一番隊舎の窓から外を見ると、真っ黒い雲が西の空に広がっているのが見えた。
東の空はまだ青空のままだったが、夕方には瀞霊廷にも雨が降るのだろう。
雨が降る時間帯、はたして僕は無事でいられるのだろうか? 一は、廊下を歩きながら弱気なことを考えていた。

隊首会には隊長のみが参加する。それは考えるまでもなく当然だと思っていたが学生が、まさか自分が呼ばれるなど。
隊首会は、中央四十三室がかつての権力を失い、死神がその機能を補うようになった今、名実ともに瀞霊廷最高の意思決定機関となっている。
そんな場所に呼び出され、本来戦ってはいけないとされている「獄門」について問いただされることになるのだ。
怯えるなと言う方が無理だった。
「……おい、一。そんなビビんな。何も取って食われるわけじゃねぇんだから」
緊張してカチカチになっているのに気づかれたのだろう、恋次が肩越しに一を見下ろし、とりなし顔で言った。
「は! はい、申し訳ありません!」
「別に、謝るとこでもねぇよ」
申し訳ありません、ともう一度謝りそうになったのを、慌てて止める。恋次は視線を宙に浮かせた。
「そういえば、お前の親父さんも今日は来てたぞ。更木隊長の代理で」
だから安心だ、と恋次は言いたかったのだろうが、一にとっては安心どころではなかった。
逆に、胃の中が、漬け物石を落とされたかのように重くなる。

「斑目三席がいるならいいな! 『獄門』と戦ったことを褒めても、責めたりしねぇぜ、あの人なら」
だからまずいのだろうに。一の心の声に気づくことなく、銀次は嬉しそうだ。
「お前はもうちょっとビビれ」
それに対しては恋次もあきれ顔だ。
桃は、と見ると、まるで日向に寝転ぶ猫のように、いつも通りの自然体だ。
「大丈夫か」も、「僕がついているからね」、という一言も無駄に思えるほどにリラックスしている。
この華奢な少女が斬魂刀を振るい、あの「獄門」を撃退したなど夢の中のように思えてくるが、
猫が獲物を捕える瞬間だけ全力を出すようのと同じようなものなのかもしれない。

恋次は隊首室の部屋の前に立つと軽くノックし、薄く扉を開けた。
そして中を覗き込み、誰かと視線を合わせて軽く頷くと、三人を振り返った。
「いいか、起こったことをそのまま話せ。誰も罰するつもりで呼んじゃいねぇからな。落ちつけよ」
最後の一言は、一にだけ向けられた言葉だったかもしれない。
扉の中からは、入ろうとする者を押し戻すような異様な空気が流れて来る。
恋次の掌を背中に感じ、一は半ば目を閉じて部屋の中に入った。


**


隊首室に入って初めに耳にしたのは、穏やかな低い男の声だった。
「――で。流魂街で頻発してる闇討ちについては、七番隊に任せる。頭数が足りなきゃ、霊術院の学生を駆りだしても構わん」
「は」
畳の場に座していた狛村隊長が、その巨体を曲げて頭を下げる。
その体の向こう、両側に居並ぶ隊長たちの一番上座で胡坐を掻いた男に、一の視線は吸い寄せられた。
「……お父さん」
ぽつりと、桃がつぶやく。

実質、ソウル・ソサエティで最も権力を持つ男、日番谷冬獅郎。一番隊と十番隊の隊長職を兼任もしている。
これほど、近くでその姿を見るのは初めてだった。元々、あまり死神の前に姿を現すことはないらしい。
奥に籠っているからではなく、様々な世界を縦横無尽に行き来しているために、瀞霊廷に滅多にいないからだと桃に聞いたことがあった。
一目見て思ったのは、
――若い。
ということと、
――目が、桃と同じだ。
ということだった。

人間で言えば、まだ十代の終わりくらいに見える。少年と、成人男性の中間といったところだ。桃のような娘を持つ父親には到底見えない。
それに、これくらいの年齢なら、一般的には死神の駆け出し程度だ。それなのに、ほんの子供のころには既に隊長で、今や総隊長というから凄いと思う。
銀色の髪は天を差し、全身は鋼のように鍛え上げられているのが着物の上からでも分かる。
そして、順番で言えば逆なのだろうが、桃と同じ異様に力のある目をしている。
桃よりもやや深い色合いの、その翡翠の瞳で見つめられたら、頭が真っ白になってしまいそうだ。

ただし――意外に思ったのは、決して全身隙なし、という訳でもなさそうなところだった。
幼いころから天才だったとか、頭脳がずば抜けていたとか、戦闘能力が高いとか言われると、襟一つ乱さず塵も残さず、嫌味なほど隙ひとつない男を想像していた。
が、胡坐に頬杖という体勢か、少し襟元が緩んだ隙間なのか、どことなく子供っぽさを残した目が原因なのか、完璧という雰囲気ではない。
ただ、その隙がある感じが何ともいえず、全身から立ち上るような妙な艶っぽさを醸し出している。
妙に周囲を引きつけてやまないような――少なくとも一は、こんな不思議な魅力を持つ男を初めて見た。

油断するな、と一は気持ちを引き締める。
過去百万年も瀞霊廷のトップの座に君臨し続けた中央四十六室を、その座から引きずり落としたのはこの男だと言う。
その時の動きを買われ、直々に王廷から総隊長の座についたとも。王廷との長い関わりも指摘されている。
若々しいが老獪。激情家だが冷静。そして品性がありながらも同時に野卑。
いくつもの顔を持つと噂される彼は、何にしろ一筋縄でいく男ではない。


日番谷冬獅郎は、胡坐を掻いたまま頬杖をついた格好で、隊長達から少し離れた場所に両手をついて座った三人を順番に見た。
ふぅん、とその口角が上がる。
「お前ら、何をやらかしたんだ」
怒っている風には見えない。むしろ面白がっているような調子に、一は少しホッとした。
「そういう時はまず、怪我はないか、でしょう」
後ろに控えていた日番谷の副官、乱菊がその耳元に呟く。
とはいえあけっぴろげな声なので隊首室全体に聞こえている。蜂蜜色の髪に紅色の唇を持つ、見るからに仇っぽい女性だ。
ちらり、と一は隣の桃を見やった。母親と同じように美人だし、顔も似通っているが、雰囲気が全然違う。
「見れば分かんだろ」
「そういう問題じゃなくて。こういう場じゃ挨拶代わりですって」
日番谷は面倒くさそうに三人をもう一度見た。
「怪我はねぇか?」
思わず、桃が吹きだした。どうやら、初め思ったようにあまり怖くはないのかもしれない。

しかしやや余裕ができて周囲を見渡した瞬間、京楽の隣に座した一角の存在に気づいて慌てて目を伏せる。
直接見ていなくても、きつく睨まれているのは分かった。

「笑っておる場合か。隊首会の最中だ」
厳しい女性の声に、さすがの桃も首を縮める。二番隊隊長・砕蜂が、腕を組んで三人を睨んでいた。
は、と銀次が、両方の拳を畳につけたまま答える。さすが、多くの弟妹を持つ長兄だからか、貴族の生まれだからか、立ち居振る舞いがしっかりしている。
「申し訳ありません。さきほど現世で研修中に、『獄門』と思われる敵に遭遇し、交戦しました」
「……やはり、本当なのか」
砕蜂が腕をほどいた。その場の隊長たちがざわざわと言葉を交わし合うのを見て、嫌な予感が戻って来る。
「お前たちが無事だということは……『獄門』はどうしたのだ」
「……腕を斬り落としたら、元の世界に戻って行きました」
桃が小さいながらもはっきり通る声で告げると、ざわめきは大きくなった。
乱菊が眉をひそめたが、日番谷は思うところがあるのか、表情を変えないままだった。
「おい、『二』。お前はどうなんだ。何やってた」
恐れていた声が聞こえたのはその時だった。一がそっと顔を上げると、父親が思った通りの不機嫌な表情で見下ろしていた。
一は、何とも答えられずに口ごもる。父親である斑目一角に見据えられると、いつもそうなってしまう。
「ケッ、何も言わなくていい、臆病者が。お前なんぞに『一』なんて名前をやるんじゃなかったぜ。『二』で十分だ、お前は」
一という漢字が好きだから息子に一とつけ、気に入らないから二に変更、など一秒も考えずに物事を決める一角を、父親ながら短絡的だと思う。
でも一は、自分とは何から何まで違うこの父親のことが、理屈の外の感情で好きだった。

ごほん、と咳払いとも咳ともつかない音に一角が黙った。白髪の男、浮竹十四郎が、三人に笑いかける。
「まぁまぁ、いいじゃないか。一君は銀次が大苦手の鬼道が得意なんだから。今回だって助けられたんだろ? 銀次」
「はい」
銀次が大伯父に向き直る。
「お礼を言っておけよ」
「アリガトウゴザイマス」
ぺこりと頭を下げられて、一のほうが動揺する。昔から銀次は、暴れ者の癖にこの大伯父に対しては妙に素直だ。
しかしそれでも、一角の不機嫌は収まらなかった。ダン、とその場を蹴って立ち上がる。
「鬼道なんて男の戦法じゃねぇよ! 女みてえな顔しやがって。ちょっと来い、二!」
大股に歩いて来る一角を前に、一は逃げることもできずに身を縮こまらせた。
襟首を掴まれて放り出され、修行という名前で足腰立たないほどに殴られるのかもしれない。
一は半ば覚悟して待ったが、いつまで立っても拳は振って来なかった。それどころか、ふと気づけば足音もしない。
「な……んだ? こりゃ」
一角は、数歩歩いたところで立ち止っていた。その胴体に、半透明の鎖が幾重にも巻きつき、動きを封じている。
「――鎖状鎖縛」
思わず一は、その縛道の名前を口にしていた。一体誰が……そう思った時、すらりと隊首室の扉が開いた。
「志波先生!」
一と桃、銀次の声が重なった。
扉に手をかけて立っていたのは、黒髪で色白、長身に眼鏡をかけた学者風の男だった。
志波九葉。一たち三人の担任にあたる男だ。まだそれほどの年でもないのに、特進学級の担任を任されている。
温和な気質で人情に篤く、誰にでも丁寧に接する事で信頼を得ている人物だった。

志波は鬼道の達人でもある。一は固唾を飲んで見守ったが、一角は汗を流しながらも鬼道を振りほどけないでいる。
鬼道が得意な一でも、この破道を使っている時は一瞬でも意識を逸らせない。それほど高度な鬼道といえる。
しかし志波は術を保っているのを忘れたような平静な顔で、日番谷に向き直った。
「許可を得ずに入室し申し訳ありません、総隊長。生徒達が心配で、飛んでまいりました」
「千客万来だな」
日番谷は認めもしなかったが、かといって非難の目を向けるでもない。やはり面白がっているように見える。
どうやら、志波が向かっていることには当に気づいていたようでもあった。

「離せ、てめぇ!」
怒鳴った一角を、志波はちらりと見やる。
「離せとはおかしなことを仰いますね。鬼道が男の戦法でないのなら、軽くあしらえるのではないですか? 何なら、鬼道だけでお相手しましょうか」
「……野郎、言いやがる」
ピシッ、と半透明な鎖にひびが入る。
「呆れた。力づくで縛道を破る気?」
日番谷の後ろで見守っていた乱菊が、身を乗り出す。
「一君には、鬼道の天賦の才もある。何より、人を護りたい意思もある。私が誇りとする生徒の一人です」
きっぱりと言った志波の額に一筋、汗が流れた。

「その辺にしとけ」

ぷつ、と張りつめた糸が切れたように、一角と志波が飛び離れた。一角の周囲から鎖が消え、一角はうっとうしそうに腕を払い、日番谷を見やる。
「……総隊長。でも」
「ここで戦われたら一番隊舎が吹っ飛ぶ。建て直しはお前ら二人にやってもらうぞ。木を切り出すところからだ」
「そこからスか」
二人で木を切り倒すところを想像したのか、一角がげんなりした顔をした。
「そんなことより、話を戻すぞ。さっきの『獄門』のことだがな」
日番谷は何もなかったかのように、三人を見やる。
「『獄門』が現世に現れるのは、よくあるとは言わねぇが、あり得ないことじゃねぇ。地獄に繋がれた者、繋がれるべき者が現世に現れた時、
その気配に引かれて現れる。そして、その者達を捕えたら地獄に帰る。奴らに意思はねぇ。自然現象みてぇなもんだ」
「自然現象」
思わず一は呟いた。随分アグレッシブな自然現象もあるものだと思う。ふぅん、と鼻から声を漏らした男を見やると、京楽だった。
女物の着物をゆったりとまとい、簪を差した洒落者の隊長だ。
普段は飲んでいるか、女性隊士と話して鼻の下を伸ばしていることが多いと聞いているが、近くで見るとやはり近寄りがたい迫力があった。
「そりゃ、王廷で得た知識かい? 日番谷君。今の話だと、地獄からの脱獄者が現世にその時いたってことかい」
「脱獄とも限らねぇけど、大体そういうことだ」
京楽の言葉に、日番谷は頷いた。
「……もしかして、あたしたち」
桃がここに来て、まずい、という顔をする。日番谷はため息をついて娘を見た。
「『獄門』は死神でも、王属特務の管轄でもねぇ。理由は強いからもあるが、奴らの目的を止める理由がねぇからだ」
その時には、一にも分かりつつあった。
つまり、「獄門」は脱獄者を捕えに来ただけで、それを撃退してしまったということは、脱獄者はまだ捕まらずにいるのではないか?
「で……でも」
一は思わず口を挟んだ。その場の全員の視線が集まり、一瞬口ごもったが、半ば無理やり言葉を続ける。
「あの『獄門』は、現れてすぐ、僕らに襲い掛かって来ました。地獄からの脱獄者を探しているようには見えませんでした」
「なに?」
日番谷の手が頬から離れた。
「『獄門』が、お前らを襲ってきたのか?」
「はい」
桃が頷いた。

確かにあの時、先手を打ってきたのは「獄門」だった。
―― 避けて!
そう叫んだ桃の声は、まだ耳に生々しく焼きついている。

日番谷は、さっきまで見せなかった真剣な表情で、考え込んでいる。
「……三人共に襲い掛かって来たのか? そうでないなら……」
「一体誰に襲い掛かって来たんだ?」予想した問いは投げかけられず、日番谷は口をつぐんだ。
自分が言った言葉が、思いがけず総隊長に響いたのを見て、一の胸がまた高鳴り始める。
やがて日番谷が短い考え事から顔を上げた時、一は思わずびくりと震えた。
「とにかく、『獄門』との交戦は不問とする。お前らは、しばらく現世に出るな」
「え! せっかく、実戦の研修中だったのに……」
「実戦じゃない、魂葬の研修だ」
残念そうな顔を隠せない銀次に、志波が訂正する。
「実戦がいいなら……狛村。さっき話してた闇討ちの件、こいつらを連れて行け」
「は」
狛村が頭を下げるのを見て、銀次は目を輝かせた。
「闇討ちですか! 一回してみた……いや、狩ってみたいと思ってたんです、やります!」
「やってはならぬぞ。来たければ、構わぬ」
「はい!」
銀次が立ち上がる。本当に戦いが好きなのだ、とうらやましくなる。志波がちらりと三人を見下ろした。
「その前に、今日の午後の分の補講を受けろよ、お前ら」
「ぐっ……」
そういえば、「獄門」の騒動のせいで、午後の授業をまるまる欠席してしまったのだ。
卒業が近づいているこの時期、特進学級に欠席してもよい授業はない。

「もういい。学校に戻れ」
日番谷の言葉に、志波と三人は頭を下げる。日番谷は、そんな一達を少し目を細めて見た。
「……お前ら、仲間は大事にしろよ」
どうしてかは分からない。でもその言葉に感情がこもっているのが分かり、
「はい!」
返した三人の声は重なった。
「お……総隊長」
立ち去り際、急に桃が日番谷に向き直った。きっと「お父さん」と呼びかけそうになったのだろう。
「なんだ」
日番谷の声は平坦で、この場だから当然だろうが親子には見えない。しかし、
「あたしを現世に行かせてください」
続いた言葉に、日番谷は片眉を跳ね上げた。
「桃!」
日番谷が何か言う前に、乱菊が娘を窘める。しかし桃は、跳ね返すように首を振った。
「あたしが『獄門』を追い返したせいで、地獄に堕ちるはずの犯罪者が現世にまだいるかもしれないんでしょう?」
滅多に見せない、思い詰めた顔をしていた。日番谷はじっと桃に目を据えたが、やがて首を振った。
「通常ならそうだ。でも、お前たちを襲った以上、他に理由があるのかもしれん。それは、俺が直接先方に確認する。
現世には、後始末に大勢の死神が行ってる。お前達が行く必要はない、分かったな」
有無を言わせぬ口調だった。志波が桃の背中を押し、扉の方に進ませる。
桃は何か言いたそうだったが、そのまま連れられて外へ出た。

2012/7/16