※「花の名」の続編で、超捏造な設定をぜんぶ引き継いでいるので、 それでもOKっていう方のみどうぞ!「花の名」の舞台から、さらに30年経ってます。 あの娘はきっと、お気に入りの屋上庭園の柵に腰掛けて、空座町を見下ろしている。 後ろの庭園では、吹き抜けた初夏の風が、ざぁ、と背後の木々を揺らしているだろう。 そうするとあの娘は嬉しそうに白い喉を反らし、涼しい風を全身で受け止めるだろう。 プラチナ色の髪、真っ白い肌、青の瞳。 次の瞬間にはふわりと宙に溶け、消えてしまいそうにその姿は透明感で溢れている。 一(はじめ)は、ダン、と音を立てて道路を蹴り、走っていた電車の屋根に飛び移った。 次の瞬間にはその姿は商業ビルの壁を蹴り、あの屋上庭園がある場所へ向かっている。 着物をまとったその姿は、行き交う人間たちの目に留まることはない。 全力で走り抜ける、彼女の姿を探す。 出会ったらあの娘は一瞬目を見開き、すぐに微笑みを顔いっぱいに広げるだろう。 そうしたら、何を話そうか。希望が胸一杯に膨らんだ。 *** 思った通りの場所に彼女の姿を見つけたのは、そのすぐ後のことだった。 柵の上に腰かけた彼女は左足を下にして足を組み、右足をぶらぶらと宙で揺らしている。 まるで気ままな猫が、寝転びながら尻尾をちょいちょいと動かしている姿を連想させた。 頬杖を突き、何か面白いことでも探しているのか、眼下の町並を見下ろしていた。 白を基調にした単衣に、青い袴を履いている。一と同じ、真央霊術院の制服だった。 「桃さん」 声をかけて、隣に飛び降りる。 何を話そうかと考えながら走って来たのに、彼女が笑うのを見ると、どう返していいのか分からなくなるのはいつものことだ。 「お疲れさま。何か見つけた?」 両手を柵にかけ、にっこりと見上げて来たその顔はあどけなく、一は無言のまま首を振った。 虚を見つけたところで、首を振っていただろう。一には、桃が戦士の端くれだとはどうしても思えなくなる瞬間がある。 金髪だが、光の加減によっては銀に見えるほど明るい色をしている。 髪の重さが色で変わるわけもないのだろうが、風に巻き上げられ宙に舞うのを見ていると、一の黒髪より明らかに軽やかだ。 顔は小さく、白粉をつけたように肌は白く、少し大きめでぷっくりとした分厚さのある唇は愛嬌があり、 隠しごとをしない彼女の気質を表しているようだ。 全体的に色素が薄い外見の中で、その目だけがハッと驚くほどに濃い青をしていた。 だから初めて「日番谷桃」に会うと、皆その瞳に吸い寄せられてしまう。 ―― 斑目一も、その瞳に引きつけられた一人だった。そして初対面の時からずっと、引きつけられたままでいる。 「たく。こんなに平和じゃ研修になりゃしねぇ」 野卑な声が背後から聞こえ、一は泡を食って振り返った。すると、庭園の芝生に寝転がった、同じ制服が目に入った。 「銀次君。いたのか」 してみると二人きりではなかったわけだ。まあ、三人で研修に来たのだから当然ではあるが、がっかりするのは否めない。 「いたのか、じゃねぇよ。腑抜けた顔してんな、男女が」 浮竹銀次は腕を頭の後ろに回したまま、呆れたように一を見た。 気配を消していたわけでもないのに銀次に気づかなかったことを言われているのか、 桃に見惚れている横顔を見られたせいか。たぶん両方だろう。 一にしてみれば、桃のような女性を前にして、全く態度を変えずにいられる銀次のほうが謎だ。 荒野を思わせる、銀次の砂色の髪には、無頓着に寝癖がついている。 鳶色の眼光は鋭いが、意外と目が大きく、眉も太くはっきりした顔立ちだ。 大柄で、まだ一や桃と同じくらいの年なのに逞しい身体つきをしていた。 組み合わせた腕に筋肉の筋が浮かび上がっているのに、一は羨望のまなざしを向けた。 一は「男女」と揶揄されても自分で納得できてしまうほど、華奢な身体つきをしていた。 身長は低くないが、食べても鍛えても筋肉がいっこうについてこないのだ。 目は一重で細く、色白のせいもあって男のようにも女のようにも見える中性的な顔立ちだった。 美男子だと言われることもあるが、一向に嬉しくはなかった。この外見で得をしたことはほとんどない――が、 唯一、束ねるほど長い黒髪を切らなかったのは、桃に綺麗だと褒められたことがあるからだった。 一は、気を取り直して銀次に向き直る。 「いいじゃないか、現世に虚が出たら、すぐ対処しないと大変なことになる。人間の戦闘能力は無きに等しいんだし」 実際、ひと昔前のこの空座町では、2・3日に一体くらいの割合で虚が人間を襲っていたらしい。 重霊区とはいえ、それではあまりにも多すぎる。今では、年の数体の虚が現れる程度で、常駐の死神がいなくなるのも時間の問題らしい。 銀次はがば、と起き上がると、くるりと胡坐を掻いた。さっきまで眠っていたのか、寝癖がひどくなっている。 「これじゃ、俺らがいくら鍛えようが宝の持ち腐れだって言ってんだ。破面が出るかと思って楽しみにしてたのに」 「破面なんて、もう虚圏にしかいないって」 「行って来るか!」 それもいいな、と立ち上がった銀次を、一は慌てて止めた。銀次は言ったことは必ずやろうとする。 放っておけば虚圏に戦いを挑みに行きかねない。 「君だって習っただろ。死神と破面は130年前に共闘してから、表立って敵対してないんだ。 破面が虚圏で暮らしている限り、死神は干渉しないっていう暗黙の諒解があるんだよ。そんなところに押しかけてみなよ、 死神たちにも迷惑をかけるだろ」 「つまんねー奴だな、お前……」 銀次はうんざりした表情で一の長口上を聞いていたが、ため息をついた。 「敵がいねぇなら、こんなところでゴロゴロしてても仕方ねぇ。帰るぞ……おい、桃!」 桃は二人に背を向けたまま、さっきと同じ体勢で、まるで空気の匂いを嗅ぐように顔を上げていた。 その時、突然なにもない青空に、白い影のようなものが浮かぶ。 それはあっという間に輪郭を形作り、体長3メートルはありそうな、巨大な虎の姿となった。 白虎ではない……青くさえ見える、まばゆい銀色の体毛を持つ虎だ。 「銀虎(ギンコ)!」 一は思わずその名を呼ぶ。日番谷桃の斬魂刀「銀虎」が具象化した姿だが、いつ見ても美しい。主人と同じ、真っ青な瞳をしていた。 獰猛な虎のような獣にはふさわしくないが、桃を目指して降りて来た姿には「舞い降りる」という形容がよく似合った。 桃が手を伸ばすと、虎は巨大な頭をすりつけた。 その背中の毛が、わずかに立ち上がっている。警戒しているのか? 桃はそっとその背を撫でた。 「なにかくる」 桃の言葉は短かった。そして、柵の上に立ちあがる。青い袴の裾が、風にはためいた。 その頃には一も、何とも言えない嫌な気配を感じ取っていた。 虚のような、薄ぼやけた気配ではない。明確な悪意を持った、ぞくぞくしてくるような禍々しい気配だ。 「何だってんだ?」 銀次が斬魂刀を抜き、一と桃を追い越して中空に立った。 はじめは、ポツリ、と空中に黒い染みが浮かび出たように見えた。 「虚……いや、破面か?」 一は斬魂刀を引き抜いた。破面だったら、卒業間近とはいえ、学生が勝てるような相手ではない。 黒い染みが広がるのを見つめながら、一はこの場合に有効だろういくつかの鬼道を心の中で思い浮かべた。 戦いたくは――なかった。特に一は、肉弾戦や剣術は苦手なのだった。しかし、桃に情ない姿を見せる訳にもいかない。 黒い染みは見る間に、直径5メートルほどに膨らんだ。もはや染みというより、黒い穴と言った方が正しい。 穴の奥は、ただ暗いばかりで何も見えない。しかし耳を澄ませば、風が鳴るような音が聞こえる。 銀虎が、歯をむき出して低く唸る。全く異質な世界からの空気が、その穴からは漏れだしていた。 生温かい、全身の毛が立ち上がるような嫌な風が吹いて来る。 黒腔ではない。となると破面や虚ではない。もちろん死神でもない。 「まさか」 一が消去法でその可能性に行きあたった瞬間、その穴から突如、巨大なけむくじゃらの腕が飛び出した。 「避けて!」 鋭い桃の声が、周囲に響き渡った。 「誰が……」 誰が避けるか、と言いたかったのだろう。銀次が斬魂刀を振りかぶった。 しかしその腕は、予想していたよりも遥かに速かった。銀次を掠り、その掌が一と桃を襲う。 1メートルはありそうな巨大な爪が、ギラリと陽光に光った。間一髪、一と桃は瞬歩で姿を消す。 その爪は、屋上庭園の一角に食い込んだ。とたん、その手が触れたところから黒く変色し、ぼろぼろと崩れ落ちて行く。 悪臭が周囲に漂い、一は思わずせき込んだ。吸い込むと、喉や肺がズキリと痛む。 「地獄……か?」 一達を掴みそこなった腕は、空中で蠢いている。まるで蜘蛛の足を思わせる黒い剛毛がびっしりと生えていた。 長さだけで十メートルはあり、その太さは大木のようだ。こんなものが打ち当ったら即死だろう。 そして、その穴の向こうに、獣のような光る目が二つ、見えた。自分たちを狙っている――戦慄が全身を貫いた。 一も教科書でしか読んだことはないが、ソウル・ソサエティと接しているのは王廷、虚圏、現世、そして地獄の4つの世界しかない。 地獄の番人は「獄門」と呼ばれ、地獄に堕ちた者たちが脱走した時に、その巨大な腕で捕え、地獄へ引きずり戻すのだと言う。 地獄には瘴気がこもっており、外界の者が吸い込めば肺が腐り落ちるとも言われている。 「銀次! 大丈夫?」 桃の声に、一は我に返った。 「どってことねぇ」 前を向いたまま、銀次が返す。その右肩の辺りから、ブスブスと煙が上がっている。 着物の袖から覗いた右の手首に、血が伝い落ちている。銀次が無言で刀を左手に持ち替えたのを見て、傷が深いのは推測できた。 屋上庭園は今や、音を立てて崩れつつあった。はるか下の方で、異変に気付いた人間たちの悲鳴が聞こえてくる。 「退くんだ、銀次君! 僕らが勝てる相手じゃない!」 「じゃあ逃げるか一? 逃げたら、そこにいる人間たちがこいつを倒すのかよ? 今ここで、戦えるのは俺たちしかいねぇんだぞ」 「銀――」 雄叫びを上げ、銀次が斬魂刀を手に、巨大な腕に斬りかかる。 掴もうと襲ってきた爪を、刀で受け止めた。金属音が響き渡り、刀を爪の間で火花が散った。 ―― 受け止めた? 力勝負では負けていない。一が目を見張った時、銀次の刀に異変が起こった。 見る間に、黒い煙が上がったのだ。気づいた銀次は爪を足で蹴り、更に前に出た。 「バケモンだろうが、目は急所だろ」 「馬鹿! 穴の中に飛び込むな! 先は地獄だぞ!」 叫びながらも、分かっていた。腕を仮に斬り落とせたとしても、相手を猛り狂わせるだけの結果かもしれない。 少ないチャンスならば、多少の危険を冒してでも急所を狙った方が確実だ。 銀次が穴の縁に足を掛け、中に踏み込もうとした時だった。 「うっ?」 伸びて来たもう片方の腕が、その胴体を直撃する。悲鳴を上げる間もなく、銀次の体は背後に吹っ飛ばされた。 「危ない!」 その背中が背後のビルに突っ込む直前、瞬歩で駆けつけた一がその体を受け止めた。 「馬鹿野郎、人を庇ってる暇があったら戦えってんだ」 悪態をつきながらも、さすがに銀次は苦悶の表情を浮かべている。 腕が直撃した胴体からは黒い煙が上がり、肉が焼ける嫌な匂いがした。 吹き飛ばされただけ幸運だったと思う。あの指で掴まれれば、命はなかっただろう。 一は再び瞬歩でビルの陰に移動した。火傷がどれくらい深いか分からないが、すぐに治療する必要がある。 「銀次! 一。大丈夫?」 ふわり、と舞い降りて来た影は、銀虎だった。その背にいた桃が、するりと背から滑り降りる。 「桃さん頼む、瀞霊廷に連絡してくれ! 僕は銀次君の傷を鬼道で治す。誰か来てくれるまで、なんとか時間を稼がなきゃ」 そう言い終わるか終わらないかのうちに、背後のビルに震動が走る。振り向いた時には、ずるり、と音を立てて溶けていた。 溶け残った部分が、地面へ落下していく。人々の悲鳴と共に、地上のあちこちから真っ赤な炎が上がった。 炎がじりじりと下から焼けつくようだ。空を見上げると、その爪先がまっすぐに一達三人を狙っている。 ―― どうする!? どうする…… 混乱が喉の奥からせりあがって来る。言い慣れたはずの治療の鬼道も、何度となくつっかえた。 このまま騒ぎが大きくなれば、人間にも死者が出る。たとえ学生とはいえ、死神の端くれとして一達には人間を護る義務がある。 しかし三人が残ったところで、あれが「獄門」だとすれば、何の意味があるのだ? 死神はおろか、王属特務ですら獄門の管轄ではないはずだ。 桃はすっくと立ち上がり、斬魂刀を腰から引き抜いた。わずかに青みがかった、華奢な刃である。 「連絡するのは、かまわないけど」 すっきりとした後ろ姿だった。プラチナの髪が、風に舞いあげられている。 「でも、あいつをあたしが倒しちゃっても、かまわないでしょ?」 「……え」 一瞬、一は言葉を失った。 その間をつくように、桃は中空を蹴る。鉄骨がむき出しになった瓦礫を蹴り、一気に腕へと迫った。 「桃さ――」 呼び止める間もなく、桃の小柄な体は瓦礫の陰になって見えなくなる。炎の燃え盛る音の合間に、一は桃の声を聞いた。 「――卍解」 卍解? 一は自分の耳を疑う。次の瞬間、モノが切り刻まれる重々しい、嫌な音が響いた。 そのあとを追うように、長く甲高い、怖気を振るうような悲鳴が続く。 一は銀次を支えたまま、身を乗り出した。瓦礫の向こうに、巨大な腕が堕ちて行くのが見えた。 その前腕が、まっすぐに斬り落とされていて、切り口が見えている。漆黒の血が飛び散ったが、すぐに黒い霞となる。 その腕だったものも、中空で霞となって消え失せた。 「獄門、退いたわよ。腕一本で逃げ帰ったのは運が良かった」 逆光になっていて顔は見えないが、桃が刀を肩に担ぎ、自分たち二人を見下ろしている。 そして一と目が合うと、にっこりとまた、あどけない笑みを浮かべた。
2012/7/8