縁側の上の座布団にのんびりと身体を伸ばし、夜一はくぁ、と大あくびをした。
吹きこんでくる風がそよそよと、うっとりするほどに心地よい。
やれやれ、と顎を座布団の上に伸ばす。
明らかに油断しきった格好をしているからと言って、夜一が縁側に少し前に現れた気配に、気づかなかったはずはない。
とっくに気づいていたが、相手が敵ではなく、かつ眠い、という理由で放置していたのだ。
衣擦れのような、ほんのかすかな音が聞こえる。朝日を遮って目の前に現れた影に、目をつぶったまま声をかけた。
「なんじゃ、日番谷か。一体なんの用じゃ、朝っぱらから」
返事は、ない。しゃべれないのだから当然か、と薄眼をあける。
人間の両掌にすっぽり入ってしまいそうなサイズの子猫が、きちんと座って夜一を見下ろしていた。
耳は小指の先くらいのサイズしかないがピンと立ち、目は透き通りそうに青い。ふわふわとした銀色の体毛が、全身を覆っていた。
―― か、可愛い。
夜一は思わず絶句した。あまり周囲に対して「可愛い」と思うことがない夜一でさえこうなのだから、世の人間が見たらきゃいきゃい騒ぐだろう。
ひょんなことから、浦原家にいる黒猫の正体が自分だとばれ、その場の成り行きで変化を教えることになった。
―― 「一回でできたら教えてやる」
そう言ったのは、この四楓院家の秘術が、赤の他人にそうそう会得されるはずがないと高をくくっていたからだ。
一回なんて絶対に無理だと思っていた。だから、一回で成功してみせた時には「失敗した」と思った。が、今さら仕方ない。
ただし、夜一と日番谷の変化の術には、夜一が知る限りふたつの大きな違いがあった。
一つは、夜一は成猫だが日番谷は子猫だということ。
日番谷がひそかに、人間の自分が成長したのに猫の姿は子猫のままだと、気にしているのを知っている。
―― 当然じゃ。
夜一はひそかに思う。
実際のところ、夜一が大人だから成猫になり、日番谷が子供だから子猫になる、という前提からして違っている。
成猫になるなら成猫用の、子猫になるなら子猫用の術があるだけの話だ。
―― 日番谷には子猫のなりかたしか教えておらぬしな……
教えなかったのは、単純に夜一の趣味だった。いやがらせ、とも言う。
二つ目の違いは……
夜一が小首を傾げて自分を見下ろしている日番谷(子猫)を見上げた時、
「なーんか今、噂されてたようですよ。日番谷サン」
浦原が小さな皿をふたつ重ねて持ってきた。もう片方の手には牛乳パックを持っている。
「ミルクいります? 夜一サン、日番谷サン」
「いらぬ」
夜一はにべもなく断ったが、日番谷はそっぽを向いた。
「相変わらず、しゃべれないんですねぇ。でもアナタの場合、その方が可愛いですけど」
子猫の両脇に手を差し入れ、持ち上げる。とたんに小さな前足がひらめき、その顔面をバリリと音を立ててひっ掻いた。
「痛い! 細い爪が余計痛い!」
ヒイヒイ騒ぐ浦原を尻目に、夜一がまた欠伸をした。
「全く、うるさいぞ喜助。おちおち昼寝もできぬではないか」
「昼寝って夜一サン、アナタさっき起きたばっかりでしょう」
「いつ寝ようが儂の勝手じゃ」
そう言いながらも夜一はぐいんと背中を伸ばすと座布団の上に置き直り、日番谷を見返す。
「しかし、しゃべれぬでは不便だのう。何をしにきたのかも分からぬ。ほれほれ。何か喋ってみい」
近付くと、嫌そうに顔を遠ざける。しかしどれほど嫌そうな態度を取ろうが、凶悪なまでの可愛らしさの前に、全く威力がない。
猫の鳴き声は出せるはずだが、にゃんとも言わない。もちろん、人間の言葉も話さない。
浦原が、ひっ掻かれた鼻を撫でながら二匹を見下ろした。
「しゃべるのは、声帯が関係ありますからねぇ。ちょっとこれは練習がいりますよ」
「しょうがないのう、詰めが甘い奴じゃ。さぁ、見ていてやるから練習してみい」
「…………」
「……というかお主、本当に何の用で来たんじゃ?」
何か言いたいことがあって来たのだろうに。やって来てみたら、しゃべれないことを思い出した、という落ちではないだろうなと思う。
「埒があかんのう。それなら人間の姿に戻ればいいじゃろ?」
「変化を解いたら素っ裸じゃないですか」
浦原が口を挟んだ。
「なんじゃ? それで元にも戻れんで困っておるのか。男のくせに、だらしない奴じゃのう」
ふふん、と夜一は鼻で笑うと、浦原が止める間もなく、変化を解いた。
……一瞬猫の姿がブレたかと思うと、もうそこには人間の姿の夜一が座布団に胡坐を掻いていた。……もちろん、一糸まとわぬ姿で。
「あらまあ」
浦原は慣れているのか、リアクションが薄い。
日番谷は無言で耳を横に倒した。怒っているらしい。
夜一は生まれてこの方、自分の身体をよそ様から隠さなければいけないなどと思ったことはない。
相手が動揺するとすれば、相手の修練が足りないのだと思う。
「ほら、お主も戻れ! これぞ裸のつきあいじゃ」
夜一が手を伸ばすと、日番谷はその手の間をすり抜けて、逃げた。
「あっ、こらどこへ行く!」
「夜一サン、さすがにその恰好で往来にでるのはまずいっス」
浦原が夜位置を引きとめた隙に、小柄な猫の姿は縁側の下に入って、消えた。