「子猫が、お宅の庭に落ちたんです! 水音がして……」
いきなり矢継ぎ早に家のインターフォンを鳴らし、何事だと出て来た男性に慌てて説明する。
まったく赤の他人なら、新手の詐欺かと言われそうな状況だったけれど、顔見知りだけあってすぐに庭に通してくれた。
走り込んでみれば、ちょうど例の猫が、日本庭園の池に落ちてもがいているところだった。
普段は15センチくらいの深さで金魚を放し飼いにしているけれど、運が悪いことに昨日の台風で水かさがかなり増し、色も茶色く濁っていた。
とっさに、鹿威しの傍においてあった柄杓を手に取り、子猫を掬いあげた。
「だ……大丈夫?」
くしゃん、と何度かくしゃみをしているが、大丈夫なようだ。
頭をふった子猫が、じっ、と棗を見上げて来る。やっぱり、と思う。
その深い翡翠色の目の色といい、こちらをまっすぐ見つめて来る目つきといい、日番谷そっくりだ。
そして今、棗は日番谷と思われる子猫を手拭いにつつみ、そっと胸に抱いてなつめ堂に戻って来た。
店の中で一番日当たりのいい場所に、子猫を膝に乗せて腰を下ろした。
「あったかい?」
見下ろすと、棗の太腿に二本の前足をつっぱるようにして座り、首をかしげている。
―― なんで分かったんだ?
とでも言いたそうな仕草だ。
「冬獅郎くん?」
もう一度呼びかけてみる。すると、しぶしぶ、という雰囲気で、にゃん、と子猫が鳴いた。
なんだか身体の力が抜けてしまいそうに愛らしい声だ。うふふ、と思わず笑ってしまう。
「なんとなく、分かるのよねぇ」
ふてくされているらしい姿がどうにも可愛らしくて、また笑ってしまう。
どれほど成長したかと思ったら、子猫の姿で現れるとは。いつも日番谷は自分の想定を超えている、と棗は思う。
前に黒い揚羽蝶がやってきたと思ったら日番谷の声でしゃべったこともあるくらいだから、それと比べるとショックは小さかった。
それにしても、一体どうしてまた今日は猫の姿なのだろう。
季節の変わり目になると日番谷はいつもこの店を訪れるが、こんな姿では衣装合わせができない。
そもそも、しゃべることもできないようだ。
「……うちの子になる?」
両脇に手を入れて持ち上げて、顔の前まで持ってくる。
―― 冬獅郎くんの趣味なのかしら……
平たく言えば、とても愛くるしい。目の中に入れても痛くないとはこういうことかもしれない。
子猫……日番谷は困ったように顔をそむけた。そむけた先で、ふと視線が止まる。
その視線の先を追って、戸棚をみやった棗は、ああ、と声を上げた。
「筆談ね。ちょっと待って」
日番谷が見ている先にあったのは、硯と筆と墨がセットになった箱だった。
手拭いで拭いても、一度びしょぬれになってのだから寒そうだ。
「筆談」が終わったらやっぱりお風呂に入れてあげようと思いながら、墨汁を硯に注いだ。
そして、小筆を手にとって……はた、と行き詰った。
「持てない……よね。その手、ていうか前足じゃ」
たぶん人間の時のつもりだったんだろう、手を筆に伸ばしていた日番谷が、考え込む。
しばらく考えて、おもむろに硯の墨がたまったところに前足をつく。そして、前に置かれた白紙の上にてん、ともう一度ついた。
肉球の可愛らしい跡が、紙の上にくっきりと残る。
「あら可愛い」
棗の声に、日番谷が打ちひしがれる。
その様子がなんともいじらしくて、本人が真剣なのだろうと思うと笑っては悪いが、頬がゆるむのを止められない。
「こういうことがしたいんじゃないよね」
ひょいっ、とその身体を抱き上げる。
「とりあえず、お風呂入れてあげる。その手も、洗わないと」
戸棚の上に置いてあった「骨休め」の札を手に取る。
開店時間中に店を閉めるのは棗の信条には反するが、濡れたまま放っておけば風邪をひいてしまう。
子猫を抱いたまま、店の入口へと向かう。そして暖簾をくぐろうとした途端、向こうからやって来た人物に軽く打ち当った。
とっさに子猫を腕で庇った棗は、鼻先から相手の肩口に突っ込む形になる。
「ごめんなさい!」
開いている方の手で鼻を押さえて謝ると、上の方で笑う気配があった。
ふわり、と何とも言えない和の香りが相手から漂う。
「棗ちゃん、何やってるの」
「あ、栞ちゃん」
棗が身を退いて店の中に先にはいると、長身を屈めるようにして後から入って来たのは、詰襟の学生服を着た、高校生くらいの青年だった。
さらりと艶のある黒髪で、肌は白く、涼しげな切れ長の目をしている。
「ちゃん付けはもうやめてよ。僕、もう高三なんだけど」
「そうだけど」
つい、子供の時の癖でそう呼んでしまう。大体栞も、「棗ちゃん」と呼んでいるのだから人のことは言えない。
棗は改めて従弟を見上げた。
「それにしても早いね。放課後に来ると思ってた。学校は?」
「あるけど。僕、放課後用事あるし。遅刻するって電話しといた」
「もう、そんなので大学受験、大丈夫なの? もうすぐでしょ」
「もう二学期も半ばだし、授業始まってるし。そんなに授業出なくてもいいの」
淡々と言うと、栞は店に陳列された着物を眺め、へぇ、と声を上げた。
「すっげぇ、レトロ」
「アンティークきもの屋だもの」
「棗ちゃんが、うちに来てくればいいのに」
「えっ?」
思わず目を丸くして聞き返すと、違う違う、と手を振られた。
「僕の代わりに、父さんの娘だったらよかったのにって意味。父さん、和服すごい好きだから」
「栞ちゃんはあんまり好きじゃないものね。似合うのに、もったいない」
「一人じゃ着れないし。あの樟脳の匂いが苦手なんだ」
と言いつつ、手にとって見ている着物はどれも、伯父か栞にぴったり合うものばかりだ。
目利きで言えば、棗よりも上かもしれない。やっぱり幼いころから、着物に触れてきている人は違う。
うっかりその手つきに見とれていた棗は、腕の中のぬくもりをふと思い出す。
「ね。着物見てるついでに、店番お願いしてもいい? わたし、この子をお風呂に入れてあげないと」
「……この子?」
栞は初めて、棗が腕に抱いた子猫に目をやった。
「そこの金魚を狙ってる、この猫?」
「え? あっ!」
見下ろせば、子猫は抱かれたまま身体を伸ばし、隣の棚の上に置かれた金魚鉢に前足を伸ばしていた。
短い前足で引っ掻こうとしているが、50センチは間があいているため全く意味はない。
―― 本当に冬獅郎くん?
もしかしてただの猫じゃないのか。そんな疑念が頭をもたげてくる。
栞は見ていた着物を丁寧に畳み直すと、棗に歩み寄る。
「入る前、なんか店の中から話し声がするなぁと思ったら、まさか相手はその猫? おかしくなっちゃったのかと思った」
「う……ううん」
本当に猫だったら、そう言われてもしかたない。栞はひょい、と身をかがめて、子猫を間近から見た。
抱き上げようとしたのか伸ばした手が、不意に止まった。
「……なんだ。猫かと思ったら、違うね」
「え?」
思いがけない言葉だった。棗が見下ろすと、子猫はわずかに背中の毛を逆立てた。
怒っているのか……それとも、警戒している?
「……棗ちゃんは、すぐ変なのに懐かれるからなぁ。おい、お前。棗ちゃんに迷惑をかけるなよ」
後半の言葉は、明らかに子猫に向けられていた。子猫は少し身体を固くして、じっと栞を見返している。
「……栞ちゃん?」
棗が呼びかけると、栞は子猫からもう関心をなくしたように、うーんと伸びをした。
「いいよ」
「え?」
「だから、店番。早く行って来なよ」
ぽん、と背中を押される。釈然としない思いを抱えながら、棗はその場を後にした。
***
―― 人間用のシャンプーでいいのかな?
人間のシャンプーは猫には強すぎる、と聞いたことがある。自分の使っているシャンプーを手に取りながら、うーんと考える。
オーガニックなもので、ジャスミンの香りが気に入って愛用しているものだ。普通の人間用よりは身体には良さそうだが……
そもそも、猫用のシャンプーなど持っていないから選択肢はないし、持っていたとしても日番谷に使うのは抵抗があった。
「ちょっとここに入っててね」
檜造りの小さな洗面器に子猫を入れる。サイズもちょうどいいし、プラスチックと比べて足が滑らなくていいだろう。
と思ったとたん、子猫がひょい、と洗面器から出た。
棗が蛇口をひねろうとしているのを見て、後ずさりしている。
「……嫌なの?」
猫は水を嫌うという。そもそも、もうすでに水浸しなのだから同じだと思うが、明らかに子猫は嫌そうな顔をしている。
そのうち、フー、とでも唸りだしそうな気配だ。
―― 本当に、冬獅郎くんなの?
やっぱりただの猫かもしれない。なにぶん、相手がしゃべれないので確かめようがない。
まあ、猫だろうが日番谷だろうが、濡れているのだから洗って乾かしてやるべきだろう。
今はそこを追求しないことに決めて、棗は子猫を浴室の床に残して脱衣所に出た。タオルを何枚か出していると、座っていた猫がおもむろに動いた。
短い両足の前足を思いっきり突っ張るようにして、半開きになっていたドアを押す。あっ、と棗が声を立てる間に、ドアは閉まっていた。
磨りガラスに、子猫の小さな肉球がふたつ並んで見える。前足を下ろしたとたん、その小さな姿はふっ……と掻き消えた。
「……え?」
磨りガラスの向こうの出来事なのでよく見えなかったが、その場から離れた、とか床に伏せた、という動きではない。
明らかに、いきなり姿が消えている。
「ちょ……冬獅郎くん?」
慌てて、タオルを胸に抱えたままドアを開ける。すると、思いがけない力で阻まれた。
少し開いたドアの向こうに、裸の肩が見えた。
―― だ……
誰? そう声を立てる前に、
「閉めるぞ」
短い声がした。ちらり、とドアの隙間から、翡翠の瞳が覗く。
「きゃ……」
思わず、両手を離す。バン、と音を立てて浴室のドアが閉まった。
「棗ちゃん? 大丈夫?」
店の方から栞の声がする。
「う、うん……大丈夫!」
なにが大丈夫なのか自分でも分からないが、混乱しつつも大声で返した。
改めて見ると、磨りガラスの向こうに、さっきまではいなかった人影が見える。はぁぁ、とため息をついたのが分かった。
やっぱりあの子猫の正体は日番谷だったのか。そう思う前に、反射的に
「ご、ごめんなさい!」
と謝っていた。何も知らなかったとはいえ、これでは覗きではないか。耳が熱くなるのを感じる。
「こっちこそ、悪ぃ。……後で話す」
日番谷も、負けず劣らず気まずそうだった。