の海の表情に、ピンとくるものがあった。

 海が好きなのは、あの導師クレフなのだろうか。クレフがアスコットの恋敵になりうるとしたら、まだ他の男よりマシなのか、もうぜんぜん駄目なのか想像もつかなかった。見た目は少年だし、中身は老人だし、カルディナにとっては、いろんな意味で「男性」と取るには規格外すぎる。ただ、アスコットはクレフからもう三年も、魔法を教わっている。師が相手だと知れば、アスコットは自分から身を引くような気もして、それはそれで不憫だ。

 それにカルディナが気にかかるのは、プレセアもまた、クレフに恋しているということだ。最高位の創師としての風格を漂わせる彼女が、子供のように怒ったり赤面したりするのは、クレフが話題に上がる時だけだ。わざとクレフを爺さん呼ばわりするのも、プレセアが頬を膨らませて怒るのがおもしろいからだったりする。カルディナにとってプレセアは大事な友達であり、尊敬する創師であり、同時に可愛い人だとも思っている。難しいと思いながらも、彼女の恋がうまくいくようにとずっと願ってきた。

 いくらセフィーロが意志の世界でも、ひとの心だけは容易に動かせない。でも思い続ければ届かないとも限らない。ただし、海もクレフのことを好きだとすれば―― 事は複雑になってくる。プレセアと海が思っている相手が同じだと、二人が互いに気づかなければいい。気づいてしまえば、二人は苦しむに違いない。

―― あの爺さん、なんでそんなにモテんねん……
 あの威厳たっぷりの法衣を引っぺがしてやろうかと思う。何のためにだとラファーガには呆れられそうだが、クレフの周りの困っている人達のことを思えば、それくらい困ってもらわないと釣り合わないような気がしてくる。クレフには非はなく、理不尽なのは分かっているが。
 あそこまで長く生きれば、セフィーロで暮らしていても汚い部分をたくさん見てきたはずだと思うが、不思議と老獪な印象はない。赤ん坊のような純粋なところもある、不思議なひとではある。

 ただし、ひとつだけカルディナは確信を持っていた。ザガートとエメロード姫の隠された恋にいちはやく気づいていたというクレフが、自分に向けられたプレセアや海の気持ちに気づいていない、ということはありえないと。たぶん、他の皆が思っているよりもずっと、クレフは人の心の機微に敏い。気づいていて、気づかないふりをしている理由はひとつしか思い当たらなかった。
―― 罪なお方や。
 カルディナは心中つぶやいた。

 エメロード姫の時代の『セフィーロ』は常春の国だった。若葉は永遠に若葉のままで、桜は限りなく咲き続ける、老いることを知らない春の国。いつまでも変わることなく、幼い子供の姿のままで生きるエメロード姫と導師クレフは、そのままセフィーロの象徴でもあった。しかしエメロード姫は最後の最後に、一人の人間として生きることを選んだ。死ぬ時のエメロード姫が成長した姿だったことが、永遠の時代の終焉を暗示していたように思える。……しかし導師クレフは、かつてのセフィーロのおもざしを残したまま、永遠に変わることなく生き続けるような気がした。

―― ほんま、もったいないわ。
 アスコットの少し後ろを歩きながら、カルディナはため息をついた。プレセアも海も、類稀なる、という言葉を惜しみなく送りたいくらい、綺麗だと思う。外見はもちろん、中身から光り輝くような美しさをもっている。もっと普通の相手に恋して恋されて、しあわせになってほしい。


***


「あ」
 アスコットが、不意に声を上げて立ち止った。カルディナは、その背中に顔から突っ込んだ。
「なんやねん一体?」
 アスコットの後ろから、夜の庭を覗き込む。しぃっ、とアスコットが人差し指を立てた。見れば、若葉がひっそりと息づく闇の中で、風と海が向き合っていた。二人とも、回廊から出てきたばかりのアスコットとカルディナには気づいていない。

 風はもう旅支度を済ませたのだろう、鞄を肩から提げていた。
「光さん、発たれる時に、海さんをおいていくみたいで嫌だって、最後まで気にされてましたよ」
 気遣わしげな風を、海は笑い飛ばす。
「オーバーなのよ、光は! 今生の別れじゃあるまいし。風も、なーんも気にせずに行ってらっしゃいよ」
「……海さん」
 風の声が、真剣味を帯びた。
「なに?」
「あなたがセフィーロに残る理由は……あの方がいるから、ですか?」
 二人の間に沈黙が落ち、カルディナはひやりとした。

「行こ! アスコット」
 小声で言って袖を引いたが、アスコットは石のようにその場に突っ立って動かない。視線は、まっすぐに二人に向けられていた。
「……そうよ」
 それぞれの間に、重たい沈黙が横たわった。再び口を開いた風の声は、少し震えて聞こえた。
「海さん……あの方は」
「分かってる」
 海は、意外なくらい鋭く遮った。
「分かってるわ。私は、何かしてほしいなんて思ってない。なにも望んでない。ただ、近くにいるだけで『幸せ』なの」
「……海さん」
「それなのに」
 海の口調が揺れる。
「それなのに、私……」
 二人の影が重なる。風が、海をそっと抱きしめる。そのまま、二人は無言だった。

「……行こ」
 もう一度カルディナがアスコットの袖を引っ張ると、今度は力なく背後へ下がる。
 これでは、誰の思いも成就しないではないか。
 切ないような悔しいような思いに急きたてられて、カルディナは唇をきりきりと噛んだ。







第一章 完




* last update:2013/7/15