日番谷冬獅郎は、途方にくれていた。
場所は、十番隊隊首室。
日番谷は、隊長用の執務机に座り、墨を含んだ筆を手に取ったところだった。
しかし、その墨は既に乾きかけている。

原因は、ひとつ。
日番谷の目の前、執務机の真ん中に、草鹿やちるが正座していた。
日番谷がサインするはずの書類は、もちろん、やちるの足の下である。
―― 邪魔なんだよ、この野郎!
普段の彼なら、その一喝と共にやちるを追い払っているだろう。

しかし、それが出来ない理由は・・・
「う・・・ひっく・・・だからね、剣ちゃんが『やちる』って言ったんだよ」
シクシク泣き続けるやちるにあった。

―― 涙が落ちる!書類に落ちる!
チラリ、と下をうかがい、冷や汗を浮かべる日番谷。
コレを仕上げるのに1時間もかかった上、提出先は雀部だ。
あいつのチェックは、殊の外厳しいのだ。
総隊長が見る書類なのだから、仕方ないのだろうが・・・
字が滲んだり、汚れがつくだけで、相手が隊長だろうが、即「再提出」の印を押されるのである。


日番谷が困っている理由は、他にもあった。
やちるが何を言っているのか、サッパリ分からないのである。
更木がやちるを呼んだ。でも、やちるは呼ばれても行かなかった。そして、更木は1人で行ってしまった。
当たり前ではないか。

「なんで、お前、名前を呼ばれて、更木に飛んでいかなかったんだよ?いっつもそうだろ」
「だって、あたしのことじゃないもん」
日番谷は、やちるをどかすのを諦めて、筆を硯に戻した。
「じゃぁ、何か?他にも『やちる』て奴がいるのかよ」
予想に反して、やちるはコクンと頷いた。
そして、日番谷が置いたばかりの筆を取ると、慣らし用の紙を引き寄せ、ぎこちない筆を走らせた。

―― 八千流(やちる)。
限りなく難読な、平たく言えばへたくそな字だが、そう読める。
「剣ちゃんの、特別なひとなの。『ただ1人、こうありたいと願う人』て。言ってた」
「そうなのか?」
日番谷は、思わず頓狂な声をあげた。
普通だったら、特別な人といえば、恋人とか家族とか、そういうのを指すだろう。
しかし、更木の「こうありたいと願う人・・・」
―― 殺人鬼・・・
絶対そいつは、更木よりも上の、殺人鬼に違いない。
「昔、剣ちゃん言ってたの。『八千流』って人に会ったのは、『猫目』だって」
あぁ・・・
日番谷は、思わず頭を掻いた。俺か。俺の失策か。

更木が、猫目に昔住んでいたことがある、というネタは、山本総隊長から得たものだった。
何をどう思ったのか、護廷十三隊に入隊した更木は、初めに一番隊に配属されたという。
当時、死神学校・・・真央霊術院に入学したばかりだった日番谷にも、その噂は届いていたから知っている。
その時に、直々に更木を鍛えたのが、山本総隊長だったらしい。

―― 前に住んでたことがあるなら、余計な血を流さないで済むかと思ったんだが・・・
『猫目』において発生した反乱軍が、中途半端な勢力だと聞いたからこそ、決めた人選だった。
更木の腕が昔から確かなら、おそらくその名を聞いた反乱軍は逃げ出すだろう。
更木も、自分より明らかに弱い人間に対しては、興味が無いのか剣を振るったりはしない。
でも・・・

「そこに、今も『八千流』って奴がいる可能性は?」
「わかんない。剣ちゃん、もうひとりの『八千流』のこと、しゃべんないもん。
あたしの名前を、その人から取ったってことくらいしか・・・」
物思いにふけりながら、筆を手慰みに走らせているやちるを見ながら、日番谷もまた、考えていた。

『猫目』で出会う更木と八千流。
飛び散る血痕、吹っ飛ぶ家々、壊滅する町。
「分かった。俺も行ってみる」
心の底からうんざりしながら、日番谷はため息混じりに言った。
もう更木が行ってしまった以上、今更止めるわけにはいかないし。
もしも更木が本気で暴れたら、隊長でなければ絶対に止められない。

「ほんと?ひっつん」
やちるが、涙に濡れた顔をあげて日番谷を見る。
「あぁ。この書類一枚仕上げたら・・・ん?」
その途端、執務室に、日番谷の押し殺した悲鳴が木霊した。
「どうしたの?ひっつん。大丈夫?」
「シメるぞてめえ!俺の渾身の書類に・・・書類に・・・」
汚れや染み一つでギャーギャーうるさい雀部が、書類の端に書かれたニコチャンマーク2つを許容する・・・とは思えなかった。
「1時間後に出る!お前も来たけりゃ来い。
ただし!この1時間は、一歩もこの部屋入るなよ!」

書類を右から左に書き写しながら、日番谷はチラリ、とニコチャンマークに視線を走らせる。
片方のニコチャンマークの頭には、ウニのようなトゲが11本、書かれている。
すぐ傍に、寄り添うように描かれたマークは、もう一つに比べると、異常に小さい。
日番谷は、少しだけ手をとめ・・・かすかに、微笑んだ。
―― アイツも、やっぱり、女だな。

それは、ガキっぽくて、たわいもなくて、すぐに捨てられてしまうものだが・・・確かに、やちるから更木へのラブ・レター。
いくら大切な人だといっても、生まれてから死ぬまで一緒なんてことはありえない。
必ず、自分の知らない「空白」が存在する。
仕方が無いと分かっていても、その空白に嫉妬したりするのだろうか、アイツも。
その空白に、更木の特別な人がいるとすれば、尚更。しかも、自分と同じ名前だ。

―― ん?同じ名前ってことは・・・
日番谷は、ある推論に達して、しばらく筆を止めたままでいた。


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