「んー、爽やか」
棗は、店の引き戸を開け放ち、暖簾をかけるとよく晴れた空を見上げた。
昨日は夏だったのに、一晩にして秋へと季節が変わった。
「棗ちゃん、おはよう。いいお着物ねぇ」
近所の八百屋のおかみさんが、自転車で駆け抜けざまに声をかけてくれた。
「おはようございま……」
言い終わる前に自転車はさっそうと走り去ってしまう。涼やかな秋の風だけが後に残された。

今日は、さっぱりした青の小紋を着ていた。縦に白のストライプが入っている。
そして、白が地色の、秋の小花をあしらった名古屋帯を締めていた。
台風一過の今日の天気にふさわしい着物を、と思ったのと……今朝は少し気持ちがはずんでいるから。

季節に変わり目に、いつも「なつめ堂」を訪れる不思議な少年。
初めてこの店に来た時は、大人の表情をしていても頬のあたりにあどけなさが残る、まだまだ男の子だった。
でもこの2年弱で、会う度に薄皮が一枚一枚めくれるように、明らかに成長していくのが分かるようになった。
少しずつ伸びている身長の変化や、ふと見下ろした指の男らしい骨ばった感じに、はっとすることがある。
そして、何よりまなざしが強くなった。
―― 「成長した? そうか?」
前の夏の初めに、彼の背後にまわってお勧めの着物をあわせていた時、彼は振り返って少し首を傾げた。
―― 「あんまり実感ねぇけど」
―― 「わたしは、たまにしか会わないから。よく分かるよ」
去年買った着物も、肩上げをやり直した方がよさそうだ。身長もそうだけれど、身体全体に筋肉がついて逞しくなっている。
―― 「この腕で、あんな刀を扱えるってすごいね」
死覇装、と呼ばれるらしい黒い着物に着替え直している彼の腕をちょん、とつつく。固い筋肉の感触がした。
彼のもっていた刀は、身長の三分の二くらいありそうな長さだった。重さもそうとうなものだと思う。
―― 「まあな」
帯を締め直した彼は、ふと戸棚の上に置いてある金魚鉢を見やった。
おととしの夏の終わり、彼が松本乱菊さんと一緒にやって来た時、おいていった小さな赤と黒の金魚。もう小指くらいのサイズに成長している。

彼の身体には、いくつか古い傷跡が見える。初めて見た時には息を飲んだほど、ひどいものもあった。
特に、左の二の腕には、ちょうど一周、ぐるりと輪のような傷跡がある。棗には怖くて聞けないが、これは腕を斬り落とした、ということだろうか?
もう傷跡は薄くなってきているが、それでも次から次へと新しい傷は消えない。
逞しくなった裏にはきっと、そうならざるを得ない過酷な理由があるのだろう。
彼には棗には見せない顔があり、今こうやってなつめ堂に来ている時は、ほんの休息中にすぎないのだろうと思う。

そんな彼は今、金魚に餌をやっている。
―― 「何、笑ってみてんだ?」
にこにこしながらそれを眺めていると、不思議そうに聞かれた。
―― 「ううん」
―― 「変な奴」
刀を毎日のように扱っているからだろう、皮膚のところどころが固くなっているその掌が、そんなことにも使われているのがなんだかほっとする。
小さな口をいっぱいに広げて、水面の餌を吸い込んでいる金魚を、無心に見つめているその横顔は、まだまだ少年のもので。
そんな姿を目の当たりにしていると、この店にいる間だけでも子供のままでいてほしい。そう思ってしまう。
刀のことを言われたのが気になっていたのか、日番谷はふと口を開いた。
―― 「あの刀の長さと釣りあおうと思ったら、180センチはなきゃいけないらしいけどな」
―― 「ひゃ、180センチ!?」
そんな日番谷は想像したくない……というより、できない。
―― 「ねぇ。そう早く、成長しなくていいと思うよ」
―― 「なんでだ?」
―― 「その着物。お気に入りって言ってくれたけど、着れなくなっちゃうよ」
子供のころに身につけた着物が、大人になると着られなくなるのと同じように、その時々でしか味わえないものもある。
そう言うと、あの特徴的な翡翠色の目を少し丸くして、
―― 「棗って、意外と年寄り臭ぇ」
と年相応の子供っぽい声で、言われたのを思い出す。
季節がまたひとつ廻った。冬獅郎くんは、また少し、大人になっているだろうか。


そして、今日はあらかじめ来ると決まっている客が一人いた。いとこである、村上栞(しおり)だ。
棗の母の兄、つまり伯父の子供にあたる。実家が棗は関西、栞が東京だったこともあり、幼いころに何度か会ったきりだった。
でも棗が上京し、アンティークきもの屋を始めてからは付き合いが増えてきている。
栞の実家は寺で、住職の伯父はもちろん、その家族も和服を着る機会が多いらだ。
昨日、伯父と栞のよそ行き用のきものを見つくろってほしい、栞を寄こすからと栞の母から電話がかかってきていた。
「よそ行き、か」
伯父と栞を思い浮かべながら、考える。
伯父は厳格な人だし、年も年だからしっかりとした誂えの、正統派の着物を。
栞は着物はあまり好きではないが、本人の嗜好とは裏腹に着物がよく似合う。
あまり奇をてらったり大胆だったりする柄は、着物に人が着られてしまうことがよくあるが、栞ならうまく着こなしてくれそうだ。
どれにしようかな、と頭の中でいくつか着物のパターンを思い描きながら、店に入ろうとした時だった。

ふと、視線を感じて棗は振り返った。
すると、なつめ堂の斜め向かいの民家の塀の上に、一匹の子猫がいた。
ぴたりと足を止めて、棗のほうを見つめている。
「……可愛い」
思わず、そう声をあげていた。棗の両手の中にすっぽり収まるくらいのサイズだった。生後一か月も経っていなさそうだが、親猫は周りにいない。
一見白猫だが、よく見えると光の加減か、銀色にも見える美しい被毛をもっていた。
そして、明るい日の光の中で、その目は明るい青色に輝いて見えた。
―― あれ?
棗は、その姿に既視感をおぼえる。その色彩を、改めて順番に見た。銀色と青……?
「……冬獅郎、くん?」
棗がそう呼びかけたとたん、子猫は塀から足を踏み外し、家の内側に落ちた。数秒後、ぽしゃーん、と小さな音がする。
「あっ!」
今のは、明らかに水音だ。反射的に棗は店を飛び出していた。